古墳時代日本史歴史

小国乱立する古代日本から「ヤマト朝廷」誕生へ!歴史オタクがわかりやすく5分で解説

よぉ、桜木健二だ。古代の日本に「ヤマト朝廷」と呼ばれる一大勢力が現れ、それが天皇を戴く国家へと成長していき、日本の中心となるわけだ。

今回は「ヤマト朝廷」の発生と発展を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。これまでの記事で散々「朝廷」の歴史を書いてきた。今回はそもそも「ヤマト朝廷」とはどういうものだったのかを改めて向き合い、記事にまとめた。

1.ヤマト朝廷ができるまでの日本

食料供給の安定で人口増加

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大陸から稲作が伝わったのを皮切りに始まった弥生時代。それまでの狩猟・採取生活よりも安定して食料供給の術を得た人々は、水田をつくり、お米を栽培する農耕をはじめます。一所に留まって暮らす「定住」が主流となっていったのですね。

さらに弥生時代の中ごろにもなると、青銅よりも扱いやすい鉄器も伝来して、農具や武器の性能も飛躍し、人々の暮らしはどんどん変わっていきます。

食料の供給が安定すれば人口は増えるのは当然のこと。最初は数軒しかなかった小さな集落もやがては「ムラ」と呼ばれる規模に発展していきました。

けれど、お米を作るのにも、定住する家を建てるのにも、そもそも土地が必要ですよね?それだけでなく、米を保存するための高床式倉庫だって必要です。それに、人口が増えた分だけ食料も増やさなければなりません。とすると、田んぼを広げる土地や、狩場の確保が必須となっていきました。

食料をめぐる争いのはじまり

いくらお米があるからといっても、そこは古代。現代と違って便利な機械や、病気や虫から稲穂を守る農薬もありません。それに、弥生時代は涼しい気候が続いていて、冷夏によってお米不足になることも少なくありませんでした。

そんな状況下で、もしムラの人々を養えるお米ができなければどうなるでしょう?それに加えて、もし、狩猟や採取で十分な食料を補えなければ……。

そんな極限状態で、別のムラに食料があると知ったら?

この時代、お米とはムラの財産も同然でした。お米がたくさんできる土地とそうでない土地とでは貧富の差が広がり、やがて人々の間に食料をめぐる戦争がはじまることとなったのです。

ムラからクニへ

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弥生時代の遺跡には、ムラの周りに堀をめぐらせた「環濠集落」や、山の上につくった「高地性集落」などがあったのがわかります。いずれも敵の侵入を防ぐための工夫でした。いわゆる古代の「小さな国々」とは、こういったムラを指します。

そして、こういう集落をつくったり、あるいは、敵との戦いに備えるのにも、人々に指示を出すリーダーが必要です。リーダーには、農耕や狩猟、建築を通して集団の信頼を得てなるもの、もしくは、天候などを占う宗教的な権威を持った指導者が就きました。

リーダーはムラの代表者になります。さらに大きなムラはクニを形成して、リーダーは豪族や王となりました。

リーダーは富や権力を持ち、指導力を示して人々から崇められる英雄となります。英雄の家系のなかから権威を持つ「王家」が生まれたと考えられているのです。

大陸の歴史書から日本の歴史を辿る

渡来人たちが日本へやってきたように、弥生人も大陸へ交流を求めて行った記録があります。

大陸と近い九州には早くから稲作が広まり、小さな国々がたくさんうまれていました。その国のなかには中国に使者を送り、周辺諸国よりも優位な立場であろうとしたのです。

そのことが記録されたのが、紀元前206年に誕生した漢王朝の歴史書「漢書」で、地理志という章に日本のことが少しだけ書かれています。さらに後に『項羽と劉邦』(司馬遼太郎著)の劉邦がつくった、いわゆる「後漢」の「後漢書」の「東夷伝」に、光武帝が日本の奴国の王に「漢委奴国王」と彫られた金印を授けたと記されていました。「漢委奴国王」の金印を持つことにより奴国の王は、「多くの国々を従える漢の皇帝により、それぞれの地域を治めることを認められた王」になったという意味です。

わざわざ使者を送って、どうして漢の皇帝に奴国の王だということを認めてもらわないといけないでしょうか?別に奴国の王が「自分は奴国の王様だ!」と胸を張っていればいいと思いませんか?

実はこれ、「奴国は漢に帰属する国だから、他の国が奴国に手を出したら親分の漢が黙ってないぞ!」という奴国の王にとってもメリットのある行為なのです。

ここで出てくる金印は江戸時代に福岡市志賀島で発見されているので、「後漢書」の記録が真実だったことがわかります。

倭国大乱と邪馬台国の卑弥呼

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「後漢書」「東夷伝」にはまた、「日本に大きな争いが起こり、長くリーダーがいなかったが、卑弥呼(ひみこ)という鬼道を使う女性を王にした」という記録があります。

卑弥呼の記録がもうひとつ、中国の書物のなかにありました。それはちょうど弥生時代の末期で、大陸では「魏」「呉」「蜀」の三つの国々が覇権をめぐって争っている時代のこと。歴史書「三国志」の「魏志」に数ページ「邪馬台国」の「卑弥呼」に関する記録が認められます。これを私たちは「魏志倭人伝」(正確には『「魏書」東夷伝倭人条』)と呼びました。

「魏志倭人伝」によると、倭国(日本)は長い騒乱にあり、卑弥呼という女王を立てたことで治まったことをはじめ、倭国の身分制度や税金制度、国々に市場があり、交易が行われていたことがわかります。

しかし、当の邪馬台国への行き方が曖昧で、正確な場所がわかりません。だから、邪馬台国の存在していた場所は「北九州説」や「畿内説」などいくつかあって、ここだと定めることができないのです。

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