
ですが、桓武天皇はそれだけじゃない……が、これは本記事で歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していこう。

ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。奈良時代、平安時代のどちらにおいても重要人物として名前を残す桓武天皇。これまでの記事でもたくさん登場しているため、詳しくなった。
奈良時代の終わり
奈良時代末期、「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」から「道鏡事件」と続き、朝廷は大波乱に満ちていました。さらに770年に称徳天皇が崩御すると、今度は後継者問題が浮上します。生涯独身だった称徳天皇に後継者はおらず、また、政情不安から度重なった政変によって多くの皇族が粛清されていたのです。
そんななか立太子されたのが、62歳の白壁王でした。白壁王はそれまで続いていた天武天皇の血筋ではなく、天智天皇(中大兄皇子)の孫にあたる皇族です。天武朝では一番に粛正に合いそうなものですが、白壁王は酒におぼれたふりをして難を逃れていたのでした。
白壁王は即位して光仁天皇となると、なんと70歳まで政務に努めあげます。その光仁天皇の跡を継いだのが、今回のテーマとなる「桓武天皇」でした。
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遷都への決意
光仁天皇は称徳天皇の御代にさかんに行われていた法会をとりやめたりして朝廷と仏教を遠ざける方針をとっていました。光仁天皇の息子・桓武天皇もまたその方針を受け継ぎます。
ただし、仏教を遠ざけたからといって、ないがしろにしたわけではありません。当時の日本には仏教の力で国を守る「鎮護国家」の思想があり、光仁天皇、桓武天皇ともに仏教を尊重していました。これは道鏡のような権力に入り込もうとする僧侶を出現させないための方針だったのです。
しかし、奈良仏教各寺から朝廷への干渉や専横は、すぐにでも解決しなければならない問題でしたから、桓武天皇は寺院勢力から政治を切り離すため平城京から都を遷すことにしました。そうして最初に選ばれたのが山背国(京都府南部)の長岡京だったのです。
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藤原種継の暗殺事件

784年、桓武天皇は側近の「藤原種継」らに命じて長岡(京都府向日市と長岡京市のあたり)を調査させて遷都しました。もちろん、奈良の寺院の移転は許していません。これでようやく問題は解決……されませんでした。実は、この遷都には寺院勢力だけでなく、貴族からの反対も大きかったのです。
その不満は翌年「藤原種継の暗殺」となって長岡京に最初の影を落としました。
早良親王のたたり
藤原種継の暗殺には、奈良の大仏で有名な東大寺に関わる役人も複数いたとされています。
また、東大寺は、桓武天皇の弟「早良親王」が子どものころに出家して所属していたお寺でした。実際に早良親王が暗殺事件に関係していたかはわかりません。しかし、早良親王が還俗(僧侶をやめて普通の人に戻ること)した後も東大寺との関係があったことから、暗殺事件への関与を疑われて流罪となってしまったのでした。無罪を訴えるため、早良親王は絶食して亡くなってしまいます。
長岡京に異変が起こったのは、それからしばらく経ったあとのことでした。桓武天皇の母親・高野新笠、それに妃三人が次々と病死し、皇太子の安殿親王(のちの平城天皇)が病にかかり、さらに都には大雨や洪水などの災害と疫病の流行が起こったのです。立て続く凶事に、人々は早良親王が都を祟っているのだと恐れました。
桓武天皇は早良親王のたたりを鎮めようと法会を行いますが、どんな法会も効果はなく……。結局、たたりの続く長岡京は捨てられることになりました。
長岡京が日本の都だったのはわずか十年。784年から794年までのことです。
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