奈良時代は波乱の時代だったが、特に後期になるとそのめちゃくちゃっぷりに拍車がかかってくる。「藤原仲麻呂の乱」もそのなかのひとつです。

今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にその「藤原仲麻呂の乱」について解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。奈良時代を勉強した際に、藤原家がどのように発展したかについて興味を持つ。今回はその過渡期にあたりながらも、失脚していった「藤原仲麻呂」についてまとめた。

1.ここからはじまる藤原家の隆盛

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せっかく造営した藤原京(しかも、まだ建設は続いている)への遷都からわずか14年後に平城京へと遷して始まる奈良時代。語呂合わせは「なんと(710年)素敵な平城京」ですね。

影の実力者「藤原氏」

平城京 条坊図
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平城京の形は唐の長安をモデルにして、左右対称につくられたはずでした。しかし、ふたを開けてみれば、図のように都の右上にぽっこりと「外京」なんてものがついています。

はて、「外京」とはいったいなんでしょうか?長安がモデルのはずなのに、これでは左右対称どころではありません。

実は、この「外京」にはあの「藤原氏」が住んでいたのです。外京には藤原氏の氏寺の興福寺や、藤原氏の氏神を祀る春日大社などもありました。

いち氏族の氏寺や氏神を祀っている場所なら、天皇家は関係ないと思われますよね?

ところがどっこい、興福寺は奈良の寺院の中心に、春日大社は国家の神社として扱われるようになります。しかも、もう少しあとになるとここに「奈良の大仏」で有名な「東大寺」も建立されました。さらに後の755年には「鑑真」が東大寺に「戒壇院」という僧侶が出家するために必要な場所を建設します。

つまり、藤原氏の住む「外京」は、平城京の宗教的中心地になったのでした。

藤原氏はどこからきたのか

藤原氏の祖といえば「藤原不比等(ふじわらのふひと)」ですね。藤原不比等は飛鳥時代の「大化の改新」の立役者のひとり「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」の息子だったのです。「藤原」という名字は、中臣鎌足が亡くなる直前に天智天皇(中大兄皇子)から賜ったものでした。

ただし、中臣鎌足が亡くなったとき、藤原不比等はわずか11歳。しかも、直後の「壬申の乱」で他の中臣一族は朝廷から一掃されてしまっていて、藤原不比等は何の後ろ盾もなくひとりっきりだったのです。そこから藤原不比等は下級役人となり、徐々に出世していったのでした。

こつこつと功績を重ねた藤原不比等は政治的な立場を強め、娘の藤原宮子を文武天皇の夫人に、さらにもうひとりの娘「光明子(こうみょうし)」を聖武天皇の皇后にしようとしたのです。

皇族出身でない皇后はなぜダメなの?

今でこそ「皇族出身ではない皇后さま」は驚くことではありません。しかし、この時代では皇族の血を引かない女性は、天皇の奥さんのひとりにはなれても、皇后にはなれなかったのです。

なぜかというと、天皇が崩御したあとに、その子どもではなく、皇后が天皇となることがあったからでした。特に奈良時代は体が弱い天皇や皇太子も多く、「持統天皇」や「元明天皇」といった皇族出身の女性天皇は、天皇候補の子や孫たちが無事に成長するまでのピンチヒッター的な役割を担って即位したのです。

どうしてそこまで「皇族の血」にこだわるのかというと、それは「天皇は日本神話の神々の血を引く」というところが肝だったからでした。「天皇の位は、戦いで勝ち取るものではなく、古の神様から続く絶対的な権威」ということが絶対の条件なのです。

だから、皇族の血を、ひいては、日本神話の神々の血を受け継がない藤原氏の娘が皇后となって、もしかすると将来天皇となりえる可能性はあってはならないものでした。

長屋王の大反対

藤原不比等が光明子を皇后にしようとしたことに、当然ながら周囲は強く反発しました。なかでも真っ向から猛反対したのが「長屋王(ながやおう)」です。

長屋王は、若い聖武天皇の代わりに政治を担った有力者で、藤原不比等に次ぐ権力者でした。おまけに長屋王は天智天皇と天武天皇の両方の血を引く特別な皇族です。藤原不比等も長屋王に娘のひとりを嫁がせるほど、その実力はある意味お墨付きの重要人物でした。

しかし、藤原不比等は光明子を皇后にする野望を叶えられないまま病死し、その争いは彼の四人の兄弟にバトンタッチすることになったのです。

長屋王vs藤原四兄弟

この「藤原四兄弟」こそが、藤原氏の今後の隆盛を担う「藤原四家」の祖たちでした。最初こそ長屋王に圧倒されて手も出なかった藤原四兄弟だったのですが、聖武天皇と光明子の間に生まれた基王が立太子後まもなく一歳で亡くなったのを、長屋王が呪詛して殺したのだとまことしやかに吹聴して責めたのです。呪いで殺した、なんて現代だと信じてもらえませんよね?だけど、ここは奈良時代。まだまだ呪いも現役で信じられ、皇族を呪ったりすれば重罪も重罪です。

かくして、無実の罪で長屋王は自害に追い込まれ(729年の「長屋王の変」)、藤原四兄弟は光明子を皇后へと押し上げ、父・藤原不比等の悲願を叶えたのでした。

今回のテーマとなる「藤原仲麻呂」は、光明子こと、光明皇后と甥と叔母の関係にあたり、藤原仲麻呂の台頭に深く関与する人物です。

2.藤原仲麻呂の台頭

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猛威を振るった天然痘の流行

藤原氏の娘が日本史上初の皇族ではない皇后となり、これから藤原四兄弟が朝廷で絶大な権力を握る……かに思えました。

長屋王の死後、734年に日本でにわかに天然痘の流行が始まったのです。ワクチンのない奈良時代ですから、天然痘による死者は100万人から150万人に上るとんでもない大惨事となりました。そして、その死者のなかにはあの藤原四兄弟の面々も含まれたのです。

藤原四兄弟のいなくなった朝廷では、光明皇后の異父兄にあたる橘諸兄(たちばなのもろえ)が登用されました。さらに唐から帰国した吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)が重用され、朝廷から藤原氏の勢力が衰退していったのです。

\次のページで「繰り返す遷都と社会不安」を解説!/

繰り返す遷都と社会不安

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都は天然痘に「藤原広嗣の乱」、それに自然災害が続いたことで社会不安に陥り、聖武天皇はそれを振り払うために恭仁京、難波京、紫香楽京と約十年の間に三度も遷都を繰り返しました。でも、結局最後は平城京へ戻ってきちゃうんですね。

疫病や災害をきっかけに聖武天皇は仏教に深く帰依するようになります。仏教の力で社会不安のもとを鎮めてもらおうと考えたんですね。

ここで「奈良の大仏」の「東大寺」が建立されました。そして「鑑真」が来日して東大寺に「戒壇院」をつくります。また、政治面では橘諸兄によって「墾田永年私財法」が制定されました。

光明皇后の娘「孝謙天皇」の即位

その後、聖武天皇は、光明皇后との間にできた皇女に譲位して政治の場を退きます。そして、新たに即位した「孝謙天皇」のもとに藤原南家の「藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)」がいたのです。

藤原仲麻呂は叔母の光明皇太后の信頼も篤く、またいとこにあたる孝謙天皇からの寵愛もあって急速に台頭していきました。

橘諸兄の失脚

朝廷のトップへと登りはじめた藤原仲麻呂。最後に彼の前に立ちはだかったのは、左大臣・橘諸兄でした。藤原仲麻呂が橘諸兄にどのようにして勝ったのか?――その方法はとても陰湿なものだったのです。

聖武上皇が崩御する少し前のこと。酒の席で橘諸兄が聖武上皇を誹謗したという密告が上がりました。聖武上皇はこの讒言を取り合いませんでしたが、そんな話が出たことを恥じた橘諸兄は自ら左大臣職を辞任したのです。

復讐に燃える「橘奈良麻呂の乱」

橘諸兄の失脚、そして、聖武上皇の崩御後、さらに権勢を強めた藤原仲麻呂。しかし、光明皇太后の後ろ盾にして橘諸兄ら有力者を排除する強引なやり方には多くの人々が不満を抱いていました。その筆頭が、橘諸兄の息子・橘奈良麻呂です。

橘諸兄の死後間もないうちに、橘奈良麻呂は藤原仲麻呂排除を目論んで密かに仲間を集めようとしました。けれど、この会合はたちまちに密告され、橘奈良麻呂は仲間共々逮捕され、拷問の末に獄死してしまいます。

これを「橘奈良麻呂の乱」といいますが、実質的な被害はなく、むしろ、藤原仲麻呂はこの乱に乗じて自分に敵意を抱く政敵たちを排除したラッキーな結果となったのです。

藤原仲麻呂改め、恵美押勝

聖武上皇の崩御後、藤原仲麻呂は自分と懇意だった大炊王(おおいおう)を皇太子にし、758年に淳仁天皇として即位する運びになりました。

淳仁天皇のもと、藤原仲麻呂は政治の舵を握ると徳治政策と同時に官名などを唐っぽく改めさせる「唐風政策」を推し進めました。そうして、自身の名前も藤原仲麻呂から恵美押勝へと改めたのです。

3.藤原仲麻呂の政治が翳り、乱へ

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\次のページで「お世話になっていた光明皇太后の崩御」を解説!/

お世話になっていた光明皇太后の崩御

760年、藤原仲麻呂は皇族以外で初めての太政大臣に任命されましたが、この年に藤原仲麻呂最大の後ろ盾だった光明皇太后が崩御してしまいます。

さらに、孝謙上皇と藤原仲麻呂のパイプ役を担っていた妻の死去に加え、腹心の部下たちまでも次々と亡くなってしまい藤原仲麻呂の朝廷での立場が揺らぎ始めたのです。

孝謙上皇と道鏡

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一方、病に臥せっていた孝謙上皇が道鏡という僧侶に看病されていました。当時の僧侶はお医者さんも兼ねていたんですね。それで、道鏡によって快復した結果、孝謙上皇は道鏡を寵愛するようになったのです。

「いやいや、僧侶を傍に侍らせるのはいかがなものでしょうか」と藤原仲麻呂は淳仁天皇を通して諌めるのですが、これが孝謙上皇の逆鱗に触れてしまいました。以前は光明皇太后がなんとかしてくれたものですが、もうそれもなく……。怒った孝謙上皇は出家して尼僧になると同時に、「国家の大事と賞罰は私が執り行う!」と淳仁天皇から天皇の権力の大部分をはく奪してしまったのです。

「藤原仲麻呂の乱」開始

孝謙上皇との対立は深まるわ、淳仁天皇から権力は奪われるわ、泣きっ面に蜂とはまさにこのこと。藤原仲麻呂はなんとか軍事力で孝謙上皇と道鏡に対抗できないかと画策して兵を集めようとします。しかし、この計画もまた孝謙上皇に密告され、潰されてしまうのでした。

孝謙上皇は山村王に命じて淳仁天皇から御璽と駅鈴などの鈴印、つまり、皇権に必要なものを回収させます。藤原仲麻呂は息子に山村王の帰路を襲撃させ、これらを奪うのですが、すぐに孝謙上皇は坂上苅田麻呂(坂上田村麻呂の父)らを派遣して藤原仲麻呂の息子を射殺して御璽を持ち帰りました。孝謙上皇は手に入れた鈴印をすぐさま使い、藤原仲麻呂が逃走できないように関所を封鎖してしまいます。

その夜、藤原仲麻呂は一族を連れて平城京から脱出を試みようとしました。しかし、それも時すでに遅く、孝謙上皇は吉備真備に藤原仲麻呂誅伐の命を下し、追討軍を出したのです。

高齢の大ベテラン「吉備真備」

討伐に出撃した吉備真備は当時70歳とかなりの高齢のおじいさんでした。しかし、彼はもともと優秀な遣唐使で、唐では政治だけでなく軍事学の勉強もしていたのです。ですが、藤原仲麻呂全盛期には疎まれて左遷の憂き目にあっていたのでした。

藤原仲麻呂の敗北

吉備真備によって逃走ルートを封じられた藤原仲麻呂は、近江と越前の関所「愛発関」を通ることを余儀なくされます。

当然、吉備真備も愛発関へと軍を送りますよね。そこで両軍は激突し、藤原仲麻呂の討死によって「藤原仲麻呂の乱」は幕を下ろしたのでした。

盛者必衰を体現する人生

光明皇太后の威光により権勢を振るった藤原仲麻呂でしたが、皇太后亡きあとは転がるように転落の一途をたどります。そうして、最後には謀反人として全権を奪われ、逃走から二日後にあっけなく打ち取られてしまいました。

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奈良時代日本史歴史

藤原氏復権を目指し盛者必衰の理を体現した「藤原仲麻呂の乱」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

奈良時代は波乱の時代だったが、特に後期になるとそのめちゃくちゃっぷりに拍車がかかってくる。「藤原仲麻呂の乱」もそのなかのひとつです。

今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にその「藤原仲麻呂の乱」について解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。奈良時代を勉強した際に、藤原家がどのように発展したかについて興味を持つ。今回はその過渡期にあたりながらも、失脚していった「藤原仲麻呂」についてまとめた。

1.ここからはじまる藤原家の隆盛

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せっかく造営した藤原京(しかも、まだ建設は続いている)への遷都からわずか14年後に平城京へと遷して始まる奈良時代。語呂合わせは「なんと(710年)素敵な平城京」ですね。

影の実力者「藤原氏」

平城京 条坊図
Wikiwikiyarou投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる

平城京の形は唐の長安をモデルにして、左右対称につくられたはずでした。しかし、ふたを開けてみれば、図のように都の右上にぽっこりと「外京」なんてものがついています。

はて、「外京」とはいったいなんでしょうか?長安がモデルのはずなのに、これでは左右対称どころではありません。

実は、この「外京」にはあの「藤原氏」が住んでいたのです。外京には藤原氏の氏寺の興福寺や、藤原氏の氏神を祀る春日大社などもありました。

いち氏族の氏寺や氏神を祀っている場所なら、天皇家は関係ないと思われますよね?

ところがどっこい、興福寺は奈良の寺院の中心に、春日大社は国家の神社として扱われるようになります。しかも、もう少しあとになるとここに「奈良の大仏」で有名な「東大寺」も建立されました。さらに後の755年には「鑑真」が東大寺に「戒壇院」という僧侶が出家するために必要な場所を建設します。

つまり、藤原氏の住む「外京」は、平城京の宗教的中心地になったのでした。

藤原氏はどこからきたのか

藤原氏の祖といえば「藤原不比等(ふじわらのふひと)」ですね。藤原不比等は飛鳥時代の「大化の改新」の立役者のひとり「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」の息子だったのです。「藤原」という名字は、中臣鎌足が亡くなる直前に天智天皇(中大兄皇子)から賜ったものでした。

ただし、中臣鎌足が亡くなったとき、藤原不比等はわずか11歳。しかも、直後の「壬申の乱」で他の中臣一族は朝廷から一掃されてしまっていて、藤原不比等は何の後ろ盾もなくひとりっきりだったのです。そこから藤原不比等は下級役人となり、徐々に出世していったのでした。

こつこつと功績を重ねた藤原不比等は政治的な立場を強め、娘の藤原宮子を文武天皇の夫人に、さらにもうひとりの娘「光明子(こうみょうし)」を聖武天皇の皇后にしようとしたのです。

皇族出身でない皇后はなぜダメなの?

今でこそ「皇族出身ではない皇后さま」は驚くことではありません。しかし、この時代では皇族の血を引かない女性は、天皇の奥さんのひとりにはなれても、皇后にはなれなかったのです。

なぜかというと、天皇が崩御したあとに、その子どもではなく、皇后が天皇となることがあったからでした。特に奈良時代は体が弱い天皇や皇太子も多く、「持統天皇」や「元明天皇」といった皇族出身の女性天皇は、天皇候補の子や孫たちが無事に成長するまでのピンチヒッター的な役割を担って即位したのです。

どうしてそこまで「皇族の血」にこだわるのかというと、それは「天皇は日本神話の神々の血を引く」というところが肝だったからでした。「天皇の位は、戦いで勝ち取るものではなく、古の神様から続く絶対的な権威」ということが絶対の条件なのです。

だから、皇族の血を、ひいては、日本神話の神々の血を受け継がない藤原氏の娘が皇后となって、もしかすると将来天皇となりえる可能性はあってはならないものでした。

長屋王の大反対

藤原不比等が光明子を皇后にしようとしたことに、当然ながら周囲は強く反発しました。なかでも真っ向から猛反対したのが「長屋王(ながやおう)」です。

長屋王は、若い聖武天皇の代わりに政治を担った有力者で、藤原不比等に次ぐ権力者でした。おまけに長屋王は天智天皇と天武天皇の両方の血を引く特別な皇族です。藤原不比等も長屋王に娘のひとりを嫁がせるほど、その実力はある意味お墨付きの重要人物でした。

しかし、藤原不比等は光明子を皇后にする野望を叶えられないまま病死し、その争いは彼の四人の兄弟にバトンタッチすることになったのです。

長屋王vs藤原四兄弟

この「藤原四兄弟」こそが、藤原氏の今後の隆盛を担う「藤原四家」の祖たちでした。最初こそ長屋王に圧倒されて手も出なかった藤原四兄弟だったのですが、聖武天皇と光明子の間に生まれた基王が立太子後まもなく一歳で亡くなったのを、長屋王が呪詛して殺したのだとまことしやかに吹聴して責めたのです。呪いで殺した、なんて現代だと信じてもらえませんよね?だけど、ここは奈良時代。まだまだ呪いも現役で信じられ、皇族を呪ったりすれば重罪も重罪です。

かくして、無実の罪で長屋王は自害に追い込まれ(729年の「長屋王の変」)、藤原四兄弟は光明子を皇后へと押し上げ、父・藤原不比等の悲願を叶えたのでした。

今回のテーマとなる「藤原仲麻呂」は、光明子こと、光明皇后と甥と叔母の関係にあたり、藤原仲麻呂の台頭に深く関与する人物です。

2.藤原仲麻呂の台頭

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猛威を振るった天然痘の流行

藤原氏の娘が日本史上初の皇族ではない皇后となり、これから藤原四兄弟が朝廷で絶大な権力を握る……かに思えました。

長屋王の死後、734年に日本でにわかに天然痘の流行が始まったのです。ワクチンのない奈良時代ですから、天然痘による死者は100万人から150万人に上るとんでもない大惨事となりました。そして、その死者のなかにはあの藤原四兄弟の面々も含まれたのです。

藤原四兄弟のいなくなった朝廷では、光明皇后の異父兄にあたる橘諸兄(たちばなのもろえ)が登用されました。さらに唐から帰国した吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)が重用され、朝廷から藤原氏の勢力が衰退していったのです。

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