日本史

8代将軍吉宗が定めた徳川将軍家の分家「御三卿」とは?歴女がわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ、今回は御三卿を取り上げるぞ。吉宗が作った将軍家の分家だったっけ、いろいろと詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代の将軍家にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、御三卿について5分でわかるようにまとめた。

1-1、御三卿とは

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狩野忠信 – The Japanese book “Exhibition of the Treasures and Papers of the Tokugawa Shogunal Household”, パブリック・ドメイン, リンクによる

御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に徳川将軍家の一族から分家した大名家の田安家、一橋家、清水家の3家のこと。

田安家の初代は8代将軍吉宗の次男宗武、一橋家初代は8代将軍吉宗の4男宗尹(むねただ)、清水家初代は9代将軍家重の次男重好。徳川将軍家に跡継ぎがないときは御三卿から跡継ぎを出す資格のある家柄。

尚、徳川家の連枝は跡継ぎではない格下のものは、「松平」姓を名乗るが、田安、一橋、清水はそれぞれの屋敷のある地名で通称、本姓は「徳川」姓。

明治維新後は新政府によって、それぞれ独立した一家とされ、明治17年(1885年)の華族令では3家それぞれが伯爵を受爵したそう。

1-2、御三卿の成り立ち

8代将軍吉宗は、御三家の一つである紀州家から出て徳川将軍家の宗家を継いだ人。しかし吉宗が宗家の跡取りに選ばれる前は、御三家筆頭の尾張藩7代藩主の徳川宗春と宗家継承をめぐって激しく対立した経験があり、また吉宗の長男家重が言語不明瞭で政務が執れるような状態では無いという問題を抱えていたのが、御三卿成立の発端ということ。

長男家重については、老中松平乗邑(まつだいら のりさと)が、将軍にふさわしくないと家重を廃嫡し、優秀な次男宗武を将軍に擁立を試みたほどで(家重が将軍に就任後、乗邑は失脚し、宗武も謹慎処分に)、吉宗は、3代将軍家光と弟忠長の例にもあるように、長幼の序を乱すと泥沼のお家騒動に発展しかねないことと、家重の嫡男で次代将軍予定の家治が優秀だということで家重を跡継ぎに決定。

そして江戸時代中期となれば、徳川宗家の後嗣を出す役割を担った徳川御三家と将軍家との血縁関係がかなり遠くなったことを理由に、御三家とは別に吉宗個人の親族を将軍家の新たな藩屏とするために、田安家、一橋家を創設。後に家重の次男重好の清水家が追加で御三卿が成立。

以後、将軍家の後嗣がなくなれば御三卿から将軍家になるという将軍の家族、近い分家という存在に。その後、一橋家から11代将軍家斉、15代将軍慶喜が、田安家から16代徳川家達が徳川宗家を相続することに。 また徳川御三家や他大名家に後継者がない場合も、御三卿の公子をさっさと養子として提供するという役目も担うことに。

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暴れん坊将軍吉宗は、長男が心配だったために分家を作ったのか

1-3、御三卿の特徴、大名家との違いは

というわけで、田安、一橋、清水の三家の当主は、公卿の位である従三位に昇り、省の長官(卿)に任ぜられることになったために、「御三卿」と呼ばれたということ。

そして従来の大名家と御三卿の違いは、将軍家である徳川宗家の家族という立場で認識され、御三卿の当主は常に存在しているわけではなく、当主不在ならお家断絶という大名家と違い、御三卿は当主が不在のまま家だけが存続することが可能だったということ。大名の場合ならば藩主が死亡、家督相続者不在の場合、藩は改易決定だが、御三卿は、領地は幕府が経営、屋敷地は幕府が支給、家臣団は幕臣が出向という形式のため、家督相続者がいなくても家を収公する必要性がなく、明屋敷(あけやしき)と呼ばれていたそう。

こういう背景もあり、御三卿は家の存続が必然でないのも大きな特色で、たとえば一橋家2代目治済は初代宗尹の4男だが、兄2人が越前福井藩に養子に出されたために跡を継いだし、田安家の松平定信は2代目の兄が亡くなっても田安家を継ぐことは許されず、すでに決まっていた養子先を優先させるということで、田安家は明屋敷なったというほど。御三卿が明屋敷となっても、誰か適当な徳川家の血筋の者を養子にして家を存続ということになったそう。

1-4、することがないので、幕府政治の黒幕的存在に

また御三卿は、幕府から各家の当主に10万石が支給されるシステムで、領地は日本各地に分散して存在し、領地の支配は幕府の代官所によって行われたため、領国経営や参勤交代の義務もなく、また家政経営も必要なかったそう。

しかも江戸城中の席次は、実際に政務を行う大老、老中より上位の席次ということ。御三卿は常時江戸城内に詰めていて、実質何もすることがないため幕府の政治に黒幕として関与することが可能で、御三卿成立後、将軍の跡目争いの絡む政争が激化したという説も。

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なるほど、後継者の血筋キープだけが仕事じゃなくて後継者争いの陰謀も仕事にしたのかい

2-1、御三卿のご紹介

田安家、一橋家、清水家について、また主なメンバーについてご紹介しますね。

2-2、田安家

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江戸幕府8代将軍吉宗の次男宗武が初代。家名の由来となった田安邸は江戸城田安門内で清水邸の西、現在の北の丸公園、日本武道館付近にあり、もともとは田安明神(現築土神社)があったことからの命名。

宗武は、享保14年(1729年)に元服して右衛門督と称し、御守(家老)両名を付けられ蔵米の賄料3万俵を。翌15年(1730年)、田安門内に邸地を与えられ、翌16年(1731年)に屋敷に居住。延享3年(1746年)には蔵米支給が、武蔵、上野、甲斐、和泉、摂津、播磨の6か国の賄料領知10万石に変更に。

2-3、吉宗後継者問題で兄家重と対立

宗武は俊英で知られたが、宗武自身も将軍就任を望み、兄家重の欠点を列挙して諌奏(かんそう、主君に対し忠告するということ)したため、大御所の父吉宗に咎められ、延享4年(1747年)、3年間謹慎の沙汰を受け、家重は謹慎が解けた後も宗武とは生涯対面しなかったそう。また吉宗は、宗武を自分に反抗した徳川宗春に代えて尾張藩を継がせる計画だったが、尾張藩の抵抗で断念したが、宗武をどこかの大名家の養子にしたかったということ。

田安家は2代目治察が病弱で早世後、十数年にわたり当主不在となったが、一橋家出身の斉匡が相続。以後は一橋宗尹の子孫が続いたということ。また、田安家から将軍は出なかったが、15代将軍慶喜が謹慎となり、慶応4年(1868年)閏4月、田安家の7代当主で6歳の亀之助が徳川宗家を相続し、のちの16代徳川家達(いえさと)に。

尚、田安家を継がず、他大名に養子に行かされた人物として、松平定信と松平春嶽が有名。

2-4、松平定信

聡明な宗武は、国学を学び和歌をよくしたが、嫡子の2代治察が病弱で早世。このとき宗武の7男の賢丸(松平定信)は既に白河藩の久松松平家への養子行きが決定しているとして、3代目相続が認められなかったということ。

定信は幼少期から聡明であり、田安家を継いだ兄の治察が病弱で凡庸だったために田安家の後継者と目されていたが、一橋家当主治済(11代家斉の父)により、安永3年(1774年)に白河藩主松平家の養子が決定したということで、当時は将軍家治の嫡子家基が健在だったため、この説は否定されるが、もし定信が田安家を継承していれば11代将軍の可能性もあったはず。治察の死去により田安家は、その後十数年にわたり当主不在となったということ。

定信は白河藩主となり、のちに老中として寛政の改革を実施することに。

2-5、松平春嶽

幕末の四賢侯の一人として活躍した越前福井藩主松平春嶽は、田安家3代当主斉匡の8男。12代将軍家慶の従弟にあたる人で、最初は伊予松山藩主の養子が内定していたが、越前福井藩主の突然の死去で、急遽春嶽が継ぐことに。

越前福井藩では橋本左内や由利公正などのブレーンを駆使して藩政改革を実施、安政の将軍継嗣問題でも活躍し、安政の大獄で蟄居するも、文久の改革で政事総裁職に復帰。

3-1、一橋家

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江戸幕府8代将軍吉宗の4男宗尹が初代で、元文2年(1737年)に賄料を現米2万俵に改められ、同5年(1740年)に一橋門内に宅地と賄料1万俵を加増されて一橋家が成立。延享3年(1746年)、武蔵、下野、下総、甲斐、和泉、播磨、備中7か国のうち石高10万石を与えられたそう。家名の由来となった屋敷は、江戸城一橋門内、現在の千代田区大手町1丁目4番地付近に存在。

3-2、御三卿で唯一将軍を出した家

 11代将軍家斉と15代将軍慶喜は一橋家の出身。家斉の父で一橋家2代目の治済と家斉が子だくさんであったため、田安家2代の治察が早世し、清水徳川家初代の重好に実子がなかったこともあり、将軍家と御三卿当主が一橋家の子孫となり、また外様の大藩にも家斉の息子や娘が養子、嫁となったということ。

3-3、2代目治済

初代宗尹の4男で、兄二人が養子に行ったため、一橋家を相続。弟の治之は福岡藩主黒田継高の婿継嗣。天明6年(1786年)、10代将軍徳川家治の没後、治済の長男の豊千代改め家斉が11代目の将軍職に就任。治済は将軍家斉の実父として影響力を持ち、権力をふるうように(贅沢をしたが、歴史に残るような業績はなし)。

そして天明8年(1788年)、家斉は父治済を大御所待遇にしようと幕閣に持ちかけたが、当時朝廷で光格天皇が実父閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとして、老中松平定信が反対した尊号事件があったばかりのため、治済の大御所待遇も認められず、定信は治済、家斉父子の怒りを買って失脚。

3-4、水戸家の慶喜が養子に

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不明 – 個人蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

一橋家当主自身は短命が多く、8代当主の昌丸は尾張徳川家からの養子で家斉の孫だったが夭折。その後、12代将軍家慶のお声がかりで水戸藩主斉昭の7男慶喜が一橋家を継ぐことに。これはどうみても将軍家慶が慶喜の優秀さを見込んで跡継ぎにしたいという意思表示であるはずだが、家慶が慶喜を自分の後継者にするという意思表示を明確にせず急逝したため、安政の将軍継嗣問題に発展。

4-1、清水家

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清水家は、9代将軍家重の次男重好が初代で、宝暦3年(1753年)に賄料3万俵を付与されて御守(家老)2名が付き、宝暦8年(1758年)に清水門内に邸地を与えられたそう。そして翌年、元服して宮内卿を称して賄料1万5千俵を加増されて江戸城から屋敷に移ったということ。また宝暦12年(1762年)には新たに賄料領として10万石、武蔵、上総、下総、甲斐、大和、和泉、播磨の7か国が与えられることに。家名の由来の屋敷は、江戸城清水門内で田安邸の東にあり、現在の北の丸公園、日本武道館付近だということ。

4-2、子孫が途絶えがちだった

 初代の重好は子供なくして死去したため、所領と家屋敷、家臣は一時的に幕府の管理下になり、その後、寛政10年(1798年)に11代将軍家斉の正室が生んだ5男の敦之助を当主として再興されたが、敦之助は翌年に夭逝。

その後約30年間、子だくさんの将軍家斉の息子たちの斉順、斉明、斉彊(なりかつ)が清水家を継ぐことに。このうちの斉順と斉彊(14代将軍家茂の実父)は清水家から紀州藩徳川家を継承し、斉明は夭逝。

4-3、慶喜弟昭武が当主に

そして約20年後、江戸時代最後の清水家当主となったのは、最後の将軍慶喜の弟で水戸斉昭18男の昭武。当時の慶喜は子供がなかったため、弟の昭武を後継者とみなしていたということで、14歳の昭武を慶喜の名代としてパリ万国博覧会へ使節として派遣するために、名目上、慶応2年(1866年)に清水家を継がせたそう。

渡仏した昭武は、幕府代表としてヨーロッパを歴訪、また万博閉幕後もフランスに滞在して勉学に励んだが、その間に大政奉還と明治政府の樹立で急遽帰国。長兄の水戸藩主徳川慶篤の死で、昭武は明治元年(1868年)に帰国後は水戸家の家督を継いだために清水家は当主不在で明治維新となったということ。

将軍吉宗がお家騒動回避のために創設した分家

江戸幕府創設以来、徳川将軍家は本家を中心に、尾張、紀伊、水戸の御三家が作られ、本家の将軍家に跡継ぎが絶えた場合に御三家から将軍を迎える約束に。しかし江戸時代中期となれば、将軍家と御三家との親戚関係も遠くなり、本家の最後の将軍となった7代家継が夭折、紀州藩主だった吉宗がすんなり本家を継いだわけではなく、尾張藩主継友との間にお家騒動が発展しそうになったことも。

そして吉宗の長男家重に問題があったため、吉宗は自身の跡継ぎの座を確保するために次男と三男を田安家、一橋家と分家させ、さらに家重が次男を清水家に分家させ、吉宗の子孫の跡継ぎバックアップ万全の体制として御三卿が成立。御三卿は普通の大名とは違い将軍の家族待遇のため、御三卿の子弟が他大名家に養子に入ることも多く、老中松平定信はその典型的な例に。

11代将軍家斉は一橋家から入って将軍に就任し、幕末には、徳川慶喜が生家の水戸家にいればなれなかった将軍継嗣有力候補になったのも、将軍家慶のお声がかりで一橋家を継いだからというわけで、慶喜は最後の将軍に就任し、そして宗家の16代もと、御三卿は吉宗の目論見通りに役目を果たしたのでした。

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