今回は西周を取り上げるぞ。明治時代にいろいろな翻訳語を造語した学者先生だって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治維新や明治の学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治維新から明治時代にかけての歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、西周について5分でわかるようにまとめた。

1-1、西周は津和野の出身

image by PIXTA / 60037835

西周(にし あまね)は、文政12年(1829年)2月、石見国石見国津和野藩(現、島根県津和野町)で父西時義、母カネの長男として誕生。西家は津和野藩の御典医の家柄。尚、父時義は森家から養子に入った人で森鴎外の曽祖父の弟にあたるが、森鴎外の祖父母が養子のため、血のつながりはないということ。

幼名は経太郎(みちたろう)、名は時懋(ときしげ)、のちに寿専、魚人(なひと)、魯人、元服して修亮と名乗ったが、書き間違われて以後周助に。維新後、周と改名。号は天根、甘寝斎など。

1-2、周の幼年時代

周は、4歳のころから祖父時雍より孝経を学んで、6歳で四書も学び始めたということ。そして11歳で藩校の養老館に入り、周は脇目もふらずに勉学に励み、家では米つきの手伝いをしつつ、書物を読み、お使いに出る時も書物を片手で、履物が不揃いでも意に介さず、土蔵の三帖間の勉強部屋から母屋へ食事に行く時間さえ惜しんで土蔵に握り飯を持ち込んだということで、津和野では「西周の油買いと米搗き」として語り継がれるように

また周の入学当時の養老館は朱子学が中心で、周は初代学頭の山口剛斎らに、五経の他、近思録、左国史漢などを学んだ他、私塾でも勉強し、漢詩、書道、能、狂言などにも好奇心をもって学び、家にあった本はすべて暗記したほどだそう。

周は、17歳のときに藩主亀井藪監に初お目見えして、中雇従格(ちゅうこしょうかく)に。また、同じ頃、朱子学以外は異端の脚書とされた荻生徂徠の「論語徴」、「徂徠集」を読んだことで、徂徠の説く実学に目覚めたということ。周は、家業の瘍医(外科医)は賎技で、有志の士のめざすものではないと考えていたが、実用的な学問の外科医が自分の進むべき道であると考えるように。

1-3、周、一代還俗し学者の道に

周が20歳の時、藩主より周一代に限り家業である医者を継がずにいわゆる一代還俗して、儒学に専念するようにと命が下ったそう。

周は医学を諦めて藩命に従って21歳で大坂に遊学、頼山陽の養子後藤機の「松陰塾」に学び、生涯の友となった松岡隣(養徳、りん次郎)と親交。そして岡山学校に転じて、23歳のときに帰藩、藩主に「孟子」の御前講義を行い、養老館の塾頭兼教官署番を務めることに。

周は僧侶ではありませんが、ご典医の家系、医師は頭を丸めて髷を結わない(階級に関係ないという意味)ため、それをやめて髪を伸ばして普通の藩士となり、儒教を勉強することを、還俗と言ったよう。

1-4、周、ペリー来航のショックで脱藩

嘉永6年(1853年)、周は25歳で江戸藩邸の学問所「時習堂」講釈を命ぜられたので津和野で準備中に、ペリーの黒船が浦賀に来航、沿岸防備のため急拠江戸に上ることに。

周は黒船を目の前にして、ペリーの大砲に立ち向かうことの無謀と、また大砲を輸入すれば解決する問題でもなく、大砲を操っている人間を育てている国の社会制度や学問、教育の内容を知ることが急務と考えて、脱藩。脱藩は大罪だが、津和野藩では周の志に免じて罪は親族に及ばずに、「無期限の暇を与える」ことで許されることに。

\次のページで「2-1、周、洋学を会得して蕃書調所に」を解説!/

2-1、周、洋学を会得して蕃書調所に

周は脱藩後、本格的な洋学の学習を開始し、オランダ語を大野藩某氏に、文法は津和野の池田多仲に、英語は杉田成卿、手塚律蔵(のちの瀬脇寿人)に、発音は中浜ジョン万次郎に学び、西洋砲術も学んだそう。

そして安政4年(1857年)29歳の時、幕府の洋学学問所、翻訳所の蕃書調所の英語の教授手伝並に。

また周はこの頃、一橋慶喜に「蝦夷地開拓建議」(原題は丁巳十月草稿)を上書し、西欧の列強の現状、特にロシアに蝦夷地が狙われているとして慶喜の出馬を促したが、この返書は得られず慶喜に届いたかどうかも不明ということ。

2-2、周、オランダへ留学

image by PIXTA / 19465239

周は、文久元年(1861年)「承美私言」を著し、人材育成のため「人材欧米に派遣することの利」を進言し、津田真道と共に留学運動に奔走。

万延元年(1860年)の日米修好条約の批准書交換のための使節に留学生として派遣を働きかけたが、代表変更で挫折。文久2年(1862年)の遣欧使節団にも落選したが、ようやくアメリカ留学決定の内命が。これは蕃書調所目付浅野伊賀守と、新任の頭取大久保一翁らの尽力だったということ。

尚、留学先は南北戦争勃発のため、オランダヘ変更。周は文久2年(1862年)35歳の時、造船技術を学ぶため留学する海軍操練所の士官榎本武揚、内田正章、沢貞説、赤松則良、田口良直らとオランダへ。

2-3、周、ライデン大学で学ぶ

周は、ライデン大学の日本学教授でシーボルトの助手だった東洋学者ヨハン・ヨセフ・ホフマンを頼り、教授で経済学者のシモン・フイッセリング(法学および文学博士で、のちにオランダの大蔵大臣)に、自然法学、国際公法、国法学、経済学、統計学を学び、さらにカントの実証主義、J・Sミルの功利主義についても学んだということ。またオランダ哲学界のオプゾーメル教授の著書の大部分を読破し、カントの思想を理解。そして2年後の慶応元年(1865年)12月に帰国。

2-4、周、京都で洋学塾を開塾

帰国後、周は直参旗本となり、開成所教授に就任。翌慶応2年(1866)、徳川慶喜に招かれて上洛。周は慶喜の顧問となってフランス語を教え(記憶力は良かったが長続きしなかった)、外交文書の翻訳、イギリス、フランス外交官との交渉役を務めたということ。また周はこの頃に勝海舟の紹介で会津藩士で新島八重の兄の山本覚馬と知り合ったそう。

そして周は、京都四条にあった更雀寺(きょうじゃくじ)で洋学塾を開いて、西洋法学や哲学を教えたが、この塾ではじめて「哲学」という語が用いられたということで、この塾には諸藩から500人もの塾生が詰め掛けたそう。

2-5、周、将軍慶喜に大政奉還後の政治体制案を

慶応3年(1867年)10月、周は大政奉還が決定される席上で、将軍慶喜に「英国議院制度」、「三権分立制」について諮問を受けて(このとき下座に控えていたのが、薩摩藩家老小松帯刀と後で知ることに)、翌日「西洋官制略考」を提出。

また、「議題草案」と別紙「議題草考」を起草、慶喜に大政奉還後の政治体制を示したということ。この内容は、天皇、幕府、大名の三権分立を説いて、立法権は上院(大名、議長は将軍)と、下院(各藩の藩士の代表、解散権は将軍が持つ)から成り、行政権は幕府が持ち、朝廷より最終決定権を幕府に与えるが、朝廷に拒否権はないという、幕府の改革意見書で、わが国最初の憲法私案ともいえるそう。

これは大政奉還後に朝廷が政治を行うとは思わず、朝廷が再び幕府に政治を行えとすると予想して、政治体制新しい体制で行うための案だったのですが、予想に反して、慶応3年(1867年)12月、王政復古の大号令が発せられたために実現することはなく、慶喜に従って周も大阪へ退去。そして慶応4年(1868年)元旦に、周は幕府目付となったが、鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜は幕府軍を放り出して船で江戸へ退去し、周も負傷兵取締として江戸へ。

2-6、周、沼津兵学校頭取に就任

Numazu Military Academy gate ac.jpg
Asturio Cantabrio - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

そして慶応4年(1868年)、江戸城無血開城の後、周は徳川藩として静岡に赴いた慶喜に従い、陸軍将校養成校徳川兵学校(後の沼津兵学校)の頭取に就任。これは旗本や御家人の子弟の教育のための学校で、歩騎砲工、衛生、経理の各科、予備小学校、付属の病院を備えた日本で最も近代的な兵学校だったということ。

また同年、「万国公法」を翻訳して出版。

3-1、明治後の周

周は、明治3年(1870年)、明治政府に出仕して、以後兵部省、文部省、宮内省などの官僚を歴任、大学の学制取締御用掛を兼務。

また自宅に「育英舎」という塾を開いて、新進の学生を教育。周はこの塾で、「百学連環」と題しての特別講義を行って一大学間体系樹立をめざしたということで、科学と技術の意義、諸学科の系統を述べたそう。そして国際法の父グロチウスの「戦争と平和の法」やパウムガルテンの「美学」も日本ではかなり早い時期に紹介。そして若き明治天皇の侍講として、博物学、心理学、英国史などを御前講義したということ。

3-2、周、明六社を結成し活動

Meiroku Zasshi No10 1874 Cover.jpg
明六社 - Old magazine, パブリック・ドメイン, リンクによる

明治6年(1873年)、アメリカから帰国した森有礼が、福澤諭吉、西周、津田真道、加藤弘之、中村正直、西村茂樹、箕作秋坪、杉亨二、箕作麟祥らと共に、啓蒙活動を目的として明六社を結成。翌年から機関紙「明六雑誌」を発行、周は啓蒙家として、日本での哲学の基礎を築くために西洋哲学の翻訳、紹介などを行うことに。

周はその後、東京学士会院(現在の日本学士院)第2代、第4代会長を務め、明治14年(1881年)、現在の獨協中学校、高等学校にあたる獨逸学協会学校の創立に参画。2年後の開校時には初代校長に就任。また軍人勅諭、軍人訓戒の起草にもかかわり、軍政の整備と軍人精神の確立にも尽力。

3-3、周の晩年

周は55歳で右半身がマヒ、58歳で健康上の理由で公職を次々辞職、62歳で貴族院議員に選出されたが翌年辞職、しかし学問の研究は続け、西洋の心理学と、東洋の儒教、仏教の思想を統一した新しい心理学の体系を書いた「生性発蘊」は、明治31年(1898年)69歳で死去したため未完に。

\次のページで「4-1、周の功績」を解説!/

4-1、周の功績

Nishi Amane.jpg
不明 - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

色々な功績についてご紹介しますね。

4-2、翻訳語を多数造語

周は「philosophy」の翻訳語として「哲学」という言葉を創ったが、最初は「希哲学」と訳したということで、「希」は願うという意味で、「哲」は、賢いという意味なので、「賢くなるのを願う学問」が、希を略して「哲学」になったそう。

他にも、「藝術」「科學」「技術」「心理学」「意識」「知識」「概念」「理性」「命題」「帰納」「定義」「分解」などといった、哲学、科学関係の訳語は周の考案ということ。

しかし、漢字の熟語を多数作った反面、周は明治7年(1874年)、「明六雑誌」創刊号に、「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論を掲載、森有礼の提唱したかな漢字を廃止してローマ字にせよという論を唱えたということ。

4-3、人生三宝論

周の倫理学の代表作は、「人生三宝説」として有名で、明六雑誌で発表されたそう。これはカント、へーゲル、コント、ミルに至る道徳論の展開を紹介しつつ、人生の究極の目的は「最大福祉」、そしてそのことを達成するための方法として、「健康」「知恵」「富」の三宝が存在するということで、三宝の探求は個々の人間の最大目的であり、同時に道徳の根元とし、三宝は人間同士が交わるうえでも、人を治めるうえでも尊重されるべきであると解説、近代市民社会での新しい倫理観を樹立させようとしたということ。

周の著書は、「百学連環」、「百一新論」、「致知啓蒙」など。

4-4、私擬憲法草案

周は、国の最高法規である日本憲法草案の起草を山県有朋より委嘱されて、「私擬憲法草案」として山県へ提出。

周の草案は、国法上においては、天皇が帝国日本海陸軍の大元帥で総軍人の総帥として国法上の制限を加えて、「天皇若クハ皇族ヲ被告トスル訴訟ハ大審院二出願ス」と、天皇、皇族といえども法的に規制を受けるなど、自由主義的草案だったということ。大日本国憲法制定以前は、このような憲法の草案がいくつも考えられましたが、憲法制定にかかわった井上毅は、「西氏之草案は他の私擬案の比にあらず、十分用意の苦撰と存じ奉り候」と周の草案を高く評価したそう。

最初は儒学を猛勉強、のちに洋学を勉強し、現在も使われる数々の翻訳語をつくった

西周は津和野藩の藩医の家に生まれ、家を継ぐべく猛勉強したが、優秀さが藩主に認められて儒学の道へ進んだ人。

しかしペリー来航で時代が幕末に突入、優秀な頭脳を持つ周も日本の近代化を無視できず、脱藩までして洋学を勉強して蕃書調所の教授手伝いに、そして幕府の留学生としてオランダへ留学して経済から哲学までを会得。帰国後は15代将軍慶喜のブレーンとなり、万国公法を翻訳。

明治後は軍人勅諭や憲法草稿を起草し、各学校の校長などを歴任。著書や翻訳書を著し、哲学、心理学、芸術など、現在普通に使われている翻訳語の数々を多数つくるなど、明治初期のインテリの最高峰的存在に。

幕末、明治維新では、新しい日本の夜明けを目指して奔走する志士たち、明治時代を牽引した元勲たちにスポットが当たり勝ちですが、西周は万国公法を翻訳し、明治後は軍人のモラルの確立、また西洋哲学、心理学などを紹介して、日本人の精神、倫理などの近代化に多大な貢献をしたことは忘れてはならないと思います。

" /> 日本の哲学の父ともいわれる啓蒙学者「西周」を歴女がわかりやすく解説 – Study-Z
日本史明治明治維新歴史

日本の哲学の父ともいわれる啓蒙学者「西周」を歴女がわかりやすく解説

今回は西周を取り上げるぞ。明治時代にいろいろな翻訳語を造語した学者先生だって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治維新や明治の学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治維新から明治時代にかけての歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、西周について5分でわかるようにまとめた。

1-1、西周は津和野の出身

image by PIXTA / 60037835

西周(にし あまね)は、文政12年(1829年)2月、石見国石見国津和野藩(現、島根県津和野町)で父西時義、母カネの長男として誕生。西家は津和野藩の御典医の家柄。尚、父時義は森家から養子に入った人で森鴎外の曽祖父の弟にあたるが、森鴎外の祖父母が養子のため、血のつながりはないということ。

幼名は経太郎(みちたろう)、名は時懋(ときしげ)、のちに寿専、魚人(なひと)、魯人、元服して修亮と名乗ったが、書き間違われて以後周助に。維新後、周と改名。号は天根、甘寝斎など。

1-2、周の幼年時代

周は、4歳のころから祖父時雍より孝経を学んで、6歳で四書も学び始めたということ。そして11歳で藩校の養老館に入り、周は脇目もふらずに勉学に励み、家では米つきの手伝いをしつつ、書物を読み、お使いに出る時も書物を片手で、履物が不揃いでも意に介さず、土蔵の三帖間の勉強部屋から母屋へ食事に行く時間さえ惜しんで土蔵に握り飯を持ち込んだということで、津和野では「西周の油買いと米搗き」として語り継がれるように

また周の入学当時の養老館は朱子学が中心で、周は初代学頭の山口剛斎らに、五経の他、近思録、左国史漢などを学んだ他、私塾でも勉強し、漢詩、書道、能、狂言などにも好奇心をもって学び、家にあった本はすべて暗記したほどだそう。

周は、17歳のときに藩主亀井藪監に初お目見えして、中雇従格(ちゅうこしょうかく)に。また、同じ頃、朱子学以外は異端の脚書とされた荻生徂徠の「論語徴」、「徂徠集」を読んだことで、徂徠の説く実学に目覚めたということ。周は、家業の瘍医(外科医)は賎技で、有志の士のめざすものではないと考えていたが、実用的な学問の外科医が自分の進むべき道であると考えるように。

1-3、周、一代還俗し学者の道に

周が20歳の時、藩主より周一代に限り家業である医者を継がずにいわゆる一代還俗して、儒学に専念するようにと命が下ったそう。

周は医学を諦めて藩命に従って21歳で大坂に遊学、頼山陽の養子後藤機の「松陰塾」に学び、生涯の友となった松岡隣(養徳、りん次郎)と親交。そして岡山学校に転じて、23歳のときに帰藩、藩主に「孟子」の御前講義を行い、養老館の塾頭兼教官署番を務めることに。

周は僧侶ではありませんが、ご典医の家系、医師は頭を丸めて髷を結わない(階級に関係ないという意味)ため、それをやめて髪を伸ばして普通の藩士となり、儒教を勉強することを、還俗と言ったよう。

1-4、周、ペリー来航のショックで脱藩

嘉永6年(1853年)、周は25歳で江戸藩邸の学問所「時習堂」講釈を命ぜられたので津和野で準備中に、ペリーの黒船が浦賀に来航、沿岸防備のため急拠江戸に上ることに。

周は黒船を目の前にして、ペリーの大砲に立ち向かうことの無謀と、また大砲を輸入すれば解決する問題でもなく、大砲を操っている人間を育てている国の社会制度や学問、教育の内容を知ることが急務と考えて、脱藩。脱藩は大罪だが、津和野藩では周の志に免じて罪は親族に及ばずに、「無期限の暇を与える」ことで許されることに。

\次のページで「2-1、周、洋学を会得して蕃書調所に」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: