3.やる気をなくした将軍の暴走
前項に示す通り義政、当初はかなり政治を頑張っていました。
しかし、そんな義政もやる気をなくすことに。何があったのでしょうか。
後継ぎ問題
足利義政には息子がおらず、後継ぎのため出家していた弟を還俗させていました。それなのに、なんと翌年、義政に実の息子・義尚が誕生。
そこで義政は実の息子、義尚を将軍にしたいと言い出します。出家していた弟をわざわざ還俗していたにも関わらずです。ここでどっちが将軍になるかの意見対立が発生。
なんで後継ぎでそんなに揉めるの?
どっちが将軍になるかによって、自分の立場が大きく変わってしまうから。
そらそうですね。自分が仲良くしてる人が将軍になった方が自分も出世のチャンス。どっちが将軍になるかは大名たちにとっては死活問題。そして、意見の対立が生まれると戦争になります。武力行使で決着させる中世の日本で当たり前の光景。
応仁の乱勃発
誰が義政の後を継ぐのか?それをきっかけに大名同士の対立が生じ、結果的に10年間にも及ぶ大戦争が起きました。これが応仁の乱。
京都で「先の戦争」と言えば、「第二次世界大戦」ではなく「応仁の乱」を指します。
第二次世界大戦で京都は戦火を逃れていますから、最後の戦災は応仁の乱まで遡っちゃうわけです。
義政やる気なくす
些細なきっかけであってもすぐ戦争になる時代。幕府の権力を高めて政治を安定させようと頑張っていた義政もついにやる気をなくしました。
応仁の乱真っ只中の1473年、義政は息子義尚に将軍職を譲りました。
そしてその10年後には京都東山に山荘を作り始めます。
あまり強く出られず
6代将軍義教の時代、あまりに厳しく支配しすぎたため大名たちから反感を買っていました。
そのため、義政は反乱が起きそうになってもあまり強く押さえつけることが出来ません。
頭ごなしに武力で抑えつけても義教のように反感を買って二の舞になる恐れがあるから。
かといって、温和な態度を取るとすぐに戦乱が起きるし、難しいところだったと想像されます。
隠居拠点・銀閣の建設費捻出
応仁の乱後の混乱の中、義政は容赦なく負担を課します。
元々、勘合貿易を復活させたり、幕府権力を高める策を取ったりするなどしていたため、ある程度はお金を集めてくる仕組みに出来ていました。幕府の権力が弱くなって集まる税収が減ったとはいえ、ある程度は隠居建設につぎ込むための予算を確保できたと考えられます。
銀閣建設費捻出には多少無理があったか?
元々権力を持っていた義政とは言え、応仁の乱直後の混乱の中で隠居建設という特に緊急性のない予算を集めるのは流石に無理があったようです。
応仁の乱直後、飢饉の時期にも義政は通常通り税を集めようとしていたのを見て、当時の天皇が抗議。
しかし、義政はその抗議を無視し、税の徴収にあたたったのでした。
和風建築の文化発展の陰にそういった無茶振りがあったことも忘れてはいけません。
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