平清盛から始まり、徳川幕府まで武士が頂点に立った政権を「武家政権」というんですが、そもそもなんで「武士」なんて職業ができたんでしょうな?

今回は武士のはじまりから武家政権の成立、そして滅亡までを歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。今回は武士についてさらに深く勉強し、わかりやすくまとめた。

1.武士のはじまり

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平安時代末の平清盛からはじまり、江戸時代最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たすまで、およそ700年間続いた「武家政権」。では、その「武士」たちはいったいどこから発生したのでしょうか?

残念ながら武士の起源はこれだと断言できる歴史書はありません。そのためいくつか説があるのですが、ここでは政権を取るにいたった武士たちに絞って解説していきます。

桓武天皇の軍隊廃止

さかのぼること1200年、平安時代初期。積極的に政治改革に努めた桓武天皇は、崩れかけた律令制を再建するため「冗官整理の詔」を発することにしました。この詔によって国庫の節約や、力を持ちすぎた寺院の造営を廃止します。

当時、民衆の最も重い負担は兵役でした。軍隊を指揮するのは職業軍人ですが、その下で働くのは徴集された農民です。兵役の間、もしどこかで戦いが起これば行って戦わなければなりません。運悪くいのちを落とすこともありました。

そこで桓武天皇は、792年に「健児制」を採用して、陸奥、出羽、佐渡、西海道諸国など外国の脅威がある要所を除く諸国の軍隊を廃止してしまいます。

「健児制」は、地方官や農民の子弟のなかから武芸に秀でたものを選抜した「健児」を集めて各国の要所や国庫の守備に当たらせる制度です。健児制のおかげで、普通の農民たちは兵役に行かず、農業に専念することができるようになりました。

けれど、健児制のみで十分だったかと言えば、まったくそうではありません。健児たちは警察ではないのですから、個人同士の諍いはもとより、大規模な反乱にも対応できる戦力ではありませんでした。抑止力となる軍隊はなく、実質、日本は無政府状態となったわけです。

土地を守る武士団

都では検非違使(当時の警察)が設立され、治安回復と維持がはかられましたが、地方では土地をめぐる争いが絶えませんでした。

地方で争うのは、なにもその土地の人々だけではありません。たとえば、898年に上総介に任命されて上総国(千葉県)へやってきた桓武平氏の平高望(たいらのたかもち)は、息子たちとともに土地開発をして勢力の拡大をはかっていました。その土地の利益を守るため、彼らは戦えるものたちを集めて「武士団」を形成していったのです。

あるいは、関東に発生した大規模な盗賊たちの討伐に駆り出され、名前を上げた藤原為憲や藤原秀郷、源経基ら。彼らはその功績で得た経済基盤によって軍事力を維持していったのです。

軍事力や武士団を維持し、戦いに特化していった彼らの子孫たちは、やがて軍事貴族として認知されるようになっていきました。

2.平家による平氏政権

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ここからは、源氏の衰退と平氏政権について見ていきましょう。

平氏のライバル・源氏の衰退

平安時代、朝廷で強い権力を持ち、摂関家として大きな力を持っていた藤原氏。その藤原氏を後ろ盾にし、自らも臣籍降下した元皇族の末えいという血筋の源氏。都で文官として暮らしていた平氏は藤原氏に、関東で武士として暮らしていた平氏は源氏にそれぞれ押される立場となっていました。

そんななか、関東の平氏の一部は伊勢(三重県)へ移動し、そこで彼らは朝廷や上流貴族に仕える軍事貴族となる道を選びます。最初こそ源氏に見劣りしていたものの、伊勢平氏たちは瀬戸内海や九州など西の国々の国司を歴任し、徐々に勢力を強めていったのです。

一方、関東に勢力を拡大していた源氏に陰りが。それは、陸奥国と出羽国(東北地方)で起こった「後三年の役」に始まりました。この戦役は平定したものの、朝廷からの賞与はなく、さらに一族内でのもめごとが抗争に発展。有力な源氏の後継者たちが次々と暗殺され、武門としての力はどんどん衰えていきました。

\次のページで「藤原摂関家の弱体化」を解説!/

藤原摂関家の弱体化

また、それまで朝廷を牛耳っていた藤原氏にも変化が起こりました。平安時代後期になって、約170年ぶりに藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位したのです。後三条天皇は「荘園整理令」を発して藤原氏の財政基盤だった荘園を没収して弱体化させ(延久の善政)、さらに朝廷に中流貴族を登用することで藤原氏の役職を削っていきます。

そして、後三条天皇の後継者となったのが白河天皇です。白河天皇の母は藤原姓の女性でしたが、藤原摂関家との直接の関わりはありません。父の遺志を継いだ白河天皇もまた藤原氏の勢力を削ることに力を注ぎ、ついには自ら政治を行う院政を敷いて摂関家を押さえつけました。

時勢は平家の天下へ

藤原氏と源氏に変わって朝廷に入ったのが平清盛率いる平氏でした。平清盛の出世の第一歩となったのが、朝廷の内紛に起因する「保元の乱」です。彼はここで後白河天皇の信頼を得ると、続く四年後の「平治の乱」も勝利し、朝廷における平家の立場をうなぎ登りにあげていきます。

一方、源氏はふたつの乱で有力者を処刑され、少年だった源頼朝や源義仲らは地方へ配流されて散り散りとなりました。そうして、都イチの武士団となった平家は日本の警察権と軍事権を握る巨大な武家となったのです。

平氏政権、どこまで上り詰める?

平清盛は武士初の太政大臣(現在の内閣総理大臣。ただし、この時期は実権のない名誉職)になったり、娘を天皇家に入内させて平氏の血を引く天皇を誕生させます。この道筋は、それまで藤原氏が行ってきたのと同じですね。平清盛は既存のシステムの中に武家の人間を新たに加えたのです。

藤原氏と平家の違いは、武力に大きく基盤を置いていたことでしょう。平氏は独自の軍事制度「畿内惣官職」をつくったとされています。

しかし、平氏政権は約20年とあまり長くはありません。平家が朝廷を支配するようになると、押さえつけられていた皇族が平家追討の令旨を出し、源氏たちが立ち上がります。そうして、源平合戦(治承・寿永の乱)で平家が滅び、平氏政権の幕が下りたのでした。

3.鎌倉幕府と封建制度

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平家を滅亡させた源頼朝。彼が鎌倉に幕府を開いたことによって鎌倉時代が到来します。語呂合わせは「1185(イイハコ)つくろう 鎌倉幕府」ですね。

守護・地頭の設置で支配権獲得

1185年、朝廷は源頼朝に、諸国への守護や地頭の設置を許可する「文治の勅許」を発します。ここでいう「地頭」とは、荘園ごとの租税徴収と軍役を行う武士の責任者。「守護」は、国ごとの武士の責任者で地頭の監督者です。「文治の勅許」によって源頼朝は実質的な支配権を得たのでした。

鎌倉幕府と御家人の封建制度

旧来の天皇と貴族による支配から脱却した鎌倉幕府のトップは「将軍」、その次が「執権」ですね。そこに御家人(武士)たちが仕えるという形でした。

当時の御家人の主な収入源は、自分の所領から上がる税金です。肝心の土地は将軍から与えられ、また、将軍によって権利を守られるものでした。土地を与えられた恩と、それに報いる奉公を行うという「ご恩と奉公」の関係で両者は強く結ばれ、また、御家人たちが将軍のもとで土地を統治する仕組みを「封建制度」といいました。

\次のページで「執権・北条家の台頭」を解説!/

執権・北条家の台頭

源頼朝の妻・北条政子の出身、北条家が「執権」に就任したのは源頼朝の孫で三代目将軍源実朝の代。事実上の鎌倉幕府最高職となったのは二代目執権の北条義時でした。

なぜ執権が幕府のトップになったでしょうか?実は、源頼朝の血筋は孫の代で途絶えてしまいます。存続の危機に陥った幕府を救うため、北条義時は源頼朝の遠縁にあたる摂関家の藤原頼経を将軍にしたのです。

このとき藤原頼経はたったの二歳。北条義時は幼い藤原頼経に代わって政治の主導を握ったため、執権が鎌倉幕府における事実上の最高職となったのでした。

鎌倉幕府の全国統一

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藤原頼経を将軍にして存続を続けようとする鎌倉幕府。しかし、幕府を快く思っていなかった後鳥羽上皇は、北条義時追討の院宣を下して幕府を倒してしまおうとしたのです。

こうして起こったのが1221年の「承久の乱」でした。しかし、乱は幕府の勝利に終わります。敗北した後鳥羽上皇は隠岐島へと配流となり、京都の六波羅には朝廷を監視するための六波羅探題ができました。また、朝廷に勝利したことにより、幕府は支配権をさらに広げ、武家政権初の全国統一を成し遂げたのです。

元寇から鎌倉幕府滅亡へ

鎌倉時代後期、幕府を揺るがす「元寇」が起こりました。幸運なことに、二度にわたる元(モンゴル帝国)の日本侵攻は台風の影響もあり、幕府は防衛に成功します。

しかし、元寇を発端に多くの御家人たちが経済難に陥り、鎌倉幕府への不満が積み上がってしまったのです。その不満が後醍醐天皇の倒幕へと結びつくと、足利尊氏らの活躍によって鎌倉幕府は滅ぼされてしまいました。

4.室町幕府から江戸幕府へ

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ここからは、室町幕府から江戸幕府への流れを見ていきます。

室町時代と同時スタートの南北朝時代

鎌倉幕府を打ち倒した後醍醐天皇でしたが、今度は幕府と戦った武士たちを蔑ろにしてしまったため、足利尊氏と対立することになったのです。

足利尊氏は京都で室町幕府を創始するため、後醍醐天皇とは別に光明天皇に即位してもらいます。これで室町幕府が成立し、室町時代の開始となるわけですが、後醍醐天皇が新しい天皇を認めませんでした。そこで後醍醐天皇は京都を出て、奈良の吉野で政治を続けることにします。こうして、ふたつの朝廷が両立する南北朝時代が、室町時代と一緒にスタートするのでした。

経済力と支配力を兼ね揃えた守護大名

室町幕府の仕組みは鎌倉幕府と大きくは違いません。けれど、地方は鎌倉幕府の守護の制度を継承した「守護大名」がそれぞれの領地を治めていました。

鎌倉時代と違い、守護大名たちの経済力と支配力はとても強く、その権能は時代を経るごとに肥大化していきます。応仁の乱のあとにもなると、守護大名たちはとうとう幕府の言うことをロクに聞かなくなってしまいました。

群雄割拠の戦国時代

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室町幕府自体は1573年まで続きます。しかし、各地では守護大名が勝手に振る舞うようになり、さらには実力で守護大名になるものまで現れるようになるという事態に。そして、尾張国の織田信長が将軍・足利義照を追放して室町幕府を滅ぼすと、いよいよ戦国時代の到来となったのです。

安土桃山時代の武家政権

安土桃山時代には、織田信長が中央集権の基礎となる織田政権を築きました。しかし、ご存知の通り、明智光秀による「本能寺の変」によって織田信長が非業の死を遂げるため、長くは続きません。

その後を継いだのは、織田信長の家臣だった豊臣秀吉です。彼は刀狩りなどで農民から武力を取り上げる一方、自身は関白宣下を受けて、天皇の侍大将となりました。これは豊臣秀吉が朝廷から政治を委任された実力者だと認められたことを意味します。

江戸幕府の成立

豊臣秀吉の死により、再び荒れることとなった日本。1600年の「関ヶ原の戦い」で徳川家康率いる東軍が勝利して、ようやく乱世が終わりとなりました。徳川家康が江戸に幕府を開いて始まった江戸時代は、武家政権のなかで最も長い264年に渡って続くことになります。

また、「禁中並公家諸法度」で朝廷の行動を制約、統制したのです。さらに地方へは「藩」を置いて国家の安定をはかりました。

波乱の幕末から武家政権の終わりへ

江戸時代末期ごろ、鎖国していた日本にヨーロッパ諸国やアメリカから開国と貿易を求めて船がやってくるようになりました。折しも、日本は天皇を貴ぶ尊王思想へと傾いていた時期です。江戸幕府が浦賀に来航したアメリカのペリーからフィルモア大統領の親書を受け取ると、幕府への不満はより一層積もりました。

世間では倒幕運動が盛んになり、情勢はどんどん不安定になっていきます。そんななか、十五代将軍徳川慶喜が「大政奉還」を行って政権を朝廷に返したことで、江戸幕府、並びに武家政権は終わりを迎えたのでした。

長い歴史を持つ武家政権

武力を持つことで土地や貴人を守り、勢力を拡大した平安時代の武士たち。やがて朝廷から政治を切り離し、自分たちで国を動かすようになりました。その支配は長く、すべて合わせるとなんと約700年にも及びます。

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平安時代日本史歴史鎌倉時代

武家政権はいつから始まった?およそ700年の歴史を歴史オタクが簡単にわかりやすく解説

平清盛から始まり、徳川幕府まで武士が頂点に立った政権を「武家政権」というんですが、そもそもなんで「武士」なんて職業ができたんでしょうな?

今回は武士のはじまりから武家政権の成立、そして滅亡までを歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。今回は武士についてさらに深く勉強し、わかりやすくまとめた。

1.武士のはじまり

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平安時代末の平清盛からはじまり、江戸時代最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たすまで、およそ700年間続いた「武家政権」。では、その「武士」たちはいったいどこから発生したのでしょうか?

残念ながら武士の起源はこれだと断言できる歴史書はありません。そのためいくつか説があるのですが、ここでは政権を取るにいたった武士たちに絞って解説していきます。

桓武天皇の軍隊廃止

さかのぼること1200年、平安時代初期。積極的に政治改革に努めた桓武天皇は、崩れかけた律令制を再建するため「冗官整理の詔」を発することにしました。この詔によって国庫の節約や、力を持ちすぎた寺院の造営を廃止します。

当時、民衆の最も重い負担は兵役でした。軍隊を指揮するのは職業軍人ですが、その下で働くのは徴集された農民です。兵役の間、もしどこかで戦いが起これば行って戦わなければなりません。運悪くいのちを落とすこともありました。

そこで桓武天皇は、792年に「健児制」を採用して、陸奥、出羽、佐渡、西海道諸国など外国の脅威がある要所を除く諸国の軍隊を廃止してしまいます。

「健児制」は、地方官や農民の子弟のなかから武芸に秀でたものを選抜した「健児」を集めて各国の要所や国庫の守備に当たらせる制度です。健児制のおかげで、普通の農民たちは兵役に行かず、農業に専念することができるようになりました。

けれど、健児制のみで十分だったかと言えば、まったくそうではありません。健児たちは警察ではないのですから、個人同士の諍いはもとより、大規模な反乱にも対応できる戦力ではありませんでした。抑止力となる軍隊はなく、実質、日本は無政府状態となったわけです。

土地を守る武士団

都では検非違使(当時の警察)が設立され、治安回復と維持がはかられましたが、地方では土地をめぐる争いが絶えませんでした。

地方で争うのは、なにもその土地の人々だけではありません。たとえば、898年に上総介に任命されて上総国(千葉県)へやってきた桓武平氏の平高望(たいらのたかもち)は、息子たちとともに土地開発をして勢力の拡大をはかっていました。その土地の利益を守るため、彼らは戦えるものたちを集めて「武士団」を形成していったのです。

あるいは、関東に発生した大規模な盗賊たちの討伐に駆り出され、名前を上げた藤原為憲や藤原秀郷、源経基ら。彼らはその功績で得た経済基盤によって軍事力を維持していったのです。

軍事力や武士団を維持し、戦いに特化していった彼らの子孫たちは、やがて軍事貴族として認知されるようになっていきました。

2.平家による平氏政権

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ここからは、源氏の衰退と平氏政権について見ていきましょう。

平氏のライバル・源氏の衰退

平安時代、朝廷で強い権力を持ち、摂関家として大きな力を持っていた藤原氏。その藤原氏を後ろ盾にし、自らも臣籍降下した元皇族の末えいという血筋の源氏。都で文官として暮らしていた平氏は藤原氏に、関東で武士として暮らしていた平氏は源氏にそれぞれ押される立場となっていました。

そんななか、関東の平氏の一部は伊勢(三重県)へ移動し、そこで彼らは朝廷や上流貴族に仕える軍事貴族となる道を選びます。最初こそ源氏に見劣りしていたものの、伊勢平氏たちは瀬戸内海や九州など西の国々の国司を歴任し、徐々に勢力を強めていったのです。

一方、関東に勢力を拡大していた源氏に陰りが。それは、陸奥国と出羽国(東北地方)で起こった「後三年の役」に始まりました。この戦役は平定したものの、朝廷からの賞与はなく、さらに一族内でのもめごとが抗争に発展。有力な源氏の後継者たちが次々と暗殺され、武門としての力はどんどん衰えていきました。

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