部活のキャプテン、学級委員、生徒会長、PTA会長など「代表者」を決める時どうする?おそらく話し合いや選挙などが相応の決め方。

でも時には、候補者がいないから「くじ引きで決めます」なんてことがあったりする。実はかつて政治の代表者ともいえる「将軍」までもが「クジ引き」で決まったことがある。そして、その後くじ引きで決まった将軍が独裁者となって人々の不満を買い、最終的に暗殺されてしまった。

そんな室町幕府6代将軍「足利義教」について、室町時代オタクのR175と解説していく。

ライター/R175

京都府在住の室町時代オタク。理系出身であるが、京都の寺社仏閣を巡るのが趣味。理系らしく論理立てて説明することを心掛ける。

1.義教、実は義満の息子~室町幕府将軍の即位事情

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3代将軍足利義満は初代尊氏の孫。何の違和感もなし。

けれど、6代将軍義教3代義満の息子。「どうしたどうした?」。通しナンバー上は3→6で3世代離れていますが、実際は親子。そこに室町幕府の複雑な即位事情が絡んでいます。

足利家将軍即位の事情

足利家将軍即位の事情

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家系図とともに、足利将軍を追っていきましょう。初代尊氏~5代義量(よしかず)までは順当に親→子に即位。

しかし、6代義教は、5代義量の叔父。何が起こったのでしょうか。

5代将軍義量(1407~1425)の早世

1423年、5代将軍義量は早くも17歳(満15歳)で将軍に。しかし、早くもその2年後に亡くなってしまいます。満17歳没。父、義持に先立っての早世。一節によれば、義量は大のお酒好きで、それが原因で体調を崩し亡くなったとも言われています。

とにかく、若くして亡くなった義量には子息がいません。ここで後継ぎ問題が勃発。

2.将軍不在の4年間

義量が亡くなった1425年からは将軍不在状態が続きました。有力な候補がいなかったのです。それだけ当時の政治の舵を切るのは難しい状況だったと言えます。

5代将軍良義量が亡くなってから、実質的には4代義持が政治の指揮を取っていました。そんな義持も1428年(応永35年)1月に病気になってしまいす。しかし、その期に及んでも義持から将軍後継者の指名はありません。

そのまま、義持が亡くなってしまったらいよいよ指揮を取る人がいません。困りました。そこで、当時の管領らが取った策が「くじ引きによる将軍の決定」。

ちなみに「管領」とは、室町幕府の中で将軍に継ぐ位の役職。鎌倉幕府でいう「執権」に相当。ただし、「執権」に比べて権力は小さかったようです。執権と管領は同じポジションですが、鎌倉幕府→室町幕府と組織が変わったので合わせて役職のネーミングも変わったということ。

3.くじ引き将軍の誕生

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後継ぎおらず将軍不在、指揮を取っている人も危篤状態。そんな状況でやむなく将軍決めのための「くじ引き」が行われました。6代将軍候補になったのが、義持の弟たち3名。いずれも5代将軍から見れば叔父。

義持が危篤になると、石清水八幡宮でくじ引きが行われました。翌日義持が亡くなり、結果が開封されます。その結果当選したのが、足利義教。しかし、くじで決まったからと言って、すぐ将軍就任とはいかず。紆余曲折ありました。

義教、将軍就任を拒否

そもそも、有力な候補者がいないから「くじ引き」という方法が取られています。それだけ、幕政が難しい状況。そんな中、いきなり「あなたが次の将軍。くじで決まったから」なんて言われても断るのが当然。

しかし、最終的に守護大名たちに説得され引き受けることになりました。

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一度出家後した人が将軍になるのは難しい

そもそも、義教は元服前に出家していました。元服の儀式が未完のため、幕府に戻ってきても「子ども」の扱いで無位無官(何の役職もない)。その状態からいきなり将軍職に就くのはちょっと無理がありませんか?

という訳で反対意見もありました。

段階を踏んで将軍に

元服未完のまま出家していた義教が将軍になるためには、まず髪を伸ばし元服の儀式を完了させる必要がありました。元服の儀式と言えば、12-16歳の男子が大人の服装、大人の髪型にして神社で冠をかぶせてもらう儀式。

まずは、髪を伸ばすところからスタート。

元服の儀式完了後、まずは従五位下左馬頭という幕府の役職に就きます。その1か月後に従四位に昇任したが、将軍就任とはならず。そのため、鎌倉公方(室町幕府が関東を支配するために置いていた拠点)の足利持氏が将軍になるのではないかと噂されました。鎌倉公方はしばしば幕府と対立関係にあったこともあり、不穏な空気が流れます。

「結局、誰が将軍になるのだ?対立関係にある鎌倉公方から就任するのか?そんなことになったら混乱するのでは?」と落ち着かない雰囲気。

心機一転の改元。「応永」→「正長」へ

将軍後継ぎ問題で落ち着かない状況から幕政を一新させたいという義教の思いから、長く続いた「応永」に終止符を打ち新しい元号「正長」に改められました。

史上3番目に長い元号「応永」

室町時代の元号「応永」は実は歴代3番目に長い元号。1位は「昭和」で64年、2位は「明治」で45年、その次3位がまさかの「応永」で35年。江戸時代以前の元号はあまり長く使われものではありませんでした。天皇が変わるたびに元号も変えるというルールになったのも明治以降。それまでは天皇の即位云々には関係なく、何かしらのイベントにつけて話し合いの上、元号が変更されていました。

飢饉が発生し、縁起が悪いから元号を変更する。そんな具合です。そんな中で35年間同じ元号が使われていたのは異例。天皇が変わっても将軍が変わっても、義満時代の「応永」は引き継がれたのです。4代将軍義持、実は義満と仲が悪かったそうですが、それでも元号は引き継いだのだとか。

4.就任したからには全力投球~義教の政策~

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くじ引きで決まった将軍。自分の意志ではないし、推薦されたわけでもない。そういってバカにされないよう、義教は「将軍になった限り全力投球」。やり手の将軍となっていきます。

義教の政策を見てきましょう。

義満の政策を手本に

義満の時代幕府の権力は強かった。しかしその後、義持の時代になり幕府の権力は弱まっていきました。義満と不仲だった義持は、反発心からか義満の政策を変えていたのです。

義教は、義満時代の政策を復活させることで幕府権威の復興を目指しました。

日明貿易復活

義満が必死の思いで明との国交を開き始まった「日明貿易(勘合貿易)」ですが、4代義持の時代に一旦中断されていました。義教はこの日明貿易を復活させます。

兵庫に赴き、自ら遣明船の視察に行きました。やる気満々ですね。

将軍の決定権強める~御前沙汰の権威強化~

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室町時代、将軍が主宰する非公式会議「御前沙汰」が存在しました。ポイントは「非公式」である点。出席者の選定に決まりがなく、主宰者である将軍の意見が反映されやすい会議。本来、このような会議で決められることは限られていて、重要な決定は出来ませんでした。

しかし、義教はこの「将軍の独壇場」ともいえる御前沙汰での決定権限を広げました。かくして独裁の風潮が強まっていきます。

\次のページで「御前沙汰の権限拡大」を解説!/

御前沙汰の権限拡大

従来の権限:「雑訴」と呼ばれる主に土地の所有権に関する訴訟を扱っていた。

義教が追加した権限:従来の雑訴に加え、年貢回収のルールなどを決める「所務(しょむ)」に関する決定も出来るようにした。

前者の「雑訴」は誰がどの土地を持つかといった程度の話で済みますが、後者の「所務」は税収にかかわる重大な決定。それを、ややこしい発言者をはぶける将軍独壇場の会議で決められるようにしちゃったわけです。

なかなかのやり手ですね。

5.お寺との対立

気に入らない寺社仏閣にはかなりの塩対応。中世の日本では寺社仏閣の勢力が強く、義教は天台宗の勢力を味方に付けようと図ります。しかし、義教率いる当時の幕府は何かと「強引」であったためか天台宗勢から反発を食らうことに。幕府の役人が延暦寺(天台宗のお寺の1つ)に訴えられます。

これに対し、当時の管領細川持之らが「今回は折れましょう」と提案したため、訴訟の対象となった役人を流罪とすることで事態を鎮静化しました。

勝訴したことで、延暦寺は調子に乗って、訴訟に同調しなかった園城寺を焼き討ちする事件が発生。怒った義教は比叡山を包囲したところ、延暦寺は降伏しました。ここで表面上は一旦仲直りしてましたが、義教は延暦寺を許せず、上述の事件首謀者を改めて京都に呼び出し死刑に(首斬り)しました。

6.守護大名への介入

守護大名の人事や領地分配についてもうるさく口出すようになります。何のために?将軍に都合の良い状況を作るためです。例えば、仲の良い守護大名ばかりが広範囲に渡って支配していたらどうでしょう?

いずれ彼らは力を付け協力の上、反乱を起こしてくる恐れがありますね。それは避けたいところ。

しかし守護大名たちは

地方治める守護大名たち。彼らには彼らのやりやすい方法があるもの。例えば、有力な守護大名たちがある程度協力出来る方が軍事力が上がり、安定して領地を治めることが出来る。将軍は「反逆される」と恐れるかもしれないけれど。

そんなこんなで守護大名たちとしては将軍にあまり細かく口出しされたくないもの。何かに付けて権力を行使してくる将軍義教に不満を抱き始めます。

不満を露わにした者は

義教の意に反する者は、一色義貫や土岐持頼のように、容赦なく殺される始末。守護大名たちの間に不満と不安が膨らんでいきました。義教の政策はまさに「恐怖政治」だったのです。

義教さんやりすぎですよ

幕府の副代表にあたる管領・細川持之は幾度となく義教にそう助言していました。先述の延暦寺の件でも、「一旦仲直りする」ことを提案したのもの管領の細川氏。キレる義教を何とか説得して仲直りさせるも、義教は改めて首謀者を京都に呼び出し殺してしまう始末。

将軍主宰たる会議「御前沙汰」の権限も広がっているし、将軍が暴走しても歯止めが効きづらい状態。

\次のページで「7.義教暗殺される」を解説!/

7.義教暗殺される

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みんな義教を恐れていたのですが、ついに守護大名「赤松満祐」によって義教が暗殺されました。義教暗殺からその後の幕府軍との一連の騒乱は当時の元号を取って「嘉吉の乱」とか「嘉吉の変」と呼ばれています。

義教暗殺の背景

義教暗殺を実行した赤松満祐は、将軍に討たれ所領を没収されるという噂が立っていました。満祐も恐怖です。

義教を誘き寄せる

嘉吉元年(1441年)、義教が結城合戦で勝ったタイミングでした。満祐は「祝勝会」と称して自分の家に義教を招待しました。

結城合戦

義教と鎌倉公方(幕府の関東拠点)との合戦。鎌倉公方は、関東地区で将軍の代わりをする役目だったが、しばしば幕府と対立していた。結城合戦もその一つで、義教率いる幕府側が合戦を制しています。

独裁者暗殺の瞬間

義教、大名たちとともに招待された赤松邸を訪れ、猿楽を鑑賞している時でした。突如、馬が放たれ門が一斉に閉まる音がしました。義教「何事であるか?」と驚いていたその直後、障子が開け放たれ武者たちが宴会最中の座敷に乱入。義教は首をはねられました。

義教暗殺後

ほぼ義教の独裁状態だった室町幕府。その義教が暗殺されてしまうと、混乱状態に。誰が何をどう指揮するか決められません。暗殺を実行した赤松氏が幕府からの攻撃を受けることなく播磨(兵庫県西部)に帰国してしまう始末。室町幕府の政治が不安定になっていくのでした。

混乱していたのか義教が嫌われていたのか

普通なら、幕府の代表が大名によって討たれたのなら、直ちに反撃されそうなもの。それなのに、暗殺実行者が攻撃されることもなく逃げることが出来た。しかも、義教の首は誰も持ち帰らず屋敷に放置されたままだったという説さえある。これに対し2通りの解釈が出来る。

1.指示する人が急にいなくなり誰も動けなかった。
2.義教が怖くて仕方なかった。義教が殺されたからと言って積極的に反撃しようとする者がいなかった。

強硬政治故、義教を嫌っていた者は多かったはず。その嫌われ者の仇を取りにいったら自分も嫌われそう。そう考えると躊躇してしまうのも無理はない。

籤(くじ)引きから生んだ独裁者

足利義教についてざっくりまとめると、

1.将軍後継者がおらずくじ引きで将軍を決める
2.その将軍がくじ引き将軍と馬鹿にされないよう頑張る
3.頑張り過ぎたが故、強硬・独裁政治となる
4.うらみを買ってしまい暗殺される

籤引きに頼った結果、独裁政治や暗殺につながったわけです。やはり代表者はみんなで話し合って決めた方がよいのかもしれませんね。

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室町時代日本史歴史

くじ引きで決まった独裁者「足利義教」を室町時代オタクがわかりやすく解説

一度出家後した人が将軍になるのは難しい

そもそも、義教は元服前に出家していました。元服の儀式が未完のため、幕府に戻ってきても「子ども」の扱いで無位無官(何の役職もない)。その状態からいきなり将軍職に就くのはちょっと無理がありませんか?

という訳で反対意見もありました。

段階を踏んで将軍に

元服未完のまま出家していた義教が将軍になるためには、まず髪を伸ばし元服の儀式を完了させる必要がありました。元服の儀式と言えば、12-16歳の男子が大人の服装、大人の髪型にして神社で冠をかぶせてもらう儀式。

まずは、髪を伸ばすところからスタート。

元服の儀式完了後、まずは従五位下左馬頭という幕府の役職に就きます。その1か月後に従四位に昇任したが、将軍就任とはならず。そのため、鎌倉公方(室町幕府が関東を支配するために置いていた拠点)の足利持氏が将軍になるのではないかと噂されました。鎌倉公方はしばしば幕府と対立関係にあったこともあり、不穏な空気が流れます。

「結局、誰が将軍になるのだ?対立関係にある鎌倉公方から就任するのか?そんなことになったら混乱するのでは?」と落ち着かない雰囲気。

心機一転の改元。「応永」→「正長」へ

将軍後継ぎ問題で落ち着かない状況から幕政を一新させたいという義教の思いから、長く続いた「応永」に終止符を打ち新しい元号「正長」に改められました。

史上3番目に長い元号「応永」

室町時代の元号「応永」は実は歴代3番目に長い元号。1位は「昭和」で64年、2位は「明治」で45年、その次3位がまさかの「応永」で35年。江戸時代以前の元号はあまり長く使われものではありませんでした。天皇が変わるたびに元号も変えるというルールになったのも明治以降。それまでは天皇の即位云々には関係なく、何かしらのイベントにつけて話し合いの上、元号が変更されていました。

飢饉が発生し、縁起が悪いから元号を変更する。そんな具合です。そんな中で35年間同じ元号が使われていたのは異例。天皇が変わっても将軍が変わっても、義満時代の「応永」は引き継がれたのです。4代将軍義持、実は義満と仲が悪かったそうですが、それでも元号は引き継いだのだとか。

4.就任したからには全力投球~義教の政策~

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くじ引きで決まった将軍。自分の意志ではないし、推薦されたわけでもない。そういってバカにされないよう、義教は「将軍になった限り全力投球」。やり手の将軍となっていきます。

義教の政策を見てきましょう。

義満の政策を手本に

義満の時代幕府の権力は強かった。しかしその後、義持の時代になり幕府の権力は弱まっていきました。義満と不仲だった義持は、反発心からか義満の政策を変えていたのです。

義教は、義満時代の政策を復活させることで幕府権威の復興を目指しました。

日明貿易復活

義満が必死の思いで明との国交を開き始まった「日明貿易(勘合貿易)」ですが、4代義持の時代に一旦中断されていました。義教はこの日明貿易を復活させます。

兵庫に赴き、自ら遣明船の視察に行きました。やる気満々ですね。

将軍の決定権強める~御前沙汰の権威強化~

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室町時代、将軍が主宰する非公式会議「御前沙汰」が存在しました。ポイントは「非公式」である点。出席者の選定に決まりがなく、主宰者である将軍の意見が反映されやすい会議。本来、このような会議で決められることは限られていて、重要な決定は出来ませんでした。

しかし、義教はこの「将軍の独壇場」ともいえる御前沙汰での決定権限を広げました。かくして独裁の風潮が強まっていきます。

\次のページで「御前沙汰の権限拡大」を解説!/

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