一度出家後した人が将軍になるのは難しい
そもそも、義教は元服前に出家していました。元服の儀式が未完のため、幕府に戻ってきても「子ども」の扱いで無位無官(何の役職もない)。その状態からいきなり将軍職に就くのはちょっと無理がありませんか?
という訳で反対意見もありました。
段階を踏んで将軍に
元服未完のまま出家していた義教が将軍になるためには、まず髪を伸ばし元服の儀式を完了させる必要がありました。元服の儀式と言えば、12-16歳の男子が大人の服装、大人の髪型にして神社で冠をかぶせてもらう儀式。
まずは、髪を伸ばすところからスタート。
元服の儀式完了後、まずは従五位下左馬頭という幕府の役職に就きます。その1か月後に従四位に昇任したが、将軍就任とはならず。そのため、鎌倉公方(室町幕府が関東を支配するために置いていた拠点)の足利持氏が将軍になるのではないかと噂されました。鎌倉公方はしばしば幕府と対立関係にあったこともあり、不穏な空気が流れます。
「結局、誰が将軍になるのだ?対立関係にある鎌倉公方から就任するのか?そんなことになったら混乱するのでは?」と落ち着かない雰囲気。
心機一転の改元。「応永」→「正長」へ
将軍後継ぎ問題で落ち着かない状況から幕政を一新させたいという義教の思いから、長く続いた「応永」に終止符を打ち新しい元号「正長」に改められました。
史上3番目に長い元号「応永」
室町時代の元号「応永」は実は歴代3番目に長い元号。1位は「昭和」で64年、2位は「明治」で45年、その次3位がまさかの「応永」で35年。江戸時代以前の元号はあまり長く使われものではありませんでした。天皇が変わるたびに元号も変えるというルールになったのも明治以降。それまでは天皇の即位云々には関係なく、何かしらのイベントにつけて話し合いの上、元号が変更されていました。
飢饉が発生し、縁起が悪いから元号を変更する。そんな具合です。そんな中で35年間同じ元号が使われていたのは異例。天皇が変わっても将軍が変わっても、義満時代の「応永」は引き継がれたのです。4代将軍義持、実は義満と仲が悪かったそうですが、それでも元号は引き継いだのだとか。
4.就任したからには全力投球~義教の政策~
くじ引きで決まった将軍。自分の意志ではないし、推薦されたわけでもない。そういってバカにされないよう、義教は「将軍になった限り全力投球」。やり手の将軍となっていきます。
義教の政策を見てきましょう。
義満の政策を手本に
義満の時代幕府の権力は強かった。しかしその後、義持の時代になり幕府の権力は弱まっていきました。義満と不仲だった義持は、反発心からか義満の政策を変えていたのです。
義教は、義満時代の政策を復活させることで幕府権威の復興を目指しました。
日明貿易復活
義満が必死の思いで明との国交を開き始まった「日明貿易(勘合貿易)」ですが、4代義持の時代に一旦中断されていました。義教はこの日明貿易を復活させます。
兵庫に赴き、自ら遣明船の視察に行きました。やる気満々ですね。
将軍の決定権強める~御前沙汰の権威強化~
室町時代、将軍が主宰する非公式会議「御前沙汰」が存在しました。ポイントは「非公式」である点。出席者の選定に決まりがなく、主宰者である将軍の意見が反映されやすい会議。本来、このような会議で決められることは限られていて、重要な決定は出来ませんでした。
しかし、義教はこの「将軍の独壇場」ともいえる御前沙汰での決定権限を広げました。かくして独裁の風潮が強まっていきます。
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