世界史

ヘンリー8世と6人の妻とは?テューダー朝のイギリス国王とその妻たちを歴女が解説

よぉ、桜木健二だ、今回はヘンリー8世と6人の妻を取り上げるぞ。ヘンリー8世はなんでそんなに離婚、再婚したのか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパの王室の歴史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの王室の歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ヘンリー8世と6人の妻たちについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ヘンリー8世とは

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After ハンス・ホルバイン – The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM), distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, リンクによる

ヘンリー8世は、ヘンリー7世とエリザベス王妃の次男として1491年6月28日に生まれたテューダー朝2代目のイギリス国王。兄弟姉妹は兄アーサー王太子、姉マーガレット(スコットランド王ジェームズ4世、アンガス伯、メスヴェン卿と結婚)、妹メアリー(フランス王ルイ12世、初代サフォーク公チャールズ・ブランドンと結婚)、早世した弟エドムンド。

1501年に兄アーサー王太子がキャサリンオブアラゴンとの婚儀の20週後に急死したために、ヘンリーはコーンウォール公および王太子に、そして1509年4月、父ヘンリー7世死去の跡を継いでヘンリー8世として即位。

ヘンリー8世は一流の教育を受け、ラテン語およびフランス語は堪能で、イタリア語も話せ、カリスマ性のある教養高いルネサンス人。イギリス王室史上最高のインテリといわれ、学問、音楽、芸術に造詣深く、自ら楽器を演奏や作曲、著作を書き詩を作ることもできたうえに、キリスト教にも関心を持ち、また大柄な体格でスポーツ万能、馬上槍試合や狩猟などにも優れていたということ。そして莫大なお金をつぎ込み、クライスト・チャーチ、ホワイトホール宮殿、トリニティ・カレッジ、ハンプトン・コート宮殿など、現存する多くの著名な建物の建築や改修も。

晩年には過食での肥満と馬上槍試合でのけがで脚に潰瘍ができたことで、著しく健康を害したそう。6度も結婚してまで男子の跡継ぎを求めたのは、ヘンリー8世の在位中はまだ30年に及んだ権力抗争の薔薇戦争の直後で、イギリスにはそれまで女王はいなかったなどで、女性にはテューダー王朝をまとめることは無理という考えからで、必ずしも好色だけではないという見方もあるそう。

また、何人もの王妃が死産や流産を繰り返したのは、ヘンリー8世が梅毒にかかっていたからという説もあり、やっと生まれた息子エドワード6世も先天性梅毒という説が。1547年に55歳で死去。

2-1、最初の王妃キャサリンオブアラゴンとのなれそめ

キャサリン王妃は、1487年12月にスペインのアルカラ・デ・エナレスで誕生。スペインを統合、共同統治したカトリック両王のカスティーリャ女王イザベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の間の末子。キャサリンの名前はイギリスからカスティーリャに嫁した曾祖母キャサリンオブランカスターにちなんでの命名で、イギリス王家とは遠い親戚になるそう。またキャサリンの姉のひとりは、ハプスブルグ家に嫁いだ後のスペイン女王狂女フアナ、その息子で甥は共同統治者カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)。

当時のヨーロッパ情勢からも、イギリス国王ヘンリー7世、ハプスブルグ家、スペインは、対フランス対策として、お互い手を結ぶために政略結婚をもくろんでいて、ヘンリー7世の長男アーサー王太子とキャサリンの縁談が成立。ヘンリー7世は巨額の持参金を要求し、その後フランスとの条約締結などで一度破談となったが、第一次イタリア戦争などで縁談が復活、アーサー王太子は1499年と1500年に代理結婚式を挙行。

1501年、14歳のキャサリンはイギリスに到着。11月にアーサー王太子と結婚式を、しかしアーサー王太子は流行性感冒で翌年4月に急死。当時の慣習として、若い未亡人は持参金とともに帰国するはずが、ヘンリー7世が巨額の持参金の返却を惜しんでアーサー皇太子の弟のヘンリー王子(のちのヘンリー8世)との婚約を持ちかけたということ。

ヘンリー7世はしかし、翌1503年にエリザベス王妃が産褥死後にキャサリンを自身の後妻に要求したが、ヘンリー王子との再婚を望むキャサリンの母イサベル女王は激怒。スペインは第二次イタリア戦争で優勢だったこともあって、ヘンリー7世は、正式にヘンリー王子との婚約を決定。

1503年6月に、キャサリンとヘンリー王子との婚約がイギリスとスペイン両国で合意。婚約式ではアーサー王太子とキャサリンとの結婚は不成立を根拠に、ローマ教皇に結婚の許可を申請することと、当時12歳だったヘンリー王子が15歳になり、また残りの持参金が支払われた時点で正式な結婚が行われることになったが、ヘンリー7世は結婚を渋り、その後8年近くキャサリンは苦境にいたが、ヘンリー王子はキャサリンに惹かれるようになったそう。

2-2、キャサリンと結婚

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Attributed to Joannes CorvusNPG, パブリック・ドメイン, リンクによる

1509年4月、ヘンリー7世が崩御、ヘンリー王子がヘンリー8世として即位。ヘンリー8世は枢密院での議論を無視し、父王の喪が明けない6月11日に立会人1人だけの結婚式を強引に挙行。キャサリンとヘンリー8世の戴冠式は、6月30日に行われたそう。

キャサリンは賢い女性で、ヘンリー8世に対して政治や外交に関しても助言し、強い影響力を持っていて、夫婦仲も最初は円満だったということ。 しかしキャサリンは何度も流産と死産に見舞われた後に、1516年、ようやく健康なメアリー王女(のちのメアリー1世)を出産。ヘンリー8世はメアリーを溺愛。 しかしその後も流産や死産を繰り返し、ヘンリー8世の気持ちはキャサリンから遠ざかることに。

キャサリンは、1513年6月ヘンリー8世は自らフランスに遠征したときに摂政を務め、侵攻してきたスコットランド軍を撃退させたりとの対応を称賛されたり、エラスムスやトーマス・モアを支援するなど教養高く有能な女性で、女子教育にも熱心に取り組み、慈善活動も行ったためにイギリス国民からも敬愛されたそう。

また、キャサリンはカトリック信仰に篤い女性だったので、妊娠中も断食を行ったために死産や流産が相次いだという説も。

2-3、キャサリンと離婚

ヘンリー8世はキャサリンのたび重なる流産と死産で、これは亡き兄アーサーの怨念ではとか、旧約聖書に兄の妻と結婚したものは呪われるとあるために、この結婚は呪われているという考えを持ち始め、1520年頃には、キャサリンと離婚して、別の女性を王妃にして産ませようと考えるようになったということ。

しかしもともとキャサリンとの結婚は兄アーサーとの結婚を無効にしてまでのことで、ローマ教皇の同意は得られないうえ、キャサリンの甥、神聖ローマ皇帝カール5世も反対したために難航。ヘンリー8世は交渉に失敗した大法官トーマス・ウルジーを罷免、その後、トーマス・クロムウェルの補佐で、1533年、上告禁止法を発布、1534年、国王がイギリス国教会の首長であるという至上法(首長令)を発布して、カトリック教会から離脱。

そしてヘンリー8世の命でカンタベリー大司教トマス・クランマーがヘンリー8世との結婚は無効であるとされたキャサリンは、アーサー王太子の未亡人の地位に落とされ宮廷から追放され、1536年、48歳で病死。

3-1、2番目の王妃アン・ブーリンとのなれそめ

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不明[2], パブリック・ドメイン, リンクによる

アン・ブーリンは、1501年頃に新興貴族で外交官のトーマス・ブーリンの娘として誕生。母はノーフォーク公爵家の出身で姉メアリー(妹説も)もヘンリー8世の愛人だったそう(母もヘンリー8世の愛人説あり)。

アンはメアリーとともに10代からフランス宮廷に仕え、当時としては洗練された女性だったようだが、目立つような美人ではなかったということで、なんでヘンリー8世が気に入ったのかわからないとさえ言われ、多指症であるなどの説も。

そしてアンは姉メアリーのような愛人は嫌だと、ヘンリー8世に正式結婚を要求したため、ヘンリー8世は若いアンに息子を生んでもらおうと、キャサリンとの離婚を画策。ヘンリー8世が1533年5月にイングランド教会の分離という強硬手段に訴えたのは、既にアンが妊娠していたからで、キャサリン王妃との婚姻無効が成立しないまま子供が生まれると庶子になるため。

ヘンリー8世もアンもこの子は男子だと信じていたが、生まれた子はエリザベス王女(のちのエリザベス1世)。アンは翌年、再び妊娠したが流産、さらに翌年も流産したなどでヘンリー8世の愛も冷め、気の強いアンとの間は喧嘩ばかりになり、ヘンリー8世はアンの侍女ジェーン・シーモアに心が移ったということ。

3-2、アン・ブーリン処刑

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アンは男子誕生を求めるヘンリー8世の期待に応えられず、また大変に気の強い性格で政治にも介入したために、アンとブーリン家は多くの敵を作ったということで、結婚からわずか2年後、アンの実弟ジョージを含む5人の男が王妃との姦通罪で逮捕され、アンもまた姦通罪、近親相姦罪、魔術を用いた罪で逮捕、反逆罪で処刑。裁判の正当性は当時でも疑問視されていておそらくは冤罪だということ。

4、3番目の王妃ジェーン・シーモア

ジェーン・シーモアは1508年生まれで、キャサリンオブアラゴンの侍女やアン・ブーリンの侍女を務めたということで、あまり目立たない女性だったよう。

しかし兄たちが野心家で、ヘンリー8世にジェーンを差し出すようなかたちで、ヘンリー8世は気の強いアンに飽きた後、ジェーンに惹かれるように。そして1536年のアン・ブーリン処刑の翌日にヘンリー8世はジェーンと婚約、10日後に結婚。翌年ジェーンはエドワード王子(のちのエドワード6世)を生んだが、産褥死。ヘンリー8世はわずか1年足らずの結婚で飽きる前だったという説もあり、ジェーンの墓所は自分の隣にと栄誉を与えたということ。

ジェーンの長兄はヘンリー8世の没後、甥のエドワード6世の摂政護国卿として政治を牛耳ったが、あえなく処刑に。

5-1、4番目の王妃アンオブクレーブスとのなれそめ

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ハンス・ホルバイン不明, パブリック・ドメイン, リンクによる

ジェーン・シーモアの死後、ヘンリー8世は側近に命じてまたまた嫁探しに。そしてトーマス・クロムウェルは神聖ローマ皇帝カール5世に対抗する有力な同盟相手として、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム5世の姉、25歳のアンオブクレーヴズを推薦。宮廷画家のハンス・ホルバインが送られてアンの肖像画が描かれ、ヘンリー8世は肖像画のアンを気に入って結婚。

しかし実際のアンは肖像画とは似ても似つかない不細工で、アンにはヘンリー8世のジョークが通じなかったためにヘンリー8世は激怒し、トーマス・クロムウェルに責任取らせて斬首、若い侍女のキャサリン・ハワードに心を移したヘンリー8世は、半年でアンを離縁して「国王の妹」という称号を与えて城と十分な年金を与えたということ。

5-2、アンオブクレーブスの不細工説は

しかし、実際にアンに会った人の証言では美人だったということだし、画家ホルバインは誇張して描いたのではないという話で、ドイツでは今でも尊敬される存在だそう。どうやらヘンリー8世側の事情で不細工とされているらしく、現在ではアンはあのヘンリー8世と平和裏に離婚し、裕福な生活を手に入れたのはかなりの外交手腕とか、42歳とは言え天寿を全う出来たため、幸せな女性という別の見方をされているということ。

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気に入らないと不細工と公言するか、反逆罪で処刑するかなのかよ

6、5番目の王妃キャサリン・ハワード

キャサリン・ハワードは1521年?の生まれで、ノーフォーク公爵家の出身。2番目の王妃アン・ブーリンの従妹、ジェーン・シーモアのはとこ。

キャサリンの父エドムンドは、戦場で名を上げた名門ハワード家の出だが20人を超える末子で金に困っていたため、持参金目当てで結婚しては妻が亡くなるのを繰り返し、妻の連れ子も自分の子として育てたということで、キャサリンには実のきょうだいも義理のきょうだいもやたらと数多かったということ。キャサリンは父の義理の母に引き取られ、他の少女たちと一緒に教育を受けたが、少女たちは恋人を寝室に連れ込む始末で、幼いキャサリンも音楽教師や秘書官と関係を持ったという話があるそう。

1540年、ヘンリー8世は前王妃アンオブクレーヴズと離婚し、侍女だった若いキャサリンと再婚。ヘンリー8世は年の離れたキャサリンを「私の薔薇」「私の棘のない薔薇」と呼んで若返ったということ。

しかしキャサリンは、遠縁で女たらしで有名なトーマス・カルペパー、以前の恋人フランシス・デレハムらと関係をもったと、ヘンリー8世の側近に訴えられ、姦通罪と反逆罪で逮捕。これはキャサリンがカトリックで、プロテスタントの家臣の敵がいたということだそう。そしてキャサリンからカルペパーに宛て愛を告白した証拠の手紙が発見され、従姉の元王妃アン・ブーリンの義妹で、キャサリンの侍女だったジェーン・ブーリン(夫に不利な証言をした人)が手引きをしていたことが明らかに。1542年、キャサリンは処刑、デルハム、カルペパー、ジェーン・ブーリンらも処刑。

7-1、6番目の王妃キャサリン・パーとのなれそめ

キャサリン・パーは1512年生まれで、16歳の最初の結婚は死別、21歳での2度目の結婚も死別と、いずれも高齢の夫と死別した女性で、2度目の夫の死後、宮廷に出入りしてジェーン・シーモアの次兄トーマスと交際していたが、ヘンリー8世の目に留まり、ヘンリー8世は邪魔なトーマスを海外勤務に送ってキャサリンに求婚、キャサリンは迷った挙句に31歳でヘンリー8世と結婚。

キャサリンは、かなり知性の高い有能な女性で、本を読みだしたら止まらないという読書好き、インテリのヘンリー8世と対等に学術談義ができたということで、神学についての造詣も深かったそう。

キャサリンは王妃になると、庶子の身分とされていたヘンリー8世の長女メアリー王女(後のメアリー1世)と次女エリザベス(後のエリザベス1世)王女を宮廷に呼び戻し、ヘンリー8世に王位継承権保持者の地位に戻すよう嘆願、1543年の第三王位継承法制定につながったということ。そしてキャサリンは幼いエドワード王太子(後のエドワード6世)とエリザベス王女の養育を任され、音楽や芸術について教えたりと教育環境を整えたので、継母として敬愛されるように。またキャサリンの3歳年下のメアリー王女とも親しく、プロテスタントとカトリックの宗派の違いを越えて、深い信頼関係を築いたということ。

晩年のヘンリーは肥満しまくり馬上槍試合のけがのための脚の潰瘍、ひどい頭痛などで寝込みがちで激昂すると手が付けられないという人だったが、キャサリンは、そんなヘンリー8世の看護を率先して行ったこともあって絶大な信頼を獲得。

1544年、ヘンリー8世の3か月のフランス遠征の間、キャサリンは国王代理として摂政を任され、ヘンリー8世は自身の死亡後もエドワード王太子が成人するまで、引き続いてキャサリンを摂政にすることになっていたそう。

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6人目は介護が上手で継子の面倒見もよくて有能な人だったんだな

7-2、キャサリン、危機を回避

キャサリンは、イギリス女性として初めて著作を著したことでも有名。

しかし宗教改革でカトリック教会とイギリス国教会の対立が激しかった時代のため、カトリック司教の怒りを買ったキャサリンは、異端者とヘンリー8世に報告され、逮捕状が出たが、キャサリンは蔵書を処分し、ヘンリー8世にも身の潔白を説明して許され、ギリギリの段階で救われたということ。

7-3、ヘンリー8世の崩御後のキャサリン

1547年1月、ヘンリー8世は55歳で崩御。ヘンリー8世は自分の死後もキャサリンは王太后としてではなく、王妃としての格式での処遇、破格の年金を生涯にわたり支給されることなどを遺言したが、キャサリンは2月末のエドワード6世の戴冠式後には早々に宮廷を出て、5月に恋人だった海軍司令長官トーマス・シーモアと再婚。

トーマスの兄でジェーン・シーモアの兄のサマセット公エドワード・シーモアが、甥にあたるエドワード6世の護国卿となって宮廷に君臨するなか、エリザベス王女はキャサリンの邸宅でトーマスとも過ごすことに。そして11月、36歳にしてキャサリンは妊娠、しかし野心家のトーマス・シーモアはその頃から14歳のエリザベス王女と急速に親密な関係となり、キャサリンの妊娠中にエリザベスの寝室に出入り。怒ったキャサリンはエリザベス王女を追い出し、1548年8月、女児が誕生したがキャサリンは産褥熱で9月5日に死去。

尚、トーマスはエリザベス王女に接近して結婚を画策、兄の権力を奪おうとしたことなどから斬首刑に

息子が欲しいばかりに正妻を離婚して愛人と結婚が宗教改革に発展、その後もさらに4人と結婚

ヘンリー8世は結婚後数週間で早世した兄の妻が、せっかく持ってきた莫大な持参金とスペインとの関係を無駄にしないためにと最初の結婚。しかし3歳年上のキャサリンは流産や夭折ばかりで、ようやく生まれて育ったのがメアリー王女ひとり。ヘンリー8世はどうしても跡継ぎの男の子がほしいと若いアン・ブーリンと結婚するために、キャサリンとの結婚が呪われているとインネンをつけただけでなく、離婚を許可しないローマ教皇と決別して自分が首長のイギリス国教会まで作る始末。

しかしアンと結婚するも、アンもエリザベス王女一人しか生まれずに流産ばかりということで、すぐに飽きてジェーン・シーモアと結婚したくなり、アンにあることないこと罪を着せて処刑。ジェーンは跡継ぎのエドワードを生んだが早世、その後も次々と3人の女性と結婚しまくり、結局は6人と結婚し、2人と離婚、2人を処刑という結果で、いまだに幽霊となって宮殿に現れる人もいるそう。

彼女たちはヘンリー8世の妻という悲劇性があるものの、調べればほとんどの女性が有能で存在感があるし、ヘンリー8世は男子の跡継ぎを求め続けたけれど、結局は娘のエリザベス女王が名君として44年間も統治、イギリスは大繁栄となったのは皮肉なことでは。

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