古墳と大王の出現
三世紀の中ごろに弥生時代が終わり、古墳時代が到来します。この時代は名前通り古墳が、特に「前方後円墳」がたくさんつくられた時代です。北は東北地方南部、南は九州地方南部と、まさに日本各地ですね。
形は鍵穴の形のような「前方後円墳」から、丸い「円墳」、四角い「方墳」とさまざま。すべて人間の手でつくられた人工の巨大なお墓です。
権力を示した古墳のサイズ
大きな古墳ほどその造成に労力も財力も必要になるもの。つまり、力の強い豪族にしかつくれない、権力の証なのです。
全長が120メートルをこえる巨大古墳は全国に125基あって、そのうちの35基が奈良県、28基が大阪府にあります。合わせると63基となり、近畿の、特に奈良県に有力な豪族が集中しているのがわかりますね。これは奈良県に大規模な国家があったことを示しています。
世界最大の古墳
日本史で必ず出てくるのは大阪府堺市の大仙古墳ですね。世界最大級の古墳で、第十六代目の仁徳天皇のお墓とされています。ただ、大仙古墳は宮内庁の管轄で、これまで一度も発掘の許可が下りていないことから、学術上は仁徳天皇のお墓だと確定することはできないのです。
はっきりしないヤマト朝廷誕生の過程
タイトル通り、ヤマト朝廷誕生の過程ははっきりとはわかりません。いくつもの地方国家が連合してヤマト朝廷になったと考えられています。
そして、その勢力は巨大古墳の数が示した通り、近畿を中心にして東北から九州にまで及びました。
ヤマト朝廷のトップは「天皇」なのですが、朝廷成立当初は「大王」と書いて「おおきみ」と呼ばれています。
宋に朝貢した倭の五王
ここでまた中国の歴史書に頼ることにします。
この当時、大陸で力を持っていた「宋」に朝貢した五人の王の名前があり、まとめて「倭の五王」と呼ばれました。
五人の王の名前は宋に合わせてそれぞれ「讃、珍、済、興、武」と書かれています。最後の「武」という王は『古事記』や『日本書紀』に書かれた「雄略天皇」だと考えられているのです。
雄略天皇の剣
古墳時代中期に登場した雄略天皇は「記紀」によると、地方豪族を味方につけ、あるいは反抗的な地方豪族は武力で打ち負かしていき、ヤマト朝廷の力を飛躍的に拡大させたとされているのです。
その力が遠く九州から関東にまで及んだ証拠として、熊本県と埼玉県の古墳から「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」と大王の名前が刻まれた鉄剣が出土したことが挙げられます。
『記紀』に記された雄略天皇の実名は「大長谷若健命(おおはつせわかたけるのみこと)」で、すなわち、獲加多支鹵大王とは雄略天皇のこと。影響下になければ、天皇の名前が刻まれた剣が出土するはずがないのです。
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