今回は14世紀のイギリス王とフランス王が王位を争った「百年戦争」についてです。事の発端はイギリス国王が自分の母がカペー朝出身であることを理由にフランスの王位継承を主張したことから始まったんです。

それじゃあ百年戦争の詳細やその後の2国はどうなったのかをヨーロッパ史に詳しい歴女のまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史好きのアラサー歴女。特にハプスブルク家やヴァロワ家など各国の王家に関する書籍を愛読している。今回は14世紀に起こった百年戦争について解説していく。

1 百年戦争の背景には何があったのか?

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百年戦争とは1339年に起こったイギリスとフランスの戦争。しかし正確にこの百年戦争をみれば、イギリス(イングランド)の王家とフランスの王家が争い、両王家の対立に各国の諸侯らが参戦した戦いのこと。つまり国家同士の戦争ではなく、あくまでも王家同士の争いという位置付けです。ここでは分かりやすくするため、あえてイギリスとフランスと表記して両者の戦争の経緯を見ていきましょう。

1-1 百年戦争のきっかけはエドワード3世の王位継承要求

フランスでは10世紀後半から1328年までをカペー朝が治めていました。しかしカペー朝の最後の君主、シャルル4世が死去したことで、彼のいとこであるフィリップ6世が即位。

しかしこのフィリップ6世がヴァロワ朝を興すと、それに異議を唱える声が。イギリスのプランタジネット朝エドワード3世です。彼の母がカペー朝出身だったため、フランスの王位継承権を主張することに。一度はフィリップ6世の即位を認めましたが、それを取り消します。更に1339年にフランスに侵入したことで戦争が始まりました。

1-2 両者の思惑

百年戦争が起こったきっかけはエドワード3世がフランスの王位継承権を主張してフランスに対して戦争を仕掛けたこと。しかしこの戦争の背景には2つの領地を巡る対立がありました。

イギリスはフランスのギエンヌ地方を領有しており、この地はワインの生産地として有名。ところがこの地をフランス王が支配しようとしたため両者が対立することに。他にもフランドルを巡って両者は対立。イギリスは豊かなフランドルに羊毛を輸出して利益を上げていたため、フランスがフランドルを直接支配下に治めることを阻止したい考えがあったのです。

2 百年戦争へ

こうして始まった百年戦争はどのような経緯で進んでいったのでしょうか。それでは見ていきましょう。

2-1 クレシーの戦い 

クレシーの戦い
ジャン・フロワサール - From Chapter CXXIX of Jean Froissart's Chronicles, example source at http://www.maisonstclaire.org/resources/chronicles/froissart/book_1/ch_126-150/fc_b1_chap129.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

百年戦争はフランスのジャンヌ・ダルクが現れるまでイギリスの優勢が続きました。1346年にはクレシーの戦いが起こることに。これはイギリスのエドワード黒太子の活躍によって勝利を収めます。クレシーの戦いではイギリス側は長弓兵を駆使したことが勝因。この長弓兵は1分間に6回も矢を放つことができたそう。またイギリス側は初めて大砲を用いた戦術で戦争の歴史の中では画期的となることに。

\次のページで「2-2 ポワティエの戦い」を解説!/

2-2 ポワティエの戦い

1356年のポワティエの戦いにおいて、エドワード黒太子がフランス王のジャン2世を捕えます。この時フランス側はイギリスよりも4倍の兵を集めて挑みましたが、騎馬に乗って戦うスタイル。対するイギリスは長弓を使って絶え間なくフランス兵に攻撃し、落馬したところを打ち取ったためフランスは敗れました。

ちなみに当時の捕虜は身分の高い人物がなることが多く、身代金を得るために捕虜は命を落とすことは少なかったそう。ジャン王の時にも、ジャンの身柄を奪おうとしたイギリスの騎士たちに対しケンカの仲裁をし、更に彼らに向かって自分は大領主だから騎士たち全員を富ませることができると諫めたというエピソードも残っています。

2-3 ヨーロッパを襲った黒死病

エドワード黒太子の活躍によってフランスは南西部を奪われることに。更に14世紀にはヨーロッパでペストが大流行しました。ペスト菌は貿易船により、黒海からイタリアへ。更にペストは南フランスからヨーロッパ各地へもたらされました。当時の医学ではペストに有効な治療ができず、その結果ヨーロッパ全域で3分の1にあたる人々が亡くなることに。

ペストにかかると体が黒くなって絶命したことから別名を「黒死病」と呼びます。百年戦争中のフランスでは戦争で雇われた傭兵らが休戦中に村を襲うことが頻繁に起こっていたこと、更にペストの流行から人々の意識の中で死が身近なものとして捉えられるように。この結果、ブリューゲルの「死の勝利」などの逃げられない死をテーマにした絵画が多く見られるようになりました。

2-4 ジャックリーの乱

また1358年にフランス国内ではジャックリーの反乱が起こりました。指導者にギョーム・カルル、10万人もの農民が約3ヵ月間の間領主の館などを襲撃したのです。ちなみに当時の貴族らが農民のことを蔑称でジャックと呼んだため、この名を冠した名が反乱の名となりました。そしてこの乱の背景には、百年戦争の休戦中に傭兵が農村を頻繁に襲い、これに対して貴族らが農民を保護しなかったこと、更に税金の負担を増やしたことから農民の不満が高まったことで起こることに。

2-5 イギリスではワット・タイラーの乱

イギリスではワット・タイラーの乱が起こります。これはプランタジネット朝のリチャード2世が百年戦争とスコットランドとの戦費を賄うために、12歳以上の国民に人頭税を課税し、厳しく取り立てるようになったことがきっかけに。これに対し、多くの農民らから不満が高まりました。そんな時にジョン・ボールが作った「アダムが耕し、イブが紡いでいた時、だれが領主だったか」という歌が大流行。そして1381年に農民一揆が起こりました。

その後ワット・タイラーが反乱軍を組織し、ロンドンへ乗り込みました。リチャードはロンドン塔へ避難しますが取り囲まれてしまい、そこでワット・タイラーの要求(農奴制の即時撤廃など)を認めることに。しかしその後反乱軍は鎮圧され、国王等の支配層の支配は強まることに。一方で農奴の解放は行われ、これによりヨーマンが誕生しました。

2-6 トロワ条約

イギリスではリチャード2世が貴族の反発を招き1399年に廃位。王位は従兄弟のヘンリー4世に移り、ここからランカスター朝が始まりました。1400年代になると、シャルル6世が精神に異常をきたしたことからフランス国内では内乱が起こることに。このフランスの混乱の隙にヘンリー4世の息子、ヘンリー5世がフランスへ侵攻。1415年にアザンクールの戦いで大勝しました。

1420年にはトロワ条約を結ぶことに。トロワ条約では、ヘンリー5世のもとにヴァロワ家のカトリーヌを嫁がせてシャルル6世の亡き後はフランス王位はヘンリー5世あるいはカトリーヌとの間に生まれた子をフランス王とする内容。イギリス側にとってかなり有利となる条約でした。そしてシャルル6世、ヘンリー5世が亡くなったため、わずか生後半年の息子ヘンリーが6世となることに。トロワ条約ではシャルル6世の子、シャルル王太子(後の7世)には王位継承が認められていませんでしたが、7世として即位することに。

\次のページで「2-7 ジャンヌ・ダルクの出現」を解説!/

2-7 ジャンヌ・ダルクの出現

フランスがイギリスに敗戦を重ねている際にフランスの救世主、ジャンヌ・ダルクが登場しました。しかし彼女は一体どんな人物だったのでしょうか。

彼女は1412年にフランス北東部のドンレミ村で誕生。裕福な農家の元に生まれた彼女は、羊の世話や畑仕事をよく手伝っていたそう。そして教会にも通い、祈りの暗唱もしていたそう。そんな彼女に転機が訪れたのは13歳の時。神の声を聞くという体験をすることに。更に「シャルル王太子をランスで即位させよ」という具体的な声を聞いたそう。この体験から彼女は1429年の2月にシャルルに謁見。そこでシャルルから白銀の甲冑を与えられました。その後彼女はフランスを救うべく戦場へ向かうことに。

2-8 フランスの勝利

Scherrer jeanne enters orlean.jpg
ジャン=ジャック・シェラー - http://www.dhm.de/ausstellungen/mythen/english/f12.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

シャルルとの謁見からわずか3ヵ月。オルレアンの戦いでは、イギリス軍の包囲を解放。そして勝利を収めました。こうしてこれまで圧倒的に不利な戦況となっていたフランスが形勢逆転することに。

しかしこの百年戦争の立役者となったジャンヌ・ダルクですが、1430年にコンピエーニュでブルゴーニュ公に捕らわれることに。そしてイギリス軍へと身柄が引き渡されました。ジャンヌは翌年にルーアンで宗教裁判にかけられ、火刑に処されることに。こうしてフランスの英雄はわずか19歳の若さで生涯を閉じました。

3 百年戦争後のフランスとイギリス

100年以上も続いたイギリスとフランスの戦争は、1453年にフランスの勝利で終結することに。イギリスはフランスのカレーのみを領土としてその他の領地は失うことに。では百年戦争後のフランスとイギリスはどのように進んでいったのか詳しく見ていきましょう。

3-1 フランスは王権を強化

百年戦争は終始劣勢が続いていたフランスでしたが、ジャンヌ・ダルクの登場によって形成逆転し勝利を収めました。オルレアンの戦い後にランスで戴冠式をしたシャルルは、シャルル7世として正式にフランス王に即位。そしてイギリスに対する政策を転換し、穏健な外交戦略を行うように。

そして百年戦争後はジャンヌの名誉を回復させるために復権裁判を命じます。これによって異端とされ処刑されたジャンヌは1456年に無罪となりました。ちなみに彼女の死からおよそ500年後にはローマ教皇庁から聖女に列聖されることに。他にもシャルルは百年戦争で諸侯や騎士らが没落したため、商人と手を結んで王権を強化していくことに成功しました。

3-2 イギリスは内乱へ

一方フランスに敗れることになったイギリスは百年戦争後にどうなったのでしょうか。

ランカスター朝のヘンリー6世は精神に異常をきたし、息子を認識できない状態となることに。これに対してかねてからランカスター朝に異を唱えていたヨーク家のリチャードが国王を襲撃したことから内戦が始まりました。リチャードが内戦で死去すると、彼の息子のエドワードが有力貴族の助力を得て1641年にロンドンで戴冠しヨーク朝を成立させることに。敗れたヘンリー6世らはスコットランドへと亡命しました。

3-3 薔薇戦争の由来

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その後ヘンリー6世の妃、マーガレットはフランスへ渡りルイ11世らに協力を求めました。1470年に突然襲撃されたエドワード4世はネーデルランドへ逃げることに。4世の逃亡によってヘンリー6世は復位することになりましたが、エドワード4世がフランスのブルゴーニュ公の支援を受けて戻ると、ヘンリー6世は再び捕らえられることに。その後ロンドン塔へ幽閉されたことで、ヨーク家の勝利となりました。しかし1483年にエドワード4世が死去すると、彼の息子エドワードが5世として継承することに。叔父であるリチャードはエドワードに対し彼の弟と共に戴冠までロンドン塔で待つように命じました。

ちなみにこの内戦は後年に薔薇戦争と呼ばれることに。この由来は、ランカスター家の紋章に赤薔薇が、ヨーク家の紋章に白薔薇が使われていたためです。

3-4 ドラローシュより「エドワード5世とリチャード兄弟」

Simmler Children of King Edward.jpg
Józef Simmler - cyfrowe.mnw.art.pl, パブリック・ドメイン, リンクによる

19世紀のフランス画家ドラローシュによる作品。この絵画の主人公は幼い2人の兄弟。2人の幼い兄弟は体を寄せ合いベッドに腰かけています。左隅に描かれている犬がドアに向かって吠えていることから、ドラローシュはシェイクスピアの説から描いたことが分かりますね。

薔薇戦争では前半はランカスター家が、後半からはヨーク朝が有利な展開となることに。そしてヨーク朝エドワード4世の死後、13歳の息子エドワード5世が継ぐことに。彼は戴冠するまでの間、彼の弟と共にロンドン塔で待機するように叔父であるリチャードに命じられました。しかしその後2人は行方不明に。こうして次に王冠を被ることになったのが、叔父のリチャード3世でした。

シェイクスピアは「リチャード3世」において、彼の特徴を「そばを通れば犬も吠える」と描写。そこからドラローシュは絵画の中でドアに向かって吠える犬の演出を入れていることが分かります。ここから兄弟のもとへリチャードの魔の手が迫っている瞬間が見る者に緊迫感を持って伝わってきますね。

\次のページで「3-5 テューダー朝が始まることに」を解説!/

3-5 テューダー朝が始まることに

その後戴冠したリチャード3世は2年という短い治世でした。反ヨーク家によるボズワーズの戦いによってリチャードは戦死したことで薔薇戦争が終結することに。(ヨーク家の直系は途絶えました)

さて、薔薇戦争において最も得をした人物は誰だったのでしょうか?それはヘンリー・テューダー、後のヘンリー7世。ところが彼の出自はかなり怪しいものでした。彼はランカスターの直系というわけではなく、「王の弟息子のそのまた曾孫」とも言われています。この出自についてヘンリー本人も負い目に感じていたのかもしれません。彼は王朝名をテューダーとし、箔をつけるためにヨーク家のエリザベスを妃とすることに。

百年戦争はイギリスとフランス王家同士の争い

イギリスのエドワード3世の王位継承の要求から始まったイギリスとフランスの百年戦争。当初からイギリスの優勢で戦争が進むことに。しかしフランスのシャルル7世の時代になると、フランスの救世主ジャンヌ・ダルクが現れることに。彼女によってオルレアンの包囲が解かれ、そこからフランスは形勢逆転することに。こうして百年戦争はフランスの勝利で終結することになりました。

しかし百年戦争後の両者は対照的な展開へと進みました。シャルルは王権強化に努めていったのに対し、イギリスではランカスター家ヨーク家の内戦が起こることに。これは後の時代に薔薇戦争と名付けられ、最終的にはヘンリー7世がテューダー朝を開くことになりました。

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5分で分かる「百年戦争」英エドワード3世が仕掛けた戦争を歴女がわかりやすく解説!

今回は14世紀のイギリス王とフランス王が王位を争った「百年戦争」についてです。事の発端はイギリス国王が自分の母がカペー朝出身であることを理由にフランスの王位継承を主張したことから始まったんです。

それじゃあ百年戦争の詳細やその後の2国はどうなったのかをヨーロッパ史に詳しい歴女のまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史好きのアラサー歴女。特にハプスブルク家やヴァロワ家など各国の王家に関する書籍を愛読している。今回は14世紀に起こった百年戦争について解説していく。

1 百年戦争の背景には何があったのか?

image by iStockphoto

百年戦争とは1339年に起こったイギリスとフランスの戦争。しかし正確にこの百年戦争をみれば、イギリス(イングランド)の王家とフランスの王家が争い、両王家の対立に各国の諸侯らが参戦した戦いのこと。つまり国家同士の戦争ではなく、あくまでも王家同士の争いという位置付けです。ここでは分かりやすくするため、あえてイギリスとフランスと表記して両者の戦争の経緯を見ていきましょう。

1-1 百年戦争のきっかけはエドワード3世の王位継承要求

フランスでは10世紀後半から1328年までをカペー朝が治めていました。しかしカペー朝の最後の君主、シャルル4世が死去したことで、彼のいとこであるフィリップ6世が即位。

しかしこのフィリップ6世がヴァロワ朝を興すと、それに異議を唱える声が。イギリスのプランタジネット朝エドワード3世です。彼の母がカペー朝出身だったため、フランスの王位継承権を主張することに。一度はフィリップ6世の即位を認めましたが、それを取り消します。更に1339年にフランスに侵入したことで戦争が始まりました。

1-2 両者の思惑

百年戦争が起こったきっかけはエドワード3世がフランスの王位継承権を主張してフランスに対して戦争を仕掛けたこと。しかしこの戦争の背景には2つの領地を巡る対立がありました。

イギリスはフランスのギエンヌ地方を領有しており、この地はワインの生産地として有名。ところがこの地をフランス王が支配しようとしたため両者が対立することに。他にもフランドルを巡って両者は対立。イギリスは豊かなフランドルに羊毛を輸出して利益を上げていたため、フランスがフランドルを直接支配下に治めることを阻止したい考えがあったのです。

2 百年戦争へ

こうして始まった百年戦争はどのような経緯で進んでいったのでしょうか。それでは見ていきましょう。

2-1 クレシーの戦い 

クレシーの戦い
ジャン・フロワサール – From Chapter CXXIX of Jean Froissart’s Chronicles, example source at http://www.maisonstclaire.org/resources/chronicles/froissart/book_1/ch_126-150/fc_b1_chap129.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

百年戦争はフランスのジャンヌ・ダルクが現れるまでイギリスの優勢が続きました。1346年にはクレシーの戦いが起こることに。これはイギリスのエドワード黒太子の活躍によって勝利を収めます。クレシーの戦いではイギリス側は長弓兵を駆使したことが勝因。この長弓兵は1分間に6回も矢を放つことができたそう。またイギリス側は初めて大砲を用いた戦術で戦争の歴史の中では画期的となることに。

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