
「ねんげ-みしょう【拈華微笑】 」
言葉を使わず、心から心へ伝えること。また、伝えることができること。▽仏教語。「拈華」は花をひねる意。「華」は草木の花の総称。「拈」は指先でひねること。
出典:三省堂 新明解四字熟語辞典
華をひねって見せたお釈迦様のエピソードそのものを言葉にしたものですね。
「以心伝心」の対義語は?
では、対義語を見てみましょう。なかなか伝わらなくてイライラする気持ちが文字面からもにじみだしてくるのはこんな言葉です。
「かっか-そうよう【隔靴掻痒】」
痒かゆいところに手が届かないように、はがゆくもどかしいこと。思うようにいかず、じれったいこと。物事の核心や急所に触れず、もどかしいこと。靴を隔てて痒いところをかく意から。▽「掻」はかく、ひっかく。「痒」はかゆい。「痒」は「癢」とも書く。「靴くつを隔へだてて痒かゆきを掻かく」と訓読する。
We understood each other almost as if we were in some kind of telepathic communication.
お互いの心は以心伝心で何となくわかっていた。
出典:研究社 新和英中辞典
いわゆるテレパシーです。カタカナ英語にもなっていますね。
実はこの以心伝心にまつわるお話、さらに基になっているのは「大梵天王問仏決疑経」というお経なのですが、このお経「偽経」であるとされています。つまり、後から作ったウソ話。そもそも、釈迦は一生懸命言葉で教えを弟子に伝えようとしています。だからこそ、仏教団が組織できたともいえるでしょう。何も言ってくれないお師匠様にひょっとしたら何人かはついてくるかもしれませんが、何百何千何万というほどの人がついてくるということはあり得ないですよね。
では、なぜこの話が重要視されているのでしょうか?一つには禅の教えが以心伝心で行われるものであり、禅の正当性をお釈迦様の説話をつかって示しているから、ということは言えます。意地悪な言い方をすればプロパガンダです。ただ、それだけではないでしょう。この話自体、初めて出てきたのは千年ほど前のこと。それだけの時間、語られ続けた時点ですでに古典であるといえます。その事実から、真理を内包していて、いろいろな人の心の指針になってきたと言うことができる。禅問答でも使用されています。そもそも、伝えたいことが伝わればいいので、例えそれは寓話であってもよいのですから。その辺は、以心伝心で。
「以心伝心」を使いこなそう
以心伝心についてみてきました。仏教由来の言葉であったことすら意外ではないでしょうか。筆者自身、この言葉を学ぶまで、アイコンタクトを漢字で言うと…程度の認識でした。よく、本当の意味で英語を学ぶためには聖書の理解が不可欠だ、とかギリシア神話の知識なしでは理解できないものがある。などといわれたりもしますが、実はそれは日本語も同じこと。我々の文化にも宗教や中国の文化が知らないうちに染み込んでいますし、本当の意味で理解するにはそれらの理解も必要です。また、それを学んでいくことも、言葉を学ぶ楽しみの一つであると筆者は考えています。
現在使われる場合は、英語訳で紹介したテレパシーのように、程度の意味合いで使われますし、それはそれでいいのですが、海外の方に日本文化を紹介する際、スティーブ・ジョブズも好きだったという禅を語るときに以心伝心を併せて語れたなら、なかなか素敵なことではないでしょうか。