襖があって、障子があって、違い棚があって、床の間もある。そんな典型的な和風建築の原型は実は「銀閣寺」。築500数十年、途中で建て替えられることなく、リアルタイムの姿を保っている。

銀閣寺が完成したのは室町時代中頃(戦国時代初頭とも言える)、戦乱が絶えない時代。そんな中、和風建築の文化が発展していった経緯を室町時代オタクのR175と解説していく。

ライター/R175

京都府在住の室町時代オタク。理系出身であるが、京都の寺社仏閣を巡るのが趣味。理系らしく論理立てて説明することを心掛ける。

1.将軍隠居の場所~銀閣~

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銀閣の建物群が建てられたのは1480~90年代。応仁の乱(1467~1477年)の直後。乱が終わったとはいえ、混乱は続いていた時期です。

そんな時代に、将軍の隠居として建てられたのが「銀閣」。銀閣は「書院造」と呼ばれる現代の和風建築の元になった建築様式で建てられており、絵画やお茶などを楽しむ風流な生活が送られていました。

お金があれば軍事費に使いたい時代にどうやって和風建築の文化が出来ていったのでしょうか。

2.将軍の暴走がきっかけ?

戦乱が続いている時代に、「風流な」和風の文化が発展したのは将軍「足利義政」が政治を捨てて、芸術に走ったからと言えるでしょう。

ただ、ここで疑問が生じますね。

銀閣建設費はどこから捻出したのか?」

軍事費に使わず、芸術にお金を使いこんで誰も文句を言わないのか?

実は「やり手」の将軍

教科書ではあまり強調されませんが、銀閣を建てた8代将軍足利義政、当初はかなり政治を頑張っていました

6代将軍足利義教の時代に将軍の決定権限を広げる策を取っていました。義政もこれに乗っかり、権威を振るっていました。

勘合貿易の復活

3代将軍足利義満が始めた勘合貿易(日明貿易)は、4代義持の時代に中断、6代義教の時代に再び復活しますが、義教死後はしばらくまたもや中断していました。


そして義政はまたまた勘合貿易を復活させたのです。勘合貿易による利益は大きく、幕府の財政は潤いました。

内乱への介入

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1455年、関東で享徳の乱という内乱が起きました。

鎌倉公方(関東で将軍の代わりをする人)と、それを補佐する関東管領の対立

鎌倉公方は「関東では我こそ一番」と言わんばかりに暴走しますが、関東管領はこれに反対し、対立が起きます。

これに対し義政はに対し積極的に軍を派遣し、内乱を鎮圧させ将軍の権威を示しました。

将軍側近集団の団結

政所は財政関連、奉行衆は司法関連、奉公衆は軍事関連を担当する役所。義政はこれら組織の団結力を強化し、有力な守護大名に対抗できるようにしました。


将軍とは1人だけだと弱いから、集団の地からを使うという手法に出ました。6代将軍義教の独裁政治の反省点を生かしたのかもしれませんね。


財政、司法、軍事を司る機関が強化されれば当然幕府としての権力は高まり幕府財政も潤う方向にいきます。

なぜ団結力を高められたか

当時の政所執事はの伊勢貞親は義政を幼少期から育てていまきた。そのため義政と信頼関係が強く、将軍側近勢をまとめ上げられやさかったと考えられます。

\次のページで「3.やる気をなくした将軍の暴走」を解説!/

3.やる気をなくした将軍の暴走

前項に示す通り義政、当初はかなり政治を頑張っていました。


しかし、そんな義政もやる気をなくすことに。何があったのでしょうか。

後継ぎ問題

足利義政には息子がおらず、後継ぎのため出家していた弟を還俗させていました。それなのに、なんと翌年、義政に実の息子・義尚が誕生


そこで義政は実の息子、義尚を将軍にしたいと言い出します。出家していた弟をわざわざ還俗していたにも関わらずです。ここでどっちが将軍になるかの意見対立が発生。

なんで後継ぎでそんなに揉めるの?

どっちが将軍になるかによって、自分の立場が大きく変わってしまうから。


そらそうですね。自分が仲良くしてる人が将軍になった方が自分も出世のチャンス。どっちが将軍になるかは大名たちにとっては死活問題。そして、意見の対立が生まれると戦争になります。武力行使で決着させる中世の日本で当たり前の光景。

応仁の乱勃発

誰が義政の後を継ぐのか?それをきっかけに大名同士の対立が生じ、結果的に10年間にも及ぶ大戦争が起きました。これが応仁の乱。


京都で「先の戦争」と言えば、「第二次世界大戦」ではなく「応仁の乱」を指します。


第二次世界大戦で京都は戦火を逃れていますから、最後の戦災は応仁の乱まで遡っちゃうわけです。

義政やる気なくす

些細なきっかけであってもすぐ戦争になる時代。幕府の権力を高めて政治を安定させようと頑張っていた義政もついにやる気をなくしました。


応仁の乱真っ只中の1473年、義政は息子義尚に将軍職を譲りました。


そしてその10年後には京都東山に山荘を作り始めます。

あまり強く出られず

6代将軍義教の時代、あまりに厳しく支配しすぎたため大名たちから反感を買っていました。

そのため、義政は反乱が起きそうになってもあまり強く押さえつけることが出来ません。

頭ごなしに武力で抑えつけても義教のように反感を買って二の舞になる恐れがあるから。

かといって、温和な態度を取るとすぐに戦乱が起きるし、難しいところだったと想像されます。

隠居拠点・銀閣の建設費捻出

応仁の乱後の混乱の中、義政は容赦なく負担を課します。


元々、勘合貿易を復活させたり、幕府権力を高める策を取ったりするなどしていたため、ある程度はお金を集めてくる仕組みに出来ていました。幕府の権力が弱くなって集まる税収が減ったとはいえ、ある程度は隠居建設につぎ込むための予算を確保できたと考えられます。

銀閣建設費捻出には多少無理があったか?

元々権力を持っていた義政とは言え、応仁の乱直後の混乱の中で隠居建設という特に緊急性のない予算を集めるのは流石に無理があったようです。

応仁の乱直後、飢饉の時期にも義政は通常通り税を集めようとしていたのを見て、当時の天皇が抗議。

しかし、義政はその抗議を無視し、税の徴収にあたたったのでした。

和風建築の文化発展の陰にそういった無茶振りがあったことも忘れてはいけません。

\次のページで「4.銀閣の建設」を解説!/

4.銀閣の建設

経緯は色々あったものの、和風建築の原型、銀閣の建物群の建設が進みました。


銀閣の建物で見られる建築様式が現代の和風建築の原型となっています。


現存しているのは、銀閣東求堂。この2つを詳しく見てみましょう。

銀閣

まずは銀閣について。

銀閣は銀閣寺の建物群を代表する2階建のあの建物。教科書でもよく目にしますね。

ちなみに、足利義政はこの銀閣が完成する前に亡くなっています。

なぜ「銀」?

金閣は文字通り見た目も金色ですが、銀閣は銀色ではありませんね。


そして、創建当初は「銀閣」という名称ではありませんでした。銀閣という呼称がついたのは江戸時代から。


銀閣と呼ばれるようになった理由はなんだったのでしょうか?

当時は銀箔が貼られていた?

誰もが一度は見てみたい。銀色の銀閣。当初は銀箔が貼られていたけど、後に銀箔が剥がれ落ちて今の姿になったのではなかろうか?

かつてはそのうような説もありましたが2007年の調査で銀閣には当初から銀箔が貼られていなかったことは確認されています。

よって銀箔を塗った銀閣寺は幻のもの。

当初は塗る予定?

銀箔を貼る予定だったけど、予算の関係で叶わず。または銀箔を貼る前に義政が亡くなった。


前述の通り、ただでさえ建設費捻出に難儀している状況から、仮に銀箔を準備するだったとしても予算が足りなさそうですね。

銀色に見えたから?

image by PIXTA / 47654170

銀閣外壁には当初、黒漆が塗られていたと言われています。黒漆塗りの外壁に日光が当たると角度によっては銀色に見える。そのことから「銀閣」と呼ばれたという説もあります。

金閣との対比

実は一番有力な説は、金閣に対応させて「銀閣」という名称がついたというもの。

北山に建てられたのが「金閣」。そして東山にも似たようなコンセプトの建築物がある。「それなら銀閣と呼ぼう」といった具合。

 

東求堂

銀閣と並んでよく登場するのが東求堂。こちらは銀閣より数年早い時期、義政が生きている間に完成しています。

和風建築の様式「書院造」の説明に出てくる写真は実はこの東求堂の内部。

書院造

書院造or書院造りとは現代の和風建築の基礎となっている建築様式。

書院造の走りが銀閣建物群の1つ東求堂に見られます。

襖があって、障子があって、床の間があって、違い棚があって、角柱がある。

そんな典型的な和風建築が書院造と理解しておけばOK。ここでは詳しい説明は割愛ささていただきます。

障子や襖単体はもっと昔から存在しましたが、それらを組み合わせて「書院造」たる様式が出来たのが銀閣の時代です。

東山文化

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Stephane D'Alu - Stephane D'Alu's photo, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

東山文化とは銀閣の建築様式に代表される「わび・さび」の文化。室町時代中期に発展したもの。東山は銀閣が建っている場所の地名。

この時期には能、茶道、華道、庭園、建築、連歌など多様な芸術が発展しました。

「わび・さび」とは貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする意識であり、いわゆる日本らしい渋い建築様式や庭園のこと。

足利義政は銀閣建設により、この東山文化発展に大きく寄与しました。

5.金閣に勝る点

銀閣は金閣に比べるとインパクト弱くマイナーな立ち位置。

しかし、銀閣が金閣より圧倒的に魅力的なポイントが1つあります。

それは、「リアルタイムのままの姿」であること。

金閣は不幸にも火災により焼失し、現存するのは1955年に再建された建物。

一方、銀閣は1490年に完成して以来今まで一度も建て替えられていません。基本的には当時の姿そのままです。

築年数のカウント

銀閣は築500年以上。

1486年   東求堂完成
1490年 銀閣完成

その後幾度か「解体修理」が行われています。解体修理とは、一度建物を分解して、傷んだ部品を交換し再び組み立てる修理のこと。ここで疑問が生じます。解体修理したら「再建」になるのでは?

木造建築のメンテナンス

解体したから築年がリセットされるわけではありません。なぜなら、木造建築物は「分解して修理」することを前提に設計されているから。

日本の建築物はしばしば「移築」が行われています。これは建物を分解して部品を別の場所に運び、再度組み立て直す工事のこと。

一例は、京都鉄道博物館にある旧二条駅駅舎。

鉄道博物館があるのはJR嵯峨野山陰線「梅小路京都西駅」。二条駅からは2駅分運んできて「移築」したのです。

木造建築は、傷んだ部品だけを交換したり、建物ごと別の場所に移動させたりといったメンテナンス性を考慮して、分解出来る仕様にしています。

木造で建てている時点で途中で分解すること前提というルール。

よって何度か解体修理している銀閣も築年数はリセットされず、リアルタイムのままの姿と言えます。

戦乱と「わびさび」

戦乱の時代に風流な和風文化(東山文化)が発展した背景をざっくりまとめます。

・時の将軍足利義政は自身の努力で一旦は将軍としての権威を高めていた。

・ところが、応仁の乱発生などにより政治が上手く行かずやる気をそがれる。

隠居して風流な生活をしたいと考える。

・何とか銀閣の建設費用を捻出

・政治から離れて、お茶、絵画、庭園といった芸術に没頭

「わびさび」を基調とする東山文化の発展に貢献、現代の日本風の建物にも引き継がれている。

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室町時代戦国時代日本史歴史

和風建築の先駆け「銀閣時」を室町時代オタクがわかりやすく解説

4.銀閣の建設

経緯は色々あったものの、和風建築の原型、銀閣の建物群の建設が進みました。


銀閣の建物で見られる建築様式が現代の和風建築の原型となっています。


現存しているのは、銀閣東求堂。この2つを詳しく見てみましょう。

銀閣

まずは銀閣について。

銀閣は銀閣寺の建物群を代表する2階建のあの建物。教科書でもよく目にしますね。

ちなみに、足利義政はこの銀閣が完成する前に亡くなっています。

なぜ「銀」?

金閣は文字通り見た目も金色ですが、銀閣は銀色ではありませんね。


そして、創建当初は「銀閣」という名称ではありませんでした。銀閣という呼称がついたのは江戸時代から。


銀閣と呼ばれるようになった理由はなんだったのでしょうか?

当時は銀箔が貼られていた?

誰もが一度は見てみたい。銀色の銀閣。当初は銀箔が貼られていたけど、後に銀箔が剥がれ落ちて今の姿になったのではなかろうか?

かつてはそのうような説もありましたが2007年の調査で銀閣には当初から銀箔が貼られていなかったことは確認されています。

よって銀箔を塗った銀閣寺は幻のもの。

当初は塗る予定?

銀箔を貼る予定だったけど、予算の関係で叶わず。または銀箔を貼る前に義政が亡くなった。


前述の通り、ただでさえ建設費捻出に難儀している状況から、仮に銀箔を準備するだったとしても予算が足りなさそうですね。

銀色に見えたから?

image by PIXTA / 47654170

銀閣外壁には当初、黒漆が塗られていたと言われています。黒漆塗りの外壁に日光が当たると角度によっては銀色に見える。そのことから「銀閣」と呼ばれたという説もあります。

金閣との対比

実は一番有力な説は、金閣に対応させて「銀閣」という名称がついたというもの。

北山に建てられたのが「金閣」。そして東山にも似たようなコンセプトの建築物がある。「それなら銀閣と呼ぼう」といった具合。

 

東求堂

銀閣と並んでよく登場するのが東求堂。こちらは銀閣より数年早い時期、義政が生きている間に完成しています。

和風建築の様式「書院造」の説明に出てくる写真は実はこの東求堂の内部。

書院造

書院造or書院造りとは現代の和風建築の基礎となっている建築様式。

書院造の走りが銀閣建物群の1つ東求堂に見られます。

襖があって、障子があって、床の間があって、違い棚があって、角柱がある。

そんな典型的な和風建築が書院造と理解しておけばOK。ここでは詳しい説明は割愛ささていただきます。

障子や襖単体はもっと昔から存在しましたが、それらを組み合わせて「書院造」たる様式が出来たのが銀閣の時代です。

東山文化

東山文化とは銀閣の建築様式に代表される「わび・さび」の文化。室町時代中期に発展したもの。東山は銀閣が建っている場所の地名。

この時期には能、茶道、華道、庭園、建築、連歌など多様な芸術が発展しました。

「わび・さび」とは貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする意識であり、いわゆる日本らしい渋い建築様式や庭園のこと。

足利義政は銀閣建設により、この東山文化発展に大きく寄与しました。

5.金閣に勝る点

銀閣は金閣に比べるとインパクト弱くマイナーな立ち位置。

しかし、銀閣が金閣より圧倒的に魅力的なポイントが1つあります。

それは、「リアルタイムのままの姿」であること。

金閣は不幸にも火災により焼失し、現存するのは1955年に再建された建物。

一方、銀閣は1490年に完成して以来今まで一度も建て替えられていません。基本的には当時の姿そのままです。

築年数のカウント

銀閣は築500年以上。

1486年   東求堂完成
1490年 銀閣完成

その後幾度か「解体修理」が行われています。解体修理とは、一度建物を分解して、傷んだ部品を交換し再び組み立てる修理のこと。ここで疑問が生じます。解体修理したら「再建」になるのでは?

木造建築のメンテナンス

解体したから築年がリセットされるわけではありません。なぜなら、木造建築物は「分解して修理」することを前提に設計されているから。

日本の建築物はしばしば「移築」が行われています。これは建物を分解して部品を別の場所に運び、再度組み立て直す工事のこと。

一例は、京都鉄道博物館にある旧二条駅駅舎。

鉄道博物館があるのはJR嵯峨野山陰線「梅小路京都西駅」。二条駅からは2駅分運んできて「移築」したのです。

木造建築は、傷んだ部品だけを交換したり、建物ごと別の場所に移動させたりといったメンテナンス性を考慮して、分解出来る仕様にしています。

木造で建てている時点で途中で分解すること前提というルール。

よって何度か解体修理している銀閣も築年数はリセットされず、リアルタイムのままの姿と言えます。

戦乱と「わびさび」

戦乱の時代に風流な和風文化(東山文化)が発展した背景をざっくりまとめます。

・時の将軍足利義政は自身の努力で一旦は将軍としての権威を高めていた。

・ところが、応仁の乱発生などにより政治が上手く行かずやる気をそがれる。

隠居して風流な生活をしたいと考える。

・何とか銀閣の建設費用を捻出

・政治から離れて、お茶、絵画、庭園といった芸術に没頭

「わびさび」を基調とする東山文化の発展に貢献、現代の日本風の建物にも引き継がれている。

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