今回は、16世紀のフランスで起こったサンバルテルミの虐殺についてです。当時のフランスは旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の宗教対立が深刻化していて1562年の流血事件からユグノー戦争に発展。

そしてこれを収束すべく、カトリックのヴァロワ家マルグリットとプロテスタントのブルボン家アンリの結婚式が行われたんですが、そこで虐殺が起こることに。そこでヨーロッパ史に詳しいまぁこと一緒に分かりやすく解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。特にハプスブルク家やブルボン家、ヴァロワ家などの王家に関連する書籍を愛読中!今回はフランスのヴァロワ朝時代に起こったサンバルテルミの虐殺について解説していく。

1 フランスの宗教戦争

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サンバルテルミの虐殺は、当時のフランスで起こったユグノー戦争を収束させるためにカトリック教徒のヴァロワ家のマルグリットとプロテスタントのブルボン家のアンリの結婚式で起こった出来事。ここではサンバルテルミの虐殺が起こる経緯や虐殺について、更に虐殺後について詳しく解説していきます。

1-1 ユグノーとは?

16世紀にフランスで起こったカトリック教徒とプロテスタントの宗教戦争は、ユグノー戦争と呼ばれています。しかしそもそもユグノーとはどういう意味なのでしょうか。ユグノーとはプロテスタントのことを指しています。フランスはカトリック国でしたが、宗教改革によってフランスではカルヴァン派が浸透するように。ちなみにプロテスタントではなくユグノーと言われるのは、カトリック側がプロテスタントを乞食という意味のユグノーと蔑んだことが由来だそう。

1-2 次々に息子を王にした母カトリーヌ

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Workshop of フランソワ・クルーエ - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

フランス王のアンリ2世が槍試合によって命を落とした後、権力を握ることになったカトリーヌ・ド・メディシス。ちなみにこの時既に40歳だったそう。彼女は次々に息子をフランス国王にし、自身は摂政として牛耳ることに。ちなみに彼女が権力を握ってはじめに行ったことはアンリ2世の愛妾を追い出すこと。カトリーヌはディアーヌ・ド・ポワチエからアンリ2世が送った宝石や城などを取り上げました。よほど恨みがあったと思われるエピソードですね。

1-3 薬で有名なメディチ家からフランスへ嫁いだ人物

さて、カトリーヌ・ド・メディシスですが彼女は大富豪メディチ家出身の女性。カトリーヌとヴァロワ家のアンリ2世が結婚することになったきっかけは、フランソワ1世(カトリーヌにとっては舅)フランソワはメディチ家の財産を狙って彼女を妃として迎えることに。ちなみにカトリーヌはフィレンツェからフランスにナイフやフォークなどの食器、イタリア料理、そして香水を持ち込んだことで知られています。

1-4 ユグノー戦争へ

1562年の流血事件から両派の対立はユグノー戦争へ発展することに。そうした中、カトリーヌ・ド・メディシスは手を打つことに。それはカトリック教徒である自身の娘、マルグリットと新教のブルボン家のアンリを結婚させて国内の宗教戦争を終わらせようと試みます。

しかし肝心の2人はこの結婚をどう思っていたのかというと、花嫁マルグリットはブルボン家のアンリよりもギーズ公アンリのことが好きだったそう。対するアンリは、自身の母が姑カトリーヌに毒殺されたため嫌っていたと言われています。こうしてお互い政略結婚をすることになったのですが、その後の結婚式はどうなったのでしょうか。

1-5 サンバルテルミの虐殺

Francois Dubois 001.jpg
François Dubois - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

1572年の8月に2人の結婚式はパリのノートルダム聖堂にて行われることに。ちなみにこの挙式はカトリックとプロテスタントの結婚だったため、教会には新婦のみが入場し、なんと新郎は教会の外にいるという変わった式でした。

その後は2人の結婚式には大勢の人々が祝福に訪れました。もちろんプロテスタント側の有力者、コリニー提督も姿も。そんな中、祝宴の最中に1発の銃声が響きます。この銃声を合図にカトリック教徒がプロテスタントらを襲撃。この虐殺によって犠牲者3000人とも4000人とも言われ多くのプロテスタントが虐殺されることに。更にこの惨劇によってセーヌ川が血で赤く染まったとも言われています。

1-6 虐殺の黒幕は?

しかしサンバルテルミの虐殺は実はカトリーヌ・ド・メディシスの仕業だったのではないかと言われています。これは、シャルル9世に対してユグノー派の指導者がプロテスタントの支援を目的にネーデルラントへ出兵するようにそそのかしたことに激怒したカトリーヌが虐殺を引き起こしたのではないかという説も。あるいは徐々に勢力が大きくなっていくプロテスタントを脅威に感じ、カトリックの有力人物ギーズ公とプロテスタントの一掃を目論んだとも。ちなみに黒幕説には、スペイン王のフェリペ2世も名が挙がっています。

\次のページで「2 サンバルテルミ後のフランスの行方」を解説!/

2 サンバルテルミ後のフランスの行方

サンバルテルミの虐殺が引き金となり、フランス国内へ波及することになった両派の対立。しかし宗教戦争であるユグノー戦争は、いつしか3人のアンリの名を持つ有力な人物たちの権力争いへと展開していくことに。ここではサンバルテルミの虐殺の後のユグノー戦争の行方を解説していきます。

2-1 ヴァロワ朝のアンリ3世

サンバルテルミの虐殺後の2年後にシャルル9世は病死することに。カトリーヌは次にアンリを3世として即位させます。ちなみにアンリは1573年にポーランド王に選出されていましたが、兄シャルルの死によってフランスへ戻ることに。(アンリは死ぬまでポーランド王を名乗っていたそう。)

彼女は4人の息子に恵まれましたが、既に3人を亡くしました。そしてシャルルの後に継がせたアンリは息子たちの中で最もカトリーヌが愛情を注いだ人物。彼女はアンリを「愛しい目」と呼んで溺愛していたそう。そのため、アンリを王位に就けるために彼女はフランソワとシャルルを毒殺したのではないかとも言われています。

2-2 ソドムの王と呼ばれたアンリ3世

しかしアンリが王位を継承することである問題が生じることに。アンリ3世はルイーズという妃がいましたが、彼は女性に一切関心を示さなかったのです。彼はソドムの王とも呼ばれ、ソドムとは男色を意味します。そのため、アンリの身に万が一が起こった場合には、4男のアランソワ公が王位継承者とすることに。ところがアランソワ公は1584年に死去。アンリには未だに子どもがおらず、王朝の断絶を避けたいカトリーヌは次々に美女を宮廷へ送り込みました。しかし彼女の努力も空しく、これから先も子どもが生まれることは絶望的でした。

2-3 アンリ3世の後継者

さて、男色だったアンリ3世。このまま子を成さずに亡くなった場合は、次の王は一体誰になるのでしょうか。法に従えば、ヴァロワ家の親戚に当たるブルボン家が継承することになっていましたこの継承者こそが、ヴァロワ家のマルグリットと結婚式を挙げたアンリでした。アンリはブルボン家の当主であり、ナヴァル王でもありましたが、プロテスタントの党首をしていた人物。結局アンリはブルボン家のアンリを後継者とすることに。

当然国内のカトリック教徒らはブルボン家のアンリの王位継承は認めがたく、反発することに。カトリック教徒らは「カトリック保護のための同盟(リーグ)」を結成。更にブルボン家のブルボン枢機卿を後継者としてアンリ3世に対抗します。ちなみにこの同盟にはスペインのフェリペ2世も参加しており、フェリペは傭兵2万を雇ってフランス中に配置。危機感を感じたアンリは同盟と和解せざるを得なくなることに。

2-4 3アンリの戦いへ

こうしてアンリ3世は1585年にヌムール協定を結び、フランス国内でのプロテスタントの信仰を禁じることに。これに対してブルボン家のアンリをはじめ、多くのプロテスタントが反発。更にアンリはドイツの諸侯やイングランドへ支援を求めました。この様相から、ユグノー戦争は、カトリック国スペインとプロテスタントのイングランドの代理戦争という見方もされています

こうしてユグノー戦争はいつしかヴァロワ家のアンリ3世、カトリック教徒のギーズ公アンリ、新教徒のブルボン家のアンリの権力争いへと展開していくことに。しかし実際には絶大な人気のあるギーズ公アンリ、プロテスタントの党首アンリの間に隠れてしまい、国王でありながらなす術のないアンリ3世でした。

\次のページで「2-5 ギース公アンリの暗殺」を解説!/

2-5 ギース公アンリの暗殺

1588年になんとギーズ公アンリがアンリ3世に対する事実上のクーデタを起こしました。これはバリケードの日と呼ばれることに。国王の親衛隊と同盟が激しく戦闘を行い、親衛隊が敗北することに。アンリ3世はパリの主要部を陥落させられ、制圧されました。こうして同盟側の要求である、プロテスタントの王位継承者は認めないことをアンリ3世に認めさせました。つまりこれによって一度決定していたブルボン家アンリの王位継承は白紙となることに。

しかしこれはアンリ3世にとってかなりの屈辱。この屈辱を晴らすため、彼は密かにギーズ公の暗殺を計画しました。バリケードの日から半年後。ギーズ公はアンリ3世に呼ばれ、王の居室へ足を踏み入れることに。しかし待っていたのは国王ではなく、国王の腕利きの親衛隊でした。彼らはギーズ公を暗殺。こうして野心家のギーズ公アンリは命を落としました。

2-6 修道士による暗殺

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Frans Hogenberg - This image comes from Gallica Digital Library and is available under the digital ID btv1b8400864r/f1, パブリック・ドメイン, リンクによる

野心家のギーズ公を暗殺したアンリ3世でしたが、わずか1年後に彼も暗殺されることに。1589年の夏の出来事でした。アンリ3世のもとへドミニコ会の修道士が訪れます。彼はクレマンと言い、国王への親書を持ってきたという。アンリ3世はパリからの暗殺者に警戒さよという警告を受けていましたが、やって来たのが僧だったため通すことに。こうしてクレマンは2人だけで話したいと伝え、ひと払いがされることに。彼は親書を取り出すフリをしてアンリに短剣を突き刺します。アンリの叫び声を聞いて駆け付けた侍従らによってクレマンは殺害されることに。アンリは2日間ほど苦しんだ末に亡くなりました。

2-7 ナントの勅令を出したアンリ4世

King Henry IV of France.jpg
フランス・ポルビュス (子) - http://www.photo.rmn.fr/archive/13-604682-2C6NU0LCSIQ3.html art-prints-on-demand.com, パブリック・ドメイン, リンクによる

3アンリの戦いで争っていた2人が亡くなったため、ブルボン家のアンリは1589年にブルボン朝を開き、アンリ4世と名乗ることに。ところが彼を国王と認めたのは、プロテスタントだけだったため、8割のカトリック教徒は彼を認めませんでした。更にアンリ4世は国王にも関わらずパリへ入城できなかったため、武力を用いて国内を平定していくことに。

こうしてパリ入城を果たすと、今度はフェリペ2世が介入することに。彼は自身の3人目の妃エリザベートがヴァロワ家出身だったため、自身の娘をフランス女王にと迫りました。これに対してイングランドからの援助で撃退したアンリ4世。しかしこのままではまた介入されてしまうこと、フランス国内を安定させるためにカトリックへ改宗することに。こうしてアンリ4世はカトリックへ改宗し、ナントの勅令(王令)を出します。これによってプロテスタントの信仰の自由が認められることに。これによって長きにわたって続いたユグノー戦争が終わりを告げました。

サンバルテルミの虐殺から大規模に波及したユグノー戦争

フランス国内でくすぶっていたカトリック教徒とプロテスタントの対立は1562年の流血事件を機にユグノー戦争という宗教戦争へ発展することに。時の国王シャルル9世と摂政のカトリーヌ・ド・メディシスは両派の対立を解消するため、カトリック教徒のマルグリットとプロテスタントの党首ナヴァル王アンリ(ブルボン家のアンリ)を結婚させることに。しかしこの結婚式が悲劇となることになりました。

両派の対立は深刻化していき、いつしか3人のアンリが覇権を争うことに。そして結末はギーズ公、ヴァロワ朝のアンリ3世の死によってナヴァル王が新たな王朝を開くことに。アンリ4世はフランス国内の宗教戦争に終止符を打つため、カトリックへ改宗し、更にナントの勅令を出しユグノー戦争を終焉へ導きました

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フランスブルボン朝世界史歴史

ユグノー戦争中に起こった「サン・バルテルミの虐殺」を歴女がわかりやすく解説

今回は、16世紀のフランスで起こったサンバルテルミの虐殺についてです。当時のフランスは旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の宗教対立が深刻化していて1562年の流血事件からユグノー戦争に発展。

そしてこれを収束すべく、カトリックのヴァロワ家マルグリットとプロテスタントのブルボン家アンリの結婚式が行われたんですが、そこで虐殺が起こることに。そこでヨーロッパ史に詳しいまぁこと一緒に分かりやすく解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。特にハプスブルク家やブルボン家、ヴァロワ家などの王家に関連する書籍を愛読中!今回はフランスのヴァロワ朝時代に起こったサンバルテルミの虐殺について解説していく。

1 フランスの宗教戦争

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サンバルテルミの虐殺は、当時のフランスで起こったユグノー戦争を収束させるためにカトリック教徒のヴァロワ家のマルグリットとプロテスタントのブルボン家のアンリの結婚式で起こった出来事。ここではサンバルテルミの虐殺が起こる経緯や虐殺について、更に虐殺後について詳しく解説していきます。

1-1 ユグノーとは?

16世紀にフランスで起こったカトリック教徒とプロテスタントの宗教戦争は、ユグノー戦争と呼ばれています。しかしそもそもユグノーとはどういう意味なのでしょうか。ユグノーとはプロテスタントのことを指しています。フランスはカトリック国でしたが、宗教改革によってフランスではカルヴァン派が浸透するように。ちなみにプロテスタントではなくユグノーと言われるのは、カトリック側がプロテスタントを乞食という意味のユグノーと蔑んだことが由来だそう。

1-2 次々に息子を王にした母カトリーヌ

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Workshop of フランソワ・クルーエ[1], パブリック・ドメイン, リンクによる

フランス王のアンリ2世が槍試合によって命を落とした後、権力を握ることになったカトリーヌ・ド・メディシス。ちなみにこの時既に40歳だったそう。彼女は次々に息子をフランス国王にし、自身は摂政として牛耳ることに。ちなみに彼女が権力を握ってはじめに行ったことはアンリ2世の愛妾を追い出すこと。カトリーヌはディアーヌ・ド・ポワチエからアンリ2世が送った宝石や城などを取り上げました。よほど恨みがあったと思われるエピソードですね。

1-3 薬で有名なメディチ家からフランスへ嫁いだ人物

さて、カトリーヌ・ド・メディシスですが彼女は大富豪メディチ家出身の女性。カトリーヌとヴァロワ家のアンリ2世が結婚することになったきっかけは、フランソワ1世(カトリーヌにとっては舅)フランソワはメディチ家の財産を狙って彼女を妃として迎えることに。ちなみにカトリーヌはフィレンツェからフランスにナイフやフォークなどの食器、イタリア料理、そして香水を持ち込んだことで知られています。

1-4 ユグノー戦争へ

1562年の流血事件から両派の対立はユグノー戦争へ発展することに。そうした中、カトリーヌ・ド・メディシスは手を打つことに。それはカトリック教徒である自身の娘、マルグリットと新教のブルボン家のアンリを結婚させて国内の宗教戦争を終わらせようと試みます。

しかし肝心の2人はこの結婚をどう思っていたのかというと、花嫁マルグリットはブルボン家のアンリよりもギーズ公アンリのことが好きだったそう。対するアンリは、自身の母が姑カトリーヌに毒殺されたため嫌っていたと言われています。こうしてお互い政略結婚をすることになったのですが、その後の結婚式はどうなったのでしょうか。

1-5 サンバルテルミの虐殺

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François Dubois[1], パブリック・ドメイン, リンクによる

1572年の8月に2人の結婚式はパリのノートルダム聖堂にて行われることに。ちなみにこの挙式はカトリックとプロテスタントの結婚だったため、教会には新婦のみが入場し、なんと新郎は教会の外にいるという変わった式でした。

その後は2人の結婚式には大勢の人々が祝福に訪れました。もちろんプロテスタント側の有力者、コリニー提督も姿も。そんな中、祝宴の最中に1発の銃声が響きます。この銃声を合図にカトリック教徒がプロテスタントらを襲撃。この虐殺によって犠牲者3000人とも4000人とも言われ多くのプロテスタントが虐殺されることに。更にこの惨劇によってセーヌ川が血で赤く染まったとも言われています。

1-6 虐殺の黒幕は?

しかしサンバルテルミの虐殺は実はカトリーヌ・ド・メディシスの仕業だったのではないかと言われています。これは、シャルル9世に対してユグノー派の指導者がプロテスタントの支援を目的にネーデルラントへ出兵するようにそそのかしたことに激怒したカトリーヌが虐殺を引き起こしたのではないかという説も。あるいは徐々に勢力が大きくなっていくプロテスタントを脅威に感じ、カトリックの有力人物ギーズ公とプロテスタントの一掃を目論んだとも。ちなみに黒幕説には、スペイン王のフェリペ2世も名が挙がっています。

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