平安時代の公卿であり、武官だった「坂上田村麻呂」。彼は征夷大将軍として東北地方の蝦夷征討を行った人物ですが、知っているか?

今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に「坂上田村麻呂」について解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。武士について勉強してきたが、その過程で見逃せない征夷大将軍が目につき、そのなかでも多くの伝説を持つ「坂上田村麻呂」について今回まとめた。

1.征夷大将軍「坂上田村麻呂」というひと

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平安時代の優れた武人だった「坂上田村麻呂」は、戦前の日本では「文の菅原道真、武の坂上田村麻呂」といわれ、文武のシンボルとされていました。

武門の家系、坂上氏

758年(天平宝字2年)、地方豪族であり、武門の誉と名高い坂上家の次男として「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」は生まれました。

すでに坂上家は、坂上田村麻呂の曾祖父の代には武官として朝廷にあり、天皇家や蘇我氏などの有力氏族の守衛として活躍していました。

父・坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)もまた、武人としても名前の通った人物です。彼は、のちに起こる「藤原仲麻呂の乱」や道鏡排斥などの功績によって正四位下、陸奥鎮守将軍へ任命されるとても有能な人でした。

坂上家は将軍を排出するのを家風としていましたから、坂上田村麻呂自身もまた幼いころから武芸を好むように育てられたとされています。

怒らせると怖い大男

坂上田村麻呂についての史料は、時代が古代だったこともあってほとんどありません。数少ない史料のうちの『田邑麻呂傳記』には、「彼は『身長五尺八寸(176センチ)、胸厚一尺二寸(36センチ)』の大きな体の持ち主であり、『怒って目を回せば、猛獣たちまちたおれ、笑って眉をのばせば、幼い子どもも早くなつき、まごころ面にあらわれる』」とその人となりが書かれています。

平安時代初期の日本人男性の平均身長がだいたい161センチとされていますから、坂上田村麻呂はそれより10センチも高い。その上、とても鍛えられた体をしていることがわかります。怒らせると非常に恐ろしいが、そうでなければとっつきやすい良い人だったのでしょう。

清水寺を建立

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京都の清水寺は修学旅行などで定番の観光寺ですね。実は、清水寺を建立したのが坂上田村麻呂その人でした。

きっかけは、坂上田村麻呂が病気の妻のために薬となる鹿の生き血を求めて音羽山へ入ったときのこと。そこで出会った僧侶の延鎮に殺生の罪について説法を受け、深く感銘を受けた坂上田村麻呂は本堂を彼に寄進したのでした。

また、その後には、朝廷から清水寺を坂上田村麻呂の私寺とすることを認められています。

はじめての出仕と当時の朝廷

幼少から武芸に励み続けた坂上田村麻呂が、朝廷で最初に任命されたのは近衛府の将監。これは内裏や皇族、高官の警護を請け負う役所の現場指揮者でした。

この当時、光仁天皇から桓武天皇へと譲位された時期で、時代で言うと、ちょうど奈良時代から平安時代への転換期にあたります。

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2.東北の蝦夷征討

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ヤマト朝廷と東北地方の蝦夷

この当時、東北地方にはヤマト朝廷に従わない「蝦夷(えみし)」と呼ばれる人々が住んでいました。従わないと言っても、ヤマト朝廷への帰属や同化を拒んだだけで、決して悪い人たちではありません。彼らのなかには朝廷に敵対する集団もあれば、積極的に朝廷に接近する集団もあったとされています。

さて、坂上田村麻呂が武官として順調に出世を重ねたことで、坂上家は地方豪族から中央の貴族への転身を果たしました。そして、蝦夷征討の下準備のため、彼は百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)らとともに東征副使として東北へ派遣されることとなります。

えっ?どうして百済の王様が日本に?

突然名前の出てきた「百済王」の名前に驚きませんでしたか?私はびっくりしました。

「百済王」と書いて「くだらのこにきし」と読むこの名字、実は本当に百済の王様の血筋なんです。

事の発端は、飛鳥時代に朝鮮半島の国「百済」の滅亡でした。当時の日本と百済は友好国でしたから、助けを求めてきた百済の皇子に応えて、朝廷は朝鮮半島に兵を出します。こうして繰り広げられたのが、「白村江の戦い」です。しかし、戦いは日本と百済の敗北に終わり、百済の復興が果たされることはありませんでした。

持統天皇の御代になり、日本に残っていた百済の皇子・善光に与えられたのが「百済王」姓だったのです。また、百済王善光自身も朝廷に仕える臣となったのでした。

蝦夷の英雄アテルイ

坂上田村麻呂が東北で戦いの準備を入念に進めていました。そうしなければならないほど、当時の蝦夷はかなり手強い相手だったのです。

相手方となる蝦夷の族長は「アテルイ(阿弖流為)」。今でいう岩手県のあたりを中心に活動し、彼が率いる蝦夷たちは何度も朝廷軍を撃破していました。朝廷側の史料にあるだけで、アテルイの活動は十数年にも及んだそうです。

アテルイたち蝦夷が手強かった史料としては、『続日本紀』に、789年(延暦8年)に起こった「巣伏の戦い」が記録されています。これによると当時の征東将軍(征夷大将軍と同じ)紀古佐美(きのこさみ)率いる4000の朝廷軍が北上川を越えて進軍して巣伏村(岩手県奥州市)に至りました。しかし、この行軍は約1200~1500の蝦夷たちの反撃により朝廷軍側が多くの死傷者を出す結果となり、失敗に終わったのです。

征夷大将軍任命へ

796年(延暦15年)のはじめ、坂上田村麻呂は陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、同年10月に鎮守将軍を兼任することになりました。さらに、翌797年(延暦16年)にはいよいよ征夷大将軍に任命されます。三つの役職を兼任することによって、坂上田村麻呂は東北の行政指揮権をすべて握ることになったのです。

「征夷大将軍」の肩書の変化

ところで、「征夷大将軍」の漢字を分解すると、「征」は「討伐に向かうこと」で、「夷」は「蝦夷」の「夷」。そのまま「蝦夷征討軍の大将」という意味になりますね。

しかし、この肩書は後世になると意味合いが変化して、蝦夷征討とは関係なくなっていきます。鎌倉幕府を開いた源頼朝をはじめ、「征夷大将軍」は、日本のすべての武士の棟梁であり、幕府で一番偉い人が持つ位となったのです。それが源頼朝のあとにも受け継がれたので、室町幕府の足利氏も、江戸幕府の徳川家の将軍たちもみんな「征夷大将軍」に就任しているんですよ。

アテルイの投降

801年(延暦20年)2月、桓武天皇から蝦夷征討の任務を任された証となる節刀を賜った坂上田村麻呂が4万もの軍勢を率いて平安京を発ちました。

いよいよ征夷大将軍・坂上田村麻呂と蝦夷の族長・アテルイが戦うことになります。……が、戦いの詳細な記録はなく、『日本紀略』に「9月に坂上田村麻呂が蝦夷を討伏した」とだけ書かれているのみ。残念。

戦いの経過はわかりませんが、翌802年(延暦21年)4月には造営中の胆沢城(岩手県奥州市水沢)にアテルイと、もうひとりの族長モレ(母礼)は500人の蝦夷を連れて降伏にやってきたといいます。

朝廷の非情な沙汰

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アテルイたち蝦夷の降伏を受け入れた坂上田村麻呂。けれど、彼はそこでアテルイたちを殺したりはしませんでした。むしろ、アテルイたちの命を救うように桓武天皇に嘆願したのです。

蝦夷降伏の報せは平安京の公卿たちに祝賀ムードをもたらしましたが、しかし、坂上田村麻呂の願いは聞き入れられずアテルイたちの処遇については非常に冷たいものとなりました。

朝廷の政治家たちが言うには「アテルイたちは奥地の賊の頭で、いつ裏切るかわからない。だから、彼らをもとの場所に帰すのは、虎を養うようなものだ」ということです。

そうして、アテルイとモレは河内国(大阪府東部)の椙山で処刑されてしまったのでした。

二度目の征夷大将軍任命

アテルイらが処刑されたのち、坂上田村麻呂は陸奥国へと舞い戻ります。そして、804年に二度目となる征夷大将軍の任命を受け、再び蝦夷征討を続けるべく準備に取り掛かりました。

しかし、その一方で平安京では新たな動きが。

桓武天皇が、参議の藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)と菅野真道(すがわらのまみち)に現行政治の問題点について質問をしたところ、藤原緒嗣は「人々を苦しめているのは、軍事と造作です」と答えました。軍事とは蝦夷への遠征、造作は平安京の建設です。菅野真道はそれに反論しましたが、桓武天皇は若い藤原緒嗣の主張を採用します。ふたりが行った論争は「徳政相論」といい、その結果、第四次蝦夷征討は中止となりました。

征夷大将軍は本来、蝦夷征討を指揮する臨時職でしたから、本当なら蝦夷征討が中止になれば役職を返さなければなりません。けれど、坂上田村麻呂は生涯にわたって「征夷大将軍」の称号を持ち続けました。

大出世した坂上田村麻呂

その後、桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位します。坂上田村麻呂は平城天皇のもとでも重用され、中納言と中衛大将を兼任しました。当時の官僚は上から太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、その次が中納言ですから、もともと地方豪族だった坂上田村麻呂としては夢にも思わぬ大出世となったのです。

3.平城太上天皇の変

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平城天皇と藤原薬子

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ところで、桓武天皇に代わって即位した平城天皇ですが、彼には皇太子時代からとある醜聞がありました。自分の妃の母で、人妻の藤原薬子(ふじわらのくすこ)を寵愛し、生前の桓武天皇にも厳重注意を受けていたのです。けれど、桓武天皇も亡くなり、平城天皇の御代ともなれば、もう愛の障害はありません。追放されていた藤原薬子に尚侍(上級女官)に任じて取り戻します。次いで藤原薬子の夫は、遠い九州の大宰府へ赴任させてしまいました。

平城天皇は意欲的に政治や財政の立て直しを行いましたが、一方で、藤原薬子と、彼女の兄で参議の藤原仲成が政治へ介入して専横するようになっても止めなかったのです。

坂上田村麻呂の出陣

藤原薬子と藤原仲成が専横を極めるなか、けれど、平城天皇は病のために弟の嵯峨天皇へ譲位しました。もちろん、藤原薬子らは譲位に大反対していましたから、快復した平城上皇に復位するよう要請したのです。平城上皇は要請を聞き入れ、嵯峨天皇から政権を奪おうと平安京から平城京へ遷都するよう詔勅を出しました。

しかし、嵯峨天皇は詔勅に従うふりをして周辺諸国の関所と国府を固め、藤原仲成を捕縛し左遷、さらに藤原薬子の官位をはく奪してしまいます。

このとき、平城上皇への牽制として平城京に送り込まれていた坂上田村麻呂は、嵯峨天皇により大納言へと昇進しました。

さて、嵯峨天皇の動きを知った平城天皇は大激怒して挙兵を決断。藤原薬子とともに東国へ向かいます。

これを阻止すべく派遣されたのが、坂上田村麻呂でした。

乱の終わりはあっけなく

坂上田村麻呂に進路を阻まれた平城上皇たち。相手が蝦夷征討の英雄とあっては上皇側に勝ち目はありません。挙兵を断念した平城上皇は平城京へと戻り、出家します。僧侶となって以降は政治にかかわらないという意思表示ですね。藤原薬子は毒を飲んで自殺し、藤原仲成は、その前日に射殺されました。

この一連の騒動を「平城太上天皇の変」あるいは、「薬子の変」といい、当事者たちが出家ないし、亡くなったことであっけなく終息を迎えたのです。

強く、男気の溢れる英雄「坂上田村麻呂」

坂上田村麻呂は武人として活躍し、東北の平定に力を尽くしました。しかし、投降したアテルイをすぐに処刑することなく、むしろ、裏切りを疑われるかもしれないのに、アテルイの助命嘆願を朝廷へと送ります。坂上田村麻呂は腕っぷしが強いだけでなく、慈悲の心をあわせもった優れた武人ですね。

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平安時代日本史歴史

蝦夷征討を成功させた平安時代の武官「坂上田村麻呂」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

平安時代の公卿であり、武官だった「坂上田村麻呂」。彼は征夷大将軍として東北地方の蝦夷征討を行った人物ですが、知っているか?

今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に「坂上田村麻呂」について解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。武士について勉強してきたが、その過程で見逃せない征夷大将軍が目につき、そのなかでも多くの伝説を持つ「坂上田村麻呂」について今回まとめた。

1.征夷大将軍「坂上田村麻呂」というひと

Sakanoue Tamuramaro sw.jpg
不明 – Katalog, パブリック・ドメイン, リンクによる

平安時代の優れた武人だった「坂上田村麻呂」は、戦前の日本では「文の菅原道真、武の坂上田村麻呂」といわれ、文武のシンボルとされていました。

武門の家系、坂上氏

758年(天平宝字2年)、地方豪族であり、武門の誉と名高い坂上家の次男として「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」は生まれました。

すでに坂上家は、坂上田村麻呂の曾祖父の代には武官として朝廷にあり、天皇家や蘇我氏などの有力氏族の守衛として活躍していました。

父・坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)もまた、武人としても名前の通った人物です。彼は、のちに起こる「藤原仲麻呂の乱」や道鏡排斥などの功績によって正四位下、陸奥鎮守将軍へ任命されるとても有能な人でした。

坂上家は将軍を排出するのを家風としていましたから、坂上田村麻呂自身もまた幼いころから武芸を好むように育てられたとされています。

怒らせると怖い大男

坂上田村麻呂についての史料は、時代が古代だったこともあってほとんどありません。数少ない史料のうちの『田邑麻呂傳記』には、「彼は『身長五尺八寸(176センチ)、胸厚一尺二寸(36センチ)』の大きな体の持ち主であり、『怒って目を回せば、猛獣たちまちたおれ、笑って眉をのばせば、幼い子どもも早くなつき、まごころ面にあらわれる』」とその人となりが書かれています。

平安時代初期の日本人男性の平均身長がだいたい161センチとされていますから、坂上田村麻呂はそれより10センチも高い。その上、とても鍛えられた体をしていることがわかります。怒らせると非常に恐ろしいが、そうでなければとっつきやすい良い人だったのでしょう。

清水寺を建立

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京都の清水寺は修学旅行などで定番の観光寺ですね。実は、清水寺を建立したのが坂上田村麻呂その人でした。

きっかけは、坂上田村麻呂が病気の妻のために薬となる鹿の生き血を求めて音羽山へ入ったときのこと。そこで出会った僧侶の延鎮に殺生の罪について説法を受け、深く感銘を受けた坂上田村麻呂は本堂を彼に寄進したのでした。

また、その後には、朝廷から清水寺を坂上田村麻呂の私寺とすることを認められています。

はじめての出仕と当時の朝廷

幼少から武芸に励み続けた坂上田村麻呂が、朝廷で最初に任命されたのは近衛府の将監。これは内裏や皇族、高官の警護を請け負う役所の現場指揮者でした。

この当時、光仁天皇から桓武天皇へと譲位された時期で、時代で言うと、ちょうど奈良時代から平安時代への転換期にあたります。

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