日本初の武士中心の武家政権は鎌倉幕府だと思われがちですが、実は、「平清盛」率いる平氏政権の方が先だったのは知ってるか?

今回はその「平氏政権」の成立から滅亡までを、歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。平氏は源氏のライバルとして描写されるため詳しくなった。

1.平氏政権誕生前、伊勢平氏の隆盛

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平清盛を生んだ伊勢平氏

のちに平清盛を排出する「伊勢平氏」。これは読んで字のごとく、伊勢(三重県)を拠点とした平氏の一族の人々のことを指します。

しかし、彼らが「伊勢平氏」と呼ばれる前は関東を拠点としていた「桓武平氏」でした。こちらの平氏の前につく「桓武」は地名ではなく、「桓武天皇」のこと。つまり、桓武天皇の子孫が臣籍降下して「平」の姓を賜り、そこから続いた一族ということですね。

ちょっと大雑把ですが、「天皇+源氏」がどの天皇の血筋かを表し、「地名+源氏」はどこに武士団の拠点を置いたかを表していると考えてください。

では、なぜ関東の「桓武平氏」の一員が伊勢へと移動したのでしょうか?

河内源氏の関東進出

当時の関東は「平将門の乱」の少しあと。関東の軍事貴族として桓武平氏の一族が地盤を再び固めていました。

ところが、河内国(大阪府の一部)を拠点としていた清和源氏の一党「河内源氏」の源頼信が「平忠常の乱(長元の乱)」を治めた際に鎌倉に自分の勢力を置き、どんどん勢力を拡大していきました。そしてそのうちに、桓武平氏をも家人として従わせるほどにまで成長していったのです。

この時勢に逆らったのが、「平将門の乱」を平定したひとり、平貞盛の四男・平維衡(たいらのやすひら)でした。

河内源氏と武門の双璧となる伊勢平氏

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伊勢国へ移動した平維衡の一族たち。彼らはそこで朝廷や上流貴族に仕える軍事貴族となり、ついには、自分たちを関東から追い出した河内源氏と対をなす武門となりました。しかし、藤原摂関家に仕え、血筋も良い源氏に伊勢平氏はどうしても見劣りしてしまいます。

どうすれば河内源氏に追いつけるだろうか、と考えた伊勢平氏たち。河内源氏は藤原摂関家を後ろ盾にどんどん関東へ手を伸ばしていきます。もはや、故郷とはいえ関東に勢力を取り戻すことはできません。

ここで伊勢平氏が目を付けたのが、瀬戸内海や九州といった西国です。伊勢平氏は西の国々の国司を歴任して勢力を拡大していきました。

そこへきて摂関家の弱体化が起こり、さらに関東で「後三年の役」、そして源氏内での紛争と続き、徐々に河内源氏と伊勢平氏の立場が逆転していったのです。

そして、「平清盛」が生まれるころになると、ライバルだったにもかかわらず天と地ほどの差が開いていました。

2.平清盛の大出世と平氏政権の樹立

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源姓の人々を源氏、藤原姓の人なら藤原氏といいます。これに従うと、もちろん平清盛も「平氏」と呼ばれるわけですが、彼の一族だけは特別に「平家」と呼びました。

\次のページで「平清盛のスピード大出世」を解説!/

平清盛のスピード大出世

白河法皇が組織した直属軍「北面武士」のひとり、平忠盛。その息子が平清盛です。「北面武士」はいわゆるエリート武士でしたが、それでも武士の息子だった平清盛が貴族たちを追い越し、歴史に名を残す人物となったのはどうしてでしょうか?

その第一歩となったのが、1156年の「保元の乱」でした。この戦いで勝利した平清盛は後白河天皇の信頼を得て出世コースに乗ったのです。さらに四年後の「平治の乱」も勝利し、ふたつの乱は平家の立場を引き上げるきっかけとなりました。

また、「保元の乱」ではこれまで平氏とライバル関係にあった源氏の源為義が、「平治の乱」ではその息子・源義朝が処刑されています。これによって、平清盛と肩を並べられるような武士はいなくなってしまったのです。

都の武士団は平家一強、要するに、平清盛のもとに日本の警察権や軍事権が集中する結果となったのでした。

日宋貿易で跳ね上がった資産

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894年に菅原道真が遣唐使を廃止して以来、日本と大陸間では国家レベルの交流はありません。しかし、九州の大宰府の統制のもとで民間レベルの貿易は行われていたのです。

そして、960年に成立した「宋」とも民間貿易は続けられていました。平清盛の父・平忠盛にいたっては、宋との貿易で得た舶来品を白河法皇に進呈したことで近臣として認められるようになったこともあります。

平清盛も父の手腕を見習ったのでしょう。彼もまた宋との貿易を大輪田泊(現在の神戸)を改修して行い、莫大な経済力を手に入れたのです。

ふたりの上司に上手に仕える

「平治の乱」により、それまで対立していた二条天皇と後白河上皇は重臣を失い、お互いに歩み寄らざるを得ない状況にありました。そこに平清盛の大出世で、たとえ天皇であっても平清盛は決して無視できない存在となったのです。

そんな平清盛自身は、妻の平時子が二条天皇の乳母となったため、連動して彼も二条天皇の乳父(後見役)に。その一方で、後白河上皇の院庁の別当(長官)にもなるという絶妙なバランスで二条天皇と後白河上皇の両方に仕えていました。

\次のページで「武士として初の太政大臣任命」を解説!/

武士として初の太政大臣任命

二条天皇の崩御後に六条天皇即位を挟んだあとの1168年、後白河上皇と平滋子の息子「高倉天皇」が即位することとなりました。平滋子は、平清盛の妻・平時子の異母妹で、すると、その子の高倉天皇は平清盛の甥にあたります。

即位時の高倉天皇はわずか8歳。もちろん、8歳の子どもに政治はできませんから、ここは父親の後白河院が「院政」を敷くことになりました。

このときの後白河院の院政下で、平清盛は武士として初の「太政大臣」に任命されています。「太政大臣」は現在で言うところの内閣総理大臣レベルの最高職です。ただし、そうは言いながらもこの時期の太政大臣は実権のない名誉職でしたから、平清盛は三ヶ月ほどで辞任しました。

野望はまだまだ終わらない

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甥っ子が天皇になっただけで終わらないのが平清盛です。即位から四年後、平清盛は自分の娘・平徳子を高倉天皇の中宮として入内させると、1178年に平清盛を外祖父とする安徳天皇が生まれました。

平清盛と後白河院が政治的対立をするようになったのは、安徳天皇誕生の翌年のこと。平清盛が軍勢を率いて後白河院の院政を停止させて幽閉する「治承三年の政変」が起こります。

後白河院との関係悪化

これまでの藤原氏に成り代わるように権勢を振るう平清盛を面白く思わない人々がいました。「鹿ヶ谷の陰謀」は、そんな面々が集まって鹿ヶ谷で行った平家打倒の密談です。その筆頭は後白河院そのひと。他のメンバーは、後白河院の側近の藤原成親や俊寛らでした。

けれど、密談は平清盛の耳に入ることとなり、彼らは流罪となってしまいます。側近を手放さなければならない後白河院は当然、面白くありません。安徳天皇誕生後も、その周囲を完全に平家や平家に近い貴族たちで固められて幼い皇太子へ影響を与えることは許されませんでした。

さらに後白河院が、平清盛の娘・平盛子が夫から相続した摂関家領を、彼女の死後に自らの管理下に置いたり、亡くなった長男・平重盛の知行国を没収するなど平家へ圧力をかけていきます。この時代、土地は何よりも大切な財産でしたから、それを没収したとなれば、もはや両者の関係改善は望めませんね。

不満を募らせた平清盛は1179年に「治承三年の政変」というクーデターを起こしたのです。

政変後の人事異動

後白河院の院政を停止させた平清盛は、手始めに人事に手を付けます。従来の貴族たちが次々と解任され、平氏の一族や、平清盛たちを支持する親平氏派の貴族によって朝廷や地方の人事が固められていきました。これで中央、地方ともに平氏の天下となったわけです。

さらに、数ヶ月後には安徳天皇が即位し、高倉天皇の院政が開始されることになりました。

3.平氏政権の終幕、源平合戦

平氏の傀儡政権

1歳の安徳天皇が即位し、それによって引退した高倉上皇の院政が始まることとなりました。しかし、「治承三年の政変」によって成立した政権だけに、誰がどう見ても高倉上皇の院政は平清盛らによる傀儡政権にしか見えません。

水面下で平清盛や平家に対する反発は高まり、多くの対抗勢力が誕生する結果となったのです。

\次のページで「打倒平家!以仁王の挙兵」を解説!/

打倒平家!以仁王の挙兵

最初に声を上げたのは後白河院の第三皇子「以仁王(もちひとおう)」でした。以仁王は平氏追討の令旨を発し、かつて平家に追われた源氏の生き残りたちに呼びかけます。すぐさま呼応した源頼政とともに挙兵しますが、迅速に対応した平清盛によって打ち取られてしまいました。

けれど、亡き以仁王の令旨は木曽の源義仲や、鎌倉の源頼朝に届き、さらには興福寺など有力な寺院までも反平家勢力に与することになったのです。

富士川の戦いでの敗戦

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盛り上がる反平家勢力を抑えるべく、平清盛の孫・平維盛は武田信義(甲斐源氏)と源頼朝らの追討のため、富士川(富士市)で合戦となりました。

『平家物語』には平維盛は七万もの大軍を引き連れていた、とありますが、実際には四千ほど。しかも、飢饉のせいで兵士たちは空腹のままです。軍の士気は非常に低く、逃亡者に投降者が続出し、結局は二千の兵で武田信義と源頼朝たちの大軍と戦うことになりました。

結局、平維盛は撤退を余儀なくされるのですが、このとき、水鳥が一斉に飛び立つ羽音に驚いて平家軍が大混乱に陥った、という有名な逸話が残されています。

福原へ遷都……したかったんだけど

平安京周辺の有力寺院が敵に回ることになれば、このまま都にいるのは平家にとっては地理的にも不利でした。そこで、平清盛は自ら整備した大輪田泊の隣地であり、彼の拠点としていた福原に都を移そうと計画したのです。

しかし、意外にも高倉上皇が反対し、他の貴族たちからも強い不評の声が上がって計画は頓挫してしまいます。

平家に大打撃を与える清盛の死

ほとんど平清盛の傀儡政権として運営されていた高倉院政でしたが、1181年にかねてより体調悪化で臥せっていた高倉上皇が崩御してしまいます。

このとき、安徳天皇はまだ3歳ほど。まだまだ政治を行えませんし、子どももいないため引退して院政を敷くこともできません。そのため、後白河院が院政を再開することとなります。

一方、平清盛は都の富裕層から兵糧を徴収したり、水軍などの人員を集めて反平家勢力に対抗すべく行動していました。しかし、それがかなう前に平清盛は熱病にかかって亡くなってしまいます。

平清盛の跡継ぎとして三男の平宗盛がいましたが、長い間、平氏政権の頭脳として働き続けた彼を失ったことは、平家にとってとてつもない大打撃でした。

平家の都落ち

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平清盛を失くした平家は、平宗盛指導のもと後白河院との融和へと方針転換を行おうとします。しかし、このタイミングを狙ったかのように木曽の源義仲が進軍を開始し、平家の軍は壊滅させられてしまいました。

平家は安徳天皇を連れ出し、三種の神器を持って都落ちせざるを得なくなったのです。

その後はみなさんご存知の通り、源平合戦の本格的な開始となり、平家は壇ノ浦の戦いにて滅亡。ここに25年続いた平氏政権が終わりを迎えたのでした。

日本史上初の武家政権

のちに開かれる源頼朝の鎌倉幕府が日本初の武家政権と思われますが、「武士」という性格の上では平家の平氏政権のほうが先輩でした。大きく違うのは、平氏政権は平安京や天皇から政治を切り離さず、貴族たちの中で形成されたことです。

貴族社会と切り離さず、そのなかで権勢を振るった平清盛。その影響は大きく、ついには天皇の外祖父となって朝廷を牛耳るにまでいたります。しかし、彼の存在が大きすぎたために、平清盛の死は「平氏政権」の衰退を招くことになったのです。

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平安時代日本史歴史

武家政権の始まり「平氏政権」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

日本初の武士中心の武家政権は鎌倉幕府だと思われがちですが、実は、「平清盛」率いる平氏政権の方が先だったのは知ってるか?

今回はその「平氏政権」の成立から滅亡までを、歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。平氏は源氏のライバルとして描写されるため詳しくなった。

1.平氏政権誕生前、伊勢平氏の隆盛

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平清盛を生んだ伊勢平氏

のちに平清盛を排出する「伊勢平氏」。これは読んで字のごとく、伊勢(三重県)を拠点とした平氏の一族の人々のことを指します。

しかし、彼らが「伊勢平氏」と呼ばれる前は関東を拠点としていた「桓武平氏」でした。こちらの平氏の前につく「桓武」は地名ではなく、「桓武天皇」のこと。つまり、桓武天皇の子孫が臣籍降下して「平」の姓を賜り、そこから続いた一族ということですね。

ちょっと大雑把ですが、「天皇+源氏」がどの天皇の血筋かを表し、「地名+源氏」はどこに武士団の拠点を置いたかを表していると考えてください。

では、なぜ関東の「桓武平氏」の一員が伊勢へと移動したのでしょうか?

河内源氏の関東進出

当時の関東は「平将門の乱」の少しあと。関東の軍事貴族として桓武平氏の一族が地盤を再び固めていました。

ところが、河内国(大阪府の一部)を拠点としていた清和源氏の一党「河内源氏」の源頼信が「平忠常の乱(長元の乱)」を治めた際に鎌倉に自分の勢力を置き、どんどん勢力を拡大していきました。そしてそのうちに、桓武平氏をも家人として従わせるほどにまで成長していったのです。

この時勢に逆らったのが、「平将門の乱」を平定したひとり、平貞盛の四男・平維衡(たいらのやすひら)でした。

河内源氏と武門の双璧となる伊勢平氏

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伊勢国へ移動した平維衡の一族たち。彼らはそこで朝廷や上流貴族に仕える軍事貴族となり、ついには、自分たちを関東から追い出した河内源氏と対をなす武門となりました。しかし、藤原摂関家に仕え、血筋も良い源氏に伊勢平氏はどうしても見劣りしてしまいます。

どうすれば河内源氏に追いつけるだろうか、と考えた伊勢平氏たち。河内源氏は藤原摂関家を後ろ盾にどんどん関東へ手を伸ばしていきます。もはや、故郷とはいえ関東に勢力を取り戻すことはできません。

ここで伊勢平氏が目を付けたのが、瀬戸内海や九州といった西国です。伊勢平氏は西の国々の国司を歴任して勢力を拡大していきました。

そこへきて摂関家の弱体化が起こり、さらに関東で「後三年の役」、そして源氏内での紛争と続き、徐々に河内源氏と伊勢平氏の立場が逆転していったのです。

そして、「平清盛」が生まれるころになると、ライバルだったにもかかわらず天と地ほどの差が開いていました。

2.平清盛の大出世と平氏政権の樹立

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源姓の人々を源氏、藤原姓の人なら藤原氏といいます。これに従うと、もちろん平清盛も「平氏」と呼ばれるわけですが、彼の一族だけは特別に「平家」と呼びました。

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