古代日本の勉強をすると必ずと言っていいほど『古事記』と『日本書紀』の名前が出てくるな。両書とも奈良時代に成立し、天地開闢で日本がどのようにでき、なぜ天皇家が日本のトップとなったのかが書かれているんです。同じ歴史が書かれているわけですが、実は『古事記』と『日本書紀』には違いがあるのは知っているか?

歴史オタクのライターリリー・リリコの前回の記事では『古事記』を中心にしたが、今回はその片割れ『日本書紀』について、『古事記』との比較もしながら解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。古代日本をテーマにすると必ず手に取ることになるのが『古事記』『日本書紀』。今回は『日本書紀』についてより深く勉強してまとめた。

1.『日本書紀』ができるまで

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『古事記』と『日本書紀』のふたつを合わせて「記紀」といいます。口を酸っぱくして言いますが、「記」と「紀」の違いに気を付けてくださいね!

さて、同じような時期につくられた『古事記』と『日本書紀』。中身だけ見ると、登場人物の名前や名前に使われる漢字が違ったりと細部に相違はあるものの、ほとんど同じことが書かれているのがわかります。

なぜ、同じようなものが二冊も書かれたのでしょうか?

その違いを比べつつ、解説していきましょう。

飛鳥時代の動乱

「記紀」がつくられる原因となったのは、飛鳥時代に起こった「乙巳の変」でした。今回は軽いおさらい程度にざっくり解説しますね。

飛鳥時代最大の権力者だった蘇我氏でしたが、その傍若無人な振る舞いに、とうとうクーデターが起こりました。クーデターの代表者は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)。のちに「大化の改新」で政治にテコ入れし、天智天皇となった皇子ですね。

中大兄皇子は蘇我氏の長だった蘇我入鹿(そがのいるか)を宮中に呼び出して暗殺してしまいます。そうして、蘇我入鹿の死を知った父の蘇我蝦夷(そがのえみし)は、自宅に火を放って自害をはかりました。これが「乙巳の変」です。

しかし、そこは朝廷を牛耳った蘇我氏の邸宅。書庫には『天皇記』や『国記』といった歴史書があり、もろともに焼けてしまったのです。『国記』のほうは救い出されたという話もありますが、残念ながら現存していないため、それが本当かはわかりません。ともかく、「乙巳の変」でそれまでにあった歴史書は焼失したということだけ覚えておいてください。

\次のページで「戦乱続きの世の中、歴史書どころじゃない」を解説!/

戦乱続きの世の中、歴史書どころじゃない

『天皇記』や『国記』は焼けてしまいましたが、すぐに新しいものを、ということはできませんでした。「乙巳の変」のあとに「大化の改新」や「白村江の戦い」が続いて、それどころではなかったのです。

「白村江の戦い」で、日本は大陸の大国「唐」に喧嘩を売ったことになります。敗戦したとはいえ、唐からの侵略を恐れた中大兄皇子は都を内陸の近江大津宮(滋賀県大津市)に遷都して、そこで即位して天智天皇となりました。そして、国防に備えるために各地の要所に水城や山城といった防御施設を建設して防人を配備したのです。

ホントに歴史書どころじゃないって感じですね。

その後に天智天皇が崩御すると、後継をめぐって天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのみこ)と、天智天皇の息子・大友皇子の間で争いが起こりました。これが「壬申の乱」です。

「壬申の乱」で勝利したのは弟の大海人皇子でした。乱の翌年、大海人皇子は即位して「天武天皇」となります。

天武天皇、歴史書を発注

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天武天皇の代になってようやく歴史書をつくるよう命令が下されます。

ところで、先述したとおり、天武天皇は「壬申の乱」で勝利して即位した天皇ですね。当時の皇位継承権は天皇の息子よりも、天皇の兄弟や配偶者の方が先でしたから、「壬申の乱」に発展するまでもなく、天智天皇の後継者はもともと「弟の大海人皇子」と決まっていたのです。けれど、大友皇子が成長すると天智天皇は宗旨替えして「息子の大友皇子」を皇太子に推すようになった、という過去がありました。天智天皇は崩御する前に枕元に大海人皇子を呼び出して「やっぱり弟のおまえが継いでくれ」と言うのですが、大海人皇子はそれを辞退して奈良の吉野へと退きます。宗旨替えされた過去もあって、実の兄でもあまり信用できなくなっていたのかもしれません。

そうして、いよいよ天智天皇が崩御すると、大海人皇子が挙兵して大友皇子と戦う「壬申の乱」が起こりました。

つまり、大海人皇子こと天武天皇は、クーデターを起こして甥の大友皇子を倒し、天皇になった、ということで。そういう事情もあって、『古事記』と『日本書紀』は天武天皇の正当性を主張するために書かれたといわれています。

大友皇子、即位していた?

天智天皇の後継者となっていた大友皇子ですが、即位していたのかどうかは謎に包まれています。

天智天皇の崩御後、大友皇子が朝廷を主宰していましたが、その期間は「壬申の乱」までの約半年と短いものでした。たとえ即位するにしても、それに関連する儀式を行えなかったことから歴代天皇とみなされなかったのです。しかし、1870年(明治3年)になって大友皇子に「弘文天皇」の追号がなされ、第39代天皇に数えられるようになりました。

ちなみに、『日本書紀』には大友皇子の即位についてはなにも書かれていません。書かれた時代が天武朝ですからね。天武天皇に不都合になりえることは書きづらかったことでしょう。

2.『古事記』と『日本書紀』の相違点

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まるで双子のような『古事記』と『日本書紀』ですが、いったいどこに違いがあるのでしょうか?

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『古事記』と『日本書紀』の編纂者と期間

『古事記』をつくらせるにあたって、まず、天武天皇は稗田阿礼(ひえだのあれ)という舎人(下級官人)に命じて、天皇の系譜の記録『帝紀』と、諸氏族の口伝の伝承を書いた『旧辞』という二つの書を読み覚えさせました。

それから天武天皇の崩御後に元明天皇の命令で太安万侶(おおのやすまろ)が稗田阿礼に語らせて編纂したのが『古事記』だ、と序文にあります。全三巻の『古事記』の編纂にかかったのはたったの四ヶ月。かなりの急ピッチですね。『古事記』が第43代元明天皇に献上されたのは712年でした。

一方、『日本書紀』は天武天皇が、川島皇子をはじめとした六人の皇族と、中臣大嶋(なかとみのおおじま)などの六人の官僚の計十二人に編纂を命令しました。「乙巳の変」で焼けて欠けた歴史書や、朝廷の書庫以外に保存されていた歴史書、国内外の資料、それに伝聞をもとにして本編が書かれたのです。

その製作期間はなんと39年!全三十巻の大長編となりました。天武天皇の崩御後、舎人親王が引き継いで『日本書紀』を完成させ、720年に第44代元正天皇に献上されます。

扱う時代はどこからどこまで?

『古事記』、『日本書紀』ともに、はじまりはまだ天地も定まらず、生き物もいない、混沌としたかたちのなかったところから書かれます。そこからようやく天地が別れて神々があらわれる「神代」がはじまるのです。

「神代」の話とは、つまり、「神話」のこと。『古事記』は全三巻のうち最初の上巻をまるまる「日本神話」にあて、残りは初代天皇となった神武天皇から第33代推古天皇までを書いています。そして、『日本書紀』は全三十巻のうち一巻と二巻が「神代」、締めは第41代持統天皇です。

どちらも神話は大切

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枝年昌 - en.wiki, パブリック・ドメイン, リンクによる

「神代」にあてられた割合を見ると、どちらも「日本神話」を大切にしていることがわかりますね。「日本神話」の内容は前回の『古事記』の記事で詳しくしましたので、そちらをご参照ください。

さて、神話や伝承は世界中のほとんどすべての民族が持っています。それは、その土地がどのようなところなのかを説明しながら、その土地の人々がどのようにして生まれ、なぜその土地で暮らす権利があるのかを証明するものだからです。(前回の記事でも解説しましたが、「記紀」を知る上でここがポイントなので何度でも繰り返し書きます)

すなわち、「日本神話」は、なぜ天皇家が日本を治めているのか、その正当性を示すものでした。「日本神話」を書いた「記紀」は、天皇家が神話の神々の末えいであり、由緒正しい統治者だと周囲に知らしめるためのものだったのです。

天武天皇が「記紀」をつくらせたワケ

ところで、前章で飛鳥時代は戦乱の多い時代で、さらに天武天皇はクーデターで政権を勝ち取った天皇だとご説明しましたね。天武天皇はその後、日本を律令国家として急速にまとめあげようとしました。

戦乱の続いた世の中で「天武天皇の正当性を主張する」とは、とどのつまり、これ以上の争いを生まないための秘策だったのです。日本神話を人々に周知させることで、天皇は戦いで勝ち取る権力ではなく、古の神様から続く絶対的な権威がある、という認識を植え付けようとしたのでした。

ただ、残念ながら天武天皇は稗田阿礼に暗記を命じたすぐ後に亡くなり、「記紀」の完成を目にすることはありません。

3.国内向けの『古事記』、海外向けの『日本書紀』

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『古事記』と『日本書紀』の違いはまだあって、その際たるものが書かれた言葉の違いです。

『古事記』が大和言葉をもとにした日本独自の変体漢文が主体で、さらに古語や固有名詞など漢文で代用しづらいものも漢字の音を借りて一字一音表記にされています。

一方で、『日本書紀』は漢文で書かれました。

*変体漢文ってなに?

日本語を漢文にならって漢字だけで書いた文章のこと。日本語化した漢文なので「和化漢文」ともいわれ、平安時代以降の公家の日記や記録、幕府の公用文に使われました。

正規の漢文にはない用字や語法があり、一見すると漢文に見えますが、本場中国(唐)の人は読めません。

\次のページで「漢文、誰が読む?」を解説!/

漢文、誰が読む?

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不明 - http://www.emuseum.jp/cgi/pkihon.cgi?SyoID=4&ID=w012&SubID=s000, パブリック・ドメイン, リンクによる

当時の日本人が話していたのは大和言葉、日本語ですね。ただ、この時代にひらがなやカタカナはまだありません。なので、『古事記』は一見すると漢文に見えるけれど、中国の人はさっぱり読めない「変体漢文」で書かれました。そのなかには112首にのぼる和歌が織り交ぜられ、エンターテイメント性に富んだ美しい「物語」として紡がれています。

ということは、『古事記』の読者は日本人ですね。

しかし、『日本書紀』は漢文で書かれています。これなら中国の人にも読めますね。しかも、こちらは『古事記』と違い、起こった出来事を年代順にして記録する「編年体」で書かれています。ドラマチックに書かれた『古事記』と比べるとかなりあっさりした印象ですね。物語よりも、記録の役割が大きいのです。

では、なぜ『日本書紀』は漢文で書かれたのでしょうか?内容は『古事記』とあまりかわらないのに、どうして『日本書紀』をつくる必要があったのでしょう。

アジア世界の中心「唐」

当時、アジアの中心には「唐」という大帝国がありました。唐は政治や文化など周辺諸国に多大な影響を与え、また、朝貢の関係を結んでいます。日本も遣唐使を派遣して友好関係を結んでいましたね。

唐の言葉はアジア圏の共通言語でした。今で言う英語みたいな感覚です。その共通言語の漢文で書かれた『日本書紀』は、海外、特に唐を意識して書かれたことがわかります。

これには、当時の大国だった唐に対して「日本も歴史ある立派な国だ」と主張する目的がありました。日本神話に続き、歴代天皇の業績を編年体で書くことで、唐と肩を並べられるくらい日本は歴史的、文化的レベルの高い国だ、と押していって属国にされないようにしたのです。

『古事記』とは役割がまた違いますね。

日本の正史、六国史

『日本書紀』は「日本に伝存する最古の正史」とされています。『古事記』のほうは「日本最古の歴史書」と、ちょっと違いますね。

また、『日本書紀』をシリーズの第一として、六つの史書ができました。そのシリーズを「六国史」といって、順番に『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』と続きます。

役割の違いは大きい

『古事記』はエンターテイメント性に富んだ物語で、日本人向けに書かれたものでした。対して『日本書紀』は漢文で、海外向けに書かれます。当時の海外とのパワーバランスを織り込んだ結果ですね。

また、日本に伝存する最古の正史であり、『日本書紀』を皮切りにしてその後も「六国史」シリーズがつくられました。

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奈良時代日本史歴史

「古事記」と似ているけど違う「日本書紀」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

古代日本の勉強をすると必ずと言っていいほど『古事記』と『日本書紀』の名前が出てくるな。両書とも奈良時代に成立し、天地開闢で日本がどのようにでき、なぜ天皇家が日本のトップとなったのかが書かれているんです。同じ歴史が書かれているわけですが、実は『古事記』と『日本書紀』には違いがあるのは知っているか?

歴史オタクのライターリリー・リリコの前回の記事では『古事記』を中心にしたが、今回はその片割れ『日本書紀』について、『古事記』との比較もしながら解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。古代日本をテーマにすると必ず手に取ることになるのが『古事記』『日本書紀』。今回は『日本書紀』についてより深く勉強してまとめた。

1.『日本書紀』ができるまで

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『古事記』と『日本書紀』のふたつを合わせて「記紀」といいます。口を酸っぱくして言いますが、「記」と「紀」の違いに気を付けてくださいね!

さて、同じような時期につくられた『古事記』と『日本書紀』。中身だけ見ると、登場人物の名前や名前に使われる漢字が違ったりと細部に相違はあるものの、ほとんど同じことが書かれているのがわかります。

なぜ、同じようなものが二冊も書かれたのでしょうか?

その違いを比べつつ、解説していきましょう。

飛鳥時代の動乱

「記紀」がつくられる原因となったのは、飛鳥時代に起こった「乙巳の変」でした。今回は軽いおさらい程度にざっくり解説しますね。

飛鳥時代最大の権力者だった蘇我氏でしたが、その傍若無人な振る舞いに、とうとうクーデターが起こりました。クーデターの代表者は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)。のちに「大化の改新」で政治にテコ入れし、天智天皇となった皇子ですね。

中大兄皇子は蘇我氏の長だった蘇我入鹿(そがのいるか)を宮中に呼び出して暗殺してしまいます。そうして、蘇我入鹿の死を知った父の蘇我蝦夷(そがのえみし)は、自宅に火を放って自害をはかりました。これが「乙巳の変」です。

しかし、そこは朝廷を牛耳った蘇我氏の邸宅。書庫には『天皇記』や『国記』といった歴史書があり、もろともに焼けてしまったのです。『国記』のほうは救い出されたという話もありますが、残念ながら現存していないため、それが本当かはわかりません。ともかく、「乙巳の変」でそれまでにあった歴史書は焼失したということだけ覚えておいてください。

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