奈良時代日本史歴史

平城京から平安京へ。一大事業を成し遂げた「桓武天皇」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

軍隊を廃止して「健児制」導入

徳政相論の結果、桓武天皇は、外的脅威のある所、たとえば、蝦夷との最前線の陸奥国や出羽国や、朝鮮半島や大陸からアクセスしやすい佐渡国(新潟県佐渡市、佐渡島)、西海道諸国(九州とその周辺)などの要所を除いた諸国の常備の軍隊を廃止してしまいます。

そして、代わりに導入されたのが「健児(こんでい)制」でした。

「健児制」は、地方官や農民の子弟のなかから武芸に秀でたものを選抜した「健児」を集めて各国の要所や国庫の守備に当たらせる制度です。健児制のおかげで農民たちは兵役の負担から解放されることとなり、農業に専念することができるようになりました。

かなり思い切った政策を行った桓武天皇でしたが、しかし、実は健児制は不十分だったのです。健児たちは警察ではないのですから、個人同士の諍いはもとより、大規模な反乱にも対応できる戦力ではありませんでした。こうして、日本は実質無政府状態となったのです。

ただ、都だけは検非違使(当時の警察)が設立されて、治安回復と維持がなされています。

地方役人の不正を取り締まる勘解由使

地方へ派遣された国司(役人)が任期を終えたとき、引継ぎが行われた証として、後任から前任に「解由状」が発行されます。けれど、時代が進むにつれて利権問題が発生して前任と後任の間でもめ事が起こるケースが増えるようになりました。

そんな地方行政にテコ入れを行うため、桓武天皇は「勘解由使(かげゆし)」という地方行政の監査、監督を行う機関を新設します。

勘解由使は国司たちの紛争を抑えるのみならず、少し後には都の各官職の交代時にも監査を入れる地方、中央ともに重要な役職となりました。

改善を目指し続けた桓武天皇

奈良時代末期、寺院勢力による政治への介入を物理的に引き離して遷都を決めた桓武天皇。長岡京で辛酸を舐めつつも、平安京遷都に成功し、以降、江戸時代が終わるまでの長きにわたって日本の首都であり続けます。東北の蝦夷征討で大きな成果を上げたことも、遷都と並んでよく知られる桓武天皇の事業です。また、軍隊の廃止や勘解由使の設置など、思い切った政策を行いました。

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