4.銀閣の建設
経緯は色々あったものの、和風建築の原型、銀閣の建物群の建設が進みました。
銀閣の建物で見られる建築様式が現代の和風建築の原型となっています。
現存しているのは、銀閣と東求堂。この2つを詳しく見てみましょう。
銀閣
まずは銀閣について。
銀閣は銀閣寺の建物群を代表する2階建のあの建物。教科書でもよく目にしますね。
ちなみに、足利義政はこの銀閣が完成する前に亡くなっています。
なぜ「銀」?
金閣は文字通り見た目も金色ですが、銀閣は銀色ではありませんね。
そして、創建当初は「銀閣」という名称ではありませんでした。銀閣という呼称がついたのは江戸時代から。
銀閣と呼ばれるようになった理由はなんだったのでしょうか?
当時は銀箔が貼られていた?
誰もが一度は見てみたい。銀色の銀閣。当初は銀箔が貼られていたけど、後に銀箔が剥がれ落ちて今の姿になったのではなかろうか?
かつてはそのうような説もありましたが、2007年の調査で銀閣には当初から銀箔が貼られていなかったことは確認されています。
よって銀箔を塗った銀閣寺は幻のもの。
当初は塗る予定?
銀箔を貼る予定だったけど、予算の関係で叶わず。または銀箔を貼る前に義政が亡くなった。
前述の通り、ただでさえ建設費捻出に難儀している状況から、仮に銀箔を準備するだったとしても予算が足りなさそうですね。
銀色に見えたから?
銀閣外壁には当初、黒漆が塗られていたと言われています。黒漆塗りの外壁に日光が当たると角度によっては銀色に見える。そのことから「銀閣」と呼ばれたという説もあります。
金閣との対比
実は一番有力な説は、金閣に対応させて「銀閣」という名称がついたというもの。
北山に建てられたのが「金閣」。そして東山にも似たようなコンセプトの建築物がある。「それなら銀閣と呼ぼう」といった具合。
東求堂
銀閣と並んでよく登場するのが東求堂。こちらは銀閣より数年早い時期、義政が生きている間に完成しています。
和風建築の様式「書院造」の説明に出てくる写真は実はこの東求堂の内部。
書院造
書院造or書院造りとは現代の和風建築の基礎となっている建築様式。
書院造の走りが銀閣建物群の1つ東求堂に見られます。
襖があって、障子があって、床の間があって、違い棚があって、角柱がある。
そんな典型的な和風建築が書院造と理解しておけばOK。ここでは詳しい説明は割愛ささていただきます。
障子や襖単体はもっと昔から存在しましたが、それらを組み合わせて「書院造」たる様式が出来たのが銀閣の時代です。
東山文化
Stephane D’Alu – Stephane D’Alu‘s photo, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
東山文化とは銀閣の建築様式に代表される「わび・さび」の文化。室町時代中期に発展したもの。東山は銀閣が建っている場所の地名。
この時期には能、茶道、華道、庭園、建築、連歌など多様な芸術が発展しました。
「わび・さび」とは貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする意識であり、いわゆる日本らしい渋い建築様式や庭園のこと。
足利義政は銀閣建設により、この東山文化発展に大きく寄与しました。
5.金閣に勝る点
銀閣は金閣に比べるとインパクト弱くマイナーな立ち位置。
しかし、銀閣が金閣より圧倒的に魅力的なポイントが1つあります。
それは、「リアルタイムのままの姿」であること。
金閣は不幸にも火災により焼失し、現存するのは1955年に再建された建物。
一方、銀閣は1490年に完成して以来今まで一度も建て替えられていません。基本的には当時の姿そのままです。
築年数のカウント
銀閣は築500年以上。
1486年 東求堂完成
1490年 銀閣完成
その後幾度か「解体修理」が行われています。解体修理とは、一度建物を分解して、傷んだ部品を交換し再び組み立てる修理のこと。ここで疑問が生じます。解体修理したら「再建」になるのでは?
木造建築のメンテナンス
解体したから築年がリセットされるわけではありません。なぜなら、木造建築物は「分解して修理」することを前提に設計されているから。
日本の建築物はしばしば「移築」が行われています。これは建物を分解して部品を別の場所に運び、再度組み立て直す工事のこと。
一例は、京都鉄道博物館にある旧二条駅駅舎。
鉄道博物館があるのはJR嵯峨野山陰線「梅小路京都西駅」。二条駅からは2駅分運んできて「移築」したのです。
木造建築は、傷んだ部品だけを交換したり、建物ごと別の場所に移動させたりといったメンテナンス性を考慮して、分解出来る仕様にしています。
木造で建てている時点で途中で分解すること前提というルール。
よって何度か解体修理している銀閣も築年数はリセットされず、リアルタイムのままの姿と言えます。
戦乱と「わびさび」
戦乱の時代に風流な和風文化(東山文化)が発展した背景をざっくりまとめます。
・時の将軍足利義政は自身の努力で一旦は将軍としての権威を高めていた。
・ところが、応仁の乱発生などにより政治が上手く行かずやる気をそがれる。
・隠居して風流な生活をしたいと考える。
・何とか銀閣の建設費用を捻出
・政治から離れて、お茶、絵画、庭園といった芸術に没頭
・「わびさび」を基調とする東山文化の発展に貢献、現代の日本風の建物にも引き継がれている。