古代の日本に「ヤマト朝廷」と呼ばれる一大勢力が現れ、それが天皇を戴く国家へと成長していき、日本の中心となるわけです。

今回は「ヤマト朝廷」の発生と発展を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。これまでの記事で散々「朝廷」の歴史を書いてきた。今回はそもそも「ヤマト朝廷」とはどういうものだったのかを改めて向き合い、記事にまとめた。

1.ヤマト朝廷ができるまでの日本

食料供給の安定で人口増加

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大陸から稲作が伝わったのを皮切りに始まった弥生時代。それまでの狩猟・採取生活よりも安定して食料供給の術を得た人々は、水田をつくり、お米を栽培する農耕をはじめます。一所に留まって暮らす「定住」が主流となっていったのですね。

さらに弥生時代の中ごろにもなると、青銅よりも扱いやすい鉄器も伝来して、農具や武器の性能も飛躍し、人々の暮らしはどんどん変わっていきます。

食料の供給が安定すれば人口は増えるのは当然のこと。最初は数軒しかなかった小さな集落もやがては「ムラ」と呼ばれる規模に発展していきました。

けれど、お米を作るのにも、定住する家を建てるのにも、そもそも土地が必要ですよね?それだけでなく、米を保存するための高床式倉庫だって必要です。それに、人口が増えた分だけ食料も増やさなければなりません。とすると、田んぼを広げる土地や、狩場の確保が必須となっていきました。

食料をめぐる争いのはじまり

いくらお米があるからといっても、そこは古代。現代と違って便利な機械や、病気や虫から稲穂を守る農薬もありません。それに、弥生時代は涼しい気候が続いていて、冷夏によってお米不足になることも少なくありませんでした。

そんな状況下で、もしムラの人々を養えるお米ができなければどうなるでしょう?それに加えて、もし、狩猟や採取で十分な食料を補えなければ……。

そんな極限状態で、別のムラに食料があると知ったら?

この時代、お米とはムラの財産も同然でした。お米がたくさんできる土地とそうでない土地とでは貧富の差が広がり、やがて人々の間に食料をめぐる戦争がはじまることとなったのです。

ムラからクニへ

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弥生時代の遺跡には、ムラの周りに堀をめぐらせた「環濠集落」や、山の上につくった「高地性集落」などがあったのがわかります。いずれも敵の侵入を防ぐための工夫でした。いわゆる古代の「小さな国々」とは、こういったムラを指します。

そして、こういう集落をつくったり、あるいは、敵との戦いに備えるのにも、人々に指示を出すリーダーが必要です。リーダーには、農耕や狩猟、建築を通して集団の信頼を得てなるもの、もしくは、天候などを占う宗教的な権威を持った指導者が就きました。

リーダーはムラの代表者になります。さらに大きなムラはクニを形成して、リーダーは豪族や王となりました。

リーダーは富や権力を持ち、指導力を示して人々から崇められる英雄となります。英雄の家系のなかから権威を持つ「王家」が生まれたと考えられているのです。

大陸の歴史書から日本の歴史を辿る

渡来人たちが日本へやってきたように、弥生人も大陸へ交流を求めて行った記録があります。

大陸と近い九州には早くから稲作が広まり、小さな国々がたくさんうまれていました。その国のなかには中国に使者を送り、周辺諸国よりも優位な立場であろうとしたのです。

そのことが記録されたのが、紀元前206年に誕生した漢王朝の歴史書「漢書」で、地理志という章に日本のことが少しだけ書かれています。さらに後に『項羽と劉邦』(司馬遼太郎著)の劉邦がつくった、いわゆる「後漢」の「後漢書」の「東夷伝」に、光武帝が日本の奴国の王に「漢委奴国王」と彫られた金印を授けたと記されていました。「漢委奴国王」の金印を持つことにより奴国の王は、「多くの国々を従える漢の皇帝により、それぞれの地域を治めることを認められた王」になったという意味です。

わざわざ使者を送って、どうして漢の皇帝に奴国の王だということを認めてもらわないといけないでしょうか?別に奴国の王が「自分は奴国の王様だ!」と胸を張っていればいいと思いませんか?

実はこれ、「奴国は漢に帰属する国だから、他の国が奴国に手を出したら親分の漢が黙ってないぞ!」という奴国の王にとってもメリットのある行為なのです。

ここで出てくる金印は江戸時代に福岡市志賀島で発見されているので、「後漢書」の記録が真実だったことがわかります。

倭国大乱と邪馬台国の卑弥呼

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「後漢書」「東夷伝」にはまた、「日本に大きな争いが起こり、長くリーダーがいなかったが、卑弥呼(ひみこ)という鬼道を使う女性を王にした」という記録があります。

卑弥呼の記録がもうひとつ、中国の書物のなかにありました。それはちょうど弥生時代の末期で、大陸では「魏」「呉」「蜀」の三つの国々が覇権をめぐって争っている時代のこと。歴史書「三国志」の「魏志」に数ページ「邪馬台国」の「卑弥呼」に関する記録が認められます。これを私たちは「魏志倭人伝」(正確には『「魏書」東夷伝倭人条』)と呼びました。

「魏志倭人伝」によると、倭国(日本)は長い騒乱にあり、卑弥呼という女王を立てたことで治まったことをはじめ、倭国の身分制度や税金制度、国々に市場があり、交易が行われていたことがわかります。

しかし、当の邪馬台国への行き方が曖昧で、正確な場所がわかりません。だから、邪馬台国の存在していた場所は「北九州説」や「畿内説」などいくつかあって、ここだと定めることができないのです。

\次のページで「2.初代神武天皇の東征」を解説!/

2.初代神武天皇の東征

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Ginko Adachi (active 1874-1897) - Stories from "Nihon Shoki" (Chronicles of Japan), artelino - Japanese Prints - Archive 29th May 2009, パブリック・ドメイン, リンクによる

『古事記』と『日本書紀』に書かれた日本神話

奈良時代の初期につくられた『古事記』『日本書紀』。ふたつを総称して「記紀」ともいいます。『古事記』と『日本書紀』は、天地開闢から始まって日本の神々の誕生、そしてイザナギノミコトとイザナミノミコトの国産みを記しました。

ヤマト朝廷のトップとなる天皇の初代は神武天皇。神武天皇はイザナギノミコトとイザナミノミコトの子孫とされています。

はじまりは九州の高千穂

日向国(南九州)に誕生した神武天皇は、45歳のときに兄や子らとともに軍勢を率い、九州の高千穂の宮から東へ向かって征服していきました。その過程で、「国津神」(土着の、その土地ごとの神)をまつる人々を従え、臣下としていったのです。

神武天皇即位と建国記念日

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近畿までやってきた神武天皇は、紀伊や伊勢の荒ぶる神々と戦いました。そして、最後に大和国(奈良県)の平定が終わると、神武天皇は畝傍山のふもとでそこを都とすることを宣言します。これが橿原宮で、現在の奈良県橿原市のあたり。上記の写真は明治天皇により創建された橿原神宮です。

橿原宮で神武天皇は最初の天皇として即位したといいます。

神武天皇が即位した日を皇紀元年一月一日とし、のちに明治政府が太陽暦を採用したさいに、この日を太陽暦にして、現在の二月十一日、建国記念日としたのです。

3.ヤマト朝廷の誕生

\次のページで「古墳と大王の出現」を解説!/

古墳と大王の出現

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三世紀の中ごろに弥生時代が終わり、古墳時代が到来します。この時代は名前通り古墳が、特に「前方後円墳」がたくさんつくられた時代です。北は東北地方南部、南は九州地方南部と、まさに日本各地ですね。

形は鍵穴の形のような「前方後円墳」から、丸い「円墳」、四角い「方墳」とさまざま。すべて人間の手でつくられた人工の巨大なお墓です。

権力を示した古墳のサイズ

大きな古墳ほどその造成に労力も財力も必要になるもの。つまり、力の強い豪族にしかつくれない、権力の証なのです。

全長が120メートルをこえる巨大古墳は全国に125基あって、そのうちの35基が奈良県、28基が大阪府にあります。合わせると63基となり、近畿の、特に奈良県に有力な豪族が集中しているのがわかりますね。これは奈良県に大規模な国家があったことを示しています。

世界最大の古墳

日本史で必ず出てくるのは大阪府堺市の大仙古墳ですね。世界最大級の古墳で、第十六代目の仁徳天皇のお墓とされています。ただ、大仙古墳は宮内庁の管轄で、これまで一度も発掘の許可が下りていないことから、学術上は仁徳天皇のお墓だと確定することはできないのです。

はっきりしないヤマト朝廷誕生の過程

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タイトル通り、ヤマト朝廷誕生の過程ははっきりとはわかりません。いくつもの地方国家が連合してヤマト朝廷になったと考えられています。

そして、その勢力は巨大古墳の数が示した通り、近畿を中心にして東北から九州にまで及びました。

ヤマト朝廷のトップは「天皇」なのですが、朝廷成立当初は「大王」と書いて「おおきみ」と呼ばれています。

宋に朝貢した倭の五王

ここでまた中国の歴史書に頼ることにします。

この当時、大陸で力を持っていた「宋」に朝貢した五人の王の名前があり、まとめて「倭の五王」と呼ばれました。

五人の王の名前は宋に合わせてそれぞれ「讃、珍、済、興、武」と書かれています。最後の「武」という王は『古事記』や『日本書紀』に書かれた「雄略天皇」だと考えられているのです。

雄略天皇の剣

古墳時代中期に登場した雄略天皇は「記紀」によると、地方豪族を味方につけ、あるいは反抗的な地方豪族は武力で打ち負かしていき、ヤマト朝廷の力を飛躍的に拡大させたとされているのです。

その力が遠く九州から関東にまで及んだ証拠として、熊本県と埼玉県の古墳から「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」と大王の名前が刻まれた鉄剣が出土したことが挙げられます。

『記紀』に記された雄略天皇の実名は「大長谷若健命(おおはつせわかたけるのみこと)」で、すなわち、獲加多支鹵大王とは雄略天皇のこと。影響下になければ、天皇の名前が刻まれた剣が出土するはずがないのです。

\次のページで「渡来人の組織化」を解説!/

渡来人の組織化

雄略天皇の御代、475年に朝鮮半島の高句麗によって百済の都が落ち、多くの百済王族が殺害されました。百済自体は都を熊津へ遷して継続されますが、多くの百済の人々が日本に逃れてきます。

雄略天皇は渡来した彼らを技術集団として組織して管理。そのなかでも、「史部(ふひとべ)」に属する渡来人たちに、ヤマト朝廷の記録、外交文書の作成など、漢字を使った記録をつくらせました。

渡来人の組織化をきっかけに、「管理者と配下」からなる官僚組織がつくられていったと考えられています。

地域国家から初期国家へ

雄略天皇以降、数代の天皇を経て、ヤマト朝廷は徐々に地域国家から初期国家へと成長していきました。

官僚組織下では「氏(うじ)」を持つ「物部氏」や「大伴氏」「蘇我氏」らが「臣」や「連」などの職を担当してヤマト朝廷を支え、仕えます。

また、三世紀半ばから始まった古墳時代。四世紀から六世紀にかけて権力の象徴として巨大な古墳がつくられていましたが、七世紀になるとあまり大きなものはつくられなくなり、古墳時代の終わりへと差し掛かりました。

朝廷では蘇我氏が台頭し、推古天皇や聖徳太子の活躍する時代がやってきます。同時に、古墳時代から奈良時代へと変遷していったのです。

地域国家から発展を遂げたヤマト朝廷

神武天皇から始まり現在の126代令和天皇へと続く天皇家。最初はいくつもの地域国家が連合してできた地域国家とされています。残念ながら、この部分ははっきりしませんが、連合した国家は徐々に天皇を中心とした中央集権体制を整えて、天皇による統治を確立していきました。

" /> 小国乱立する古代日本から「ヤマト朝廷」誕生へ!歴史オタクがわかりやすく5分で解説 – ページ 3 – Study-Z
古墳時代日本史歴史

小国乱立する古代日本から「ヤマト朝廷」誕生へ!歴史オタクがわかりやすく5分で解説

古墳と大王の出現

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三世紀の中ごろに弥生時代が終わり、古墳時代が到来します。この時代は名前通り古墳が、特に「前方後円墳」がたくさんつくられた時代です。北は東北地方南部、南は九州地方南部と、まさに日本各地ですね。

形は鍵穴の形のような「前方後円墳」から、丸い「円墳」、四角い「方墳」とさまざま。すべて人間の手でつくられた人工の巨大なお墓です。

権力を示した古墳のサイズ

大きな古墳ほどその造成に労力も財力も必要になるもの。つまり、力の強い豪族にしかつくれない、権力の証なのです。

全長が120メートルをこえる巨大古墳は全国に125基あって、そのうちの35基が奈良県、28基が大阪府にあります。合わせると63基となり、近畿の、特に奈良県に有力な豪族が集中しているのがわかりますね。これは奈良県に大規模な国家があったことを示しています。

世界最大の古墳

日本史で必ず出てくるのは大阪府堺市の大仙古墳ですね。世界最大級の古墳で、第十六代目の仁徳天皇のお墓とされています。ただ、大仙古墳は宮内庁の管轄で、これまで一度も発掘の許可が下りていないことから、学術上は仁徳天皇のお墓だと確定することはできないのです。

はっきりしないヤマト朝廷誕生の過程

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タイトル通り、ヤマト朝廷誕生の過程ははっきりとはわかりません。いくつもの地方国家が連合してヤマト朝廷になったと考えられています。

そして、その勢力は巨大古墳の数が示した通り、近畿を中心にして東北から九州にまで及びました。

ヤマト朝廷のトップは「天皇」なのですが、朝廷成立当初は「大王」と書いて「おおきみ」と呼ばれています。

宋に朝貢した倭の五王

ここでまた中国の歴史書に頼ることにします。

この当時、大陸で力を持っていた「宋」に朝貢した五人の王の名前があり、まとめて「倭の五王」と呼ばれました。

五人の王の名前は宋に合わせてそれぞれ「讃、珍、済、興、武」と書かれています。最後の「武」という王は『古事記』や『日本書紀』に書かれた「雄略天皇」だと考えられているのです。

雄略天皇の剣

古墳時代中期に登場した雄略天皇は「記紀」によると、地方豪族を味方につけ、あるいは反抗的な地方豪族は武力で打ち負かしていき、ヤマト朝廷の力を飛躍的に拡大させたとされているのです。

その力が遠く九州から関東にまで及んだ証拠として、熊本県と埼玉県の古墳から「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」と大王の名前が刻まれた鉄剣が出土したことが挙げられます。

『記紀』に記された雄略天皇の実名は「大長谷若健命(おおはつせわかたけるのみこと)」で、すなわち、獲加多支鹵大王とは雄略天皇のこと。影響下になければ、天皇の名前が刻まれた剣が出土するはずがないのです。

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