幕末日本史歴史江戸時代

幕末の雄藩を作った諸藩の財政「藩政改革」この政治再建を歴女がわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ、今回は藩政改革を取り上げるぞ。江戸時代にそれぞれの藩が行った改革だということくらいは知っているが、どんなことだったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、藩政改革について5分でわかるようにまとめた。

1-1、藩政改革(はんせいかいかく)とは

江戸時代の幕藩体制での各藩が、それぞれの行政、財政の再建のために行った政治、経済、人事などの改革のこと。特に天保時代にこの改革で経済体制を立て直して藩財政を好転させ、身分に関係なく有能な人材を登用した藩は、幕末に雄藩と言われて大きな影響力を持つようになり、討幕運動の原動力となったことは重要なポイントに。

1-2、藩政改革の発端

江戸時代の幕藩領主の財政は基本的に米経済であり、百姓の年貢が藩のほとんどの収入だったということ。しかし、参勤交代での江戸と領国での二重生活、幕府からの御手伝い普請などによる膨大な出費、貨幣経済が発達する一方、米価は下落傾向にあるうえに、領国での自然災害や飢饉、また江戸藩邸の焼失などでの臨時の出費のほか、平和な世の中が続き生活が向上し、物価も上昇しているのに、江戸時代初期に決められた石高(収入)だけということで、藩は江戸時代初期から絶えず財政の赤字に悩まされることに。

というわけで、藩政改革は、真っ先に倹約令を行い、次いで江戸、京都、大坂の大商人への借金で財政窮迫を乗り切っていたが、そのうちに藩財政は破綻せざるを得ないほどひどくなったということ。

また藩政に参加できる上級の家臣は世襲制で、前例主義で適性に欠ける者が多く、財政悪化を止められるような策を出せる者はおらず、またそういう人物が高禄を食み財政難の原因にも。

ということで藩政改革では、身分制での雇用という政治慣習を破って、身分が低くても能力のある者を取り立てて改革の責任者に任じ、政治的な権限を与えたということ。

1-3、藩政改革の政策

藩政改革はまず財政の立て直しが行われることが多く、倹約で支出の引き締めを行い、検見の強化、検地の実施などで年貢増徴をはかり、江戸、京都、大坂などの大商人からの借金、新田開発、鉱山開発、藩内商人などから御用金徴収での財政収入、また家臣の禄を事実上減らす「半知借上」などの対策が行われたが、一時しのぎに過ぎず、藩政危機を深刻化させる一方であったということ。

1-4、米以外に目を向けた特産物の増産、商売

江戸中期以降の藩政改革では,商品経済の発展に順応して、殖産興業政策と藩専売の強化が行われるように。幕末には、国産会所を設けて藩が商品流通を独占したということ。特産品とは、薩摩藩の樟脳、黒砂糖、土佐藩の紙、長州藩の紙、蝋、阿波徳島藩の藍、姫路藩の木綿、赤穂藩の塩、信州上田藩の絹織物など。

1-5、藩校の設置

人材登用の一環として、身分にこだわらず優秀な人材を育成し、藩政を運営させる目的で藩校での勉学が奨励されることに。そして幕末にはほとんどの藩に藩校が作られ、文武の教育が熱心に行われたそう。

なかでも肥前佐賀藩では、藩士全員に大学教育を行って、試験に合格しないものは家禄を8割没収など罰を与えるほど厳しかったということ。また、肥後細川藩や大野藩なども身分を問わず人材を求め、藩によっては蘭学を教えて医学館を設置した藩もあるということ。姫路藩では改革者の河合道臣が私学を開いて次世代の人材育成に努めたそう。

1-6、密貿易、貨幣偽造など

これは海に面したり、長崎が近かったりという地理的な面もありますが、薩摩藩は奄美三島をほとんど植民地のように摂取して黒砂糖を生産し、琉球を介して中国清国と貿易しただけでなく、密貿易で利益を上げたことは周知の事実。

また同様に九州肥前で長崎警護の任もあった肥前佐賀藩も、証拠はないものの密貿易で利益を上げた疑いがあるということ。

薩摩藩では贋金つくりも行われて、幕府への献金で黙認の元に莫大な利益を得たそう。

2-1、主な藩政改革の成功例

有名な藩政改革で成功した例をご紹介しますね。

2-2、米沢藩

image by PIXTA / 51107011

明和4年(1767年)、日向高鍋藩主秋月種美の次男で養嗣子の上杉治憲(鷹山ようざん)が藩主となり、領地返上寸前の米沢藩を再生。鷹山が藩主在職中、奉行筆頭竹俣当綱を中心として施行するが失敗、隠居後の藩政後見中に中老(後に奉行)莅戸善政を中心とした改革が成功。

それまでの藩主が1500両だった江戸での生活費を209両余りに減額、奥女中を50人から9人に激減などの倹約を行ったが、幕臣への賄賂が捻出できずに江戸城西丸の普請手伝いが免れなくて多額の出費が生じたそう。天明の大飢饉で東北地方を中心に餓死者が多発時には鷹山は非常食の普及、藩士、農民へ倹約の奨励など対策に努めて、鷹山自らも粥を食べて倹約したということ。

また閉鎖されていた学問所を藩校興譲館として再興、身分を問わず学問を学ぶ場にしたということ。そして破綻寸前の藩財政は立ち直りをみせて、鷹山の次々代の斉定時代に借債を完済。

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