幕末日本史歴史江戸時代

勝海舟を見出し江戸城無血開城にも尽力した「大久保一翁」最後の幕臣を歴女がわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ、今回は大久保一翁を取り上げるぞ。幕末の幕臣だって、どんなことをした人か詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末に目がないあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末は勤皇佐幕にかかわらず興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大久保一翁について5分でわかるようにまとめた。

1-1、大久保一翁は旗本の生まれ

大久保一翁(おおくぼ いちおう)は文化14年(1817年)11月、500石の旗本の西丸留守居役大久保忠向の息子として誕生。 幼名金之助、後に三市郎。諱は忠正、のちに忠寛。一翁は隠居後の号。

大久保家は三河出身の徳川譜代の家臣で、徳川家康に仕えた大久保五郎右衛門忠利の子孫、有名な大久保彦左衛門と直接の関係はないが一族で遠縁にあたるそう。

1-2、一翁、若くして江戸城へ出仕

一翁は、文政10年(1827年)4月19日、10歳で11代将軍徳川家斉に初めてお目見え。天保元年(1830年)12月11日、小姓組五番番頭大久保上野介忠誨組より将軍家斉附の小納戸に異動。12月16日、布衣に遇せられ、天保4年(1833年) 6月には将軍家斉の小姓に異動し、天保8年(1837年)に将軍家斉が大御所となると、家斉の西丸移動に伴って西丸小姓に。天保12年(1841年)3月には小納戸肝煎となり、天保13年(1842年)9月には父の死去で家督を継承し、嘉永2年(1849年)1月には、諱を忠寛に改名。

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小納戸役とは(こなんど)
小納戸は、江戸幕府、諸藩での職名で、小納戸役とも。

江戸幕府では、将軍は本来、江戸城本丸御殿の中奥(なかおく)で起居して政務を行うのですが、ここで将軍の日常生活に従事するのが仕事。小納戸は若年寄の支配下となり、御目見以上の旗本の役目で、布衣(ほうい、狩衣の一種)着用が許されたそう。

小姓よりも職掌は多岐にわたっているために、目付を通じて面接が行われて厳選、最終検査は将軍自身が4,5間(約7,8m)の距離から見て決定。任命されると、特技を将軍の前で披露、それに応じて、御膳番、御髪月代、奥之番、肝煎、御庭方、御馬方、御鷹方、大筒方などの担当に配属され、吹上庭園内の学問所、けいこ場で、漢学、詩文、書画、遊芸、天文、武術の熟練者は雑役を免ぜられて同僚を指導したということで、幕末には100人を超える人数がいたということ。

小納戸は、将軍に近侍する機会が多くいために才智に長ければ昇進の機会が多かったそう。

2-1、一翁、老中阿部正弘に見出され、勝海舟を見出す

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不明。 – 個人所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

一翁は、老中首座の阿部正弘に見出され、ペリー来航後の安政元年(1854年)、37歳で目付兼海防掛に抜擢・その他にも、岩瀬忠震、永井尚志、栗本鋤雲、堀利熙、木村喜毅なども目付や海防掛に抜擢されたということ。

嘉永7年(1854年) 2月には、七番組徒頭に異動したが、黒船到来で、老中阿部正弘が幕閣のみならず諸大名、一般にも広く意見を聞いたときに一翁は目付兼海防掛として勝海舟が提出した海防意見書を読んで興味を持ち、当時蘭学塾を開いていた勝海舟宅を訪問、勝海舟の才能を見抜いて懇意となり、老中首座阿部正弘に推挙、勝海舟が幕臣として活躍するきっかけになったということ。

安政3年(1856年)10月には貿易取調御用に任命され、蕃書調所や講武所の事務管理に携わることに。

2-2、一翁、長崎奉行を固持し左遷

一翁は、安政4年(1857年)正月には七分積金などの基金をもとにした、西洋式の病院、孤児院、貧困層救済施設の設立構想である「幼院病院設立意見書」を提出したが、これは明治後に実現することに。

そして一翁は、安政4年(1857年)1月22日、長崎奉行に就くことを命じられるが固辞。長崎では賄賂が横行する土地柄で、長崎奉行になると一年で蔵が立つと言われたほどおいしい職だったが、一翁が固持した理由は、長崎奉行は数千石の裕福な旗本なら務まるが、自分のような五百石の小身では賄賂の餌食になるだけとか、賄賂が嫌いだとか、大病を患ったためとか、子供が相次いで夭折した時期だったこともあったということ。

しかしこれで一翁は出世への道を外れてしまい、同年4月15日、駿府町奉行赴任を命じられて、翌年の安政5年(1858年)5月まで駿府町奉行を勤めたそう。

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