日本史歴史江戸時代

天保の改革をおこなった老中「水野忠邦」を歴女がわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ、今回は水野忠邦を取り上げるぞ。天保の改革をおこなった老中だったっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、水野忠邦について5分でわかるようにまとめた。

1-1、水野忠邦は江戸の生まれ

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水野忠邦(ただくに)は、寛政6年(1794年)、肥前唐津藩3代藩主水野忠光の次男として江戸の唐津藩上屋敷で誕生、母は側室恂(じゅん)。幼名は於莵五郎、諱は忠邦。別号は松軒、菊園。兄弟は弟が6人で、大塩平八郎の乱の原因となったとされる大阪東町奉行跡部良弼(あとべよしすけ)は弟。

長兄の芳丸が早世したために、文化2年(1805年)に唐津藩の世子となり、2年後の文化4年(1807年)に11代将軍徳川家斉と世子家慶に御目見えして、従五位下式部少輔に叙位、任官。文化9年(1812年)に父忠光が隠居、19歳で家督を相続。

1-2、忠邦、出世のために国替えを敢行

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忠邦の水野家は、徳川家康の母お大の方の実家である譜代大名で、忠邦の4代前に岡崎から唐津藩に転封。唐津藩は幕府から長崎警備という役目を担っているために、藩主は幕閣での昇進は望めないという慣例が存在。

しかし、忠邦は幕政に携わりたいという野心がかなり強かったということで、幕府の実力者水野忠成に賄賂を使って猟官運動を行い、文化13年(1816年)に奏者番に就任。そして家臣の諫言を押し切り、翌年9月、表高は同じ6万石ながら、実高25万3000石の唐津藩から、実高15万3000石の浜松藩への転封を願い出て実現。

この国替時に、水野家家老の二本松義廉が忠邦に諌死をしたほどで、また唐津藩から一部天領に召し上げられた地域が存在したが、地元民は忠邦の国替工作の賄賂として使われた疑惑と、天領の年貢の取立てが厳しかったために後々まで恨まれたそう。尚、浜松城は江戸時代に城主となったほとんどの人が幕閣へ入った出世城。

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自分の出世で家臣を犠牲にするって、発想が改革の失敗と通じないか

1-3、忠邦、順調に出世して老中に

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忠邦は思い切った国替えで幕閣に名前が広く知れ渡り、文化14年(1817年)には寺社奉行兼任。その後も水野忠成の庇護で、大坂城代から京都所司代と順調に昇進。文政11年(1828年)、35歳で西丸老中となり、天保5年(1834年)には本丸老中に、天保10年(1839年)には、ついに老中首座に。

しかしこの間の藩財政は極度に窮乏、代金未払いのため江戸藩邸の用達商人から出入りを断られたほどで、大坂で不正に無尽講を企て、金座御金改め役の後藤三右衛門から多額の賄賂を受け取るなどで、忠成のあとを継ぐ金権政治家と評判は良くなかったそう。

2-1、忠邦、天保の改革に乗り出す

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椿 椿山 – http://www.lib.metro-u.ac.jp/mizuno/mizuno.files/image/org/mi000004.jpg, Caption, パブリック・ドメイン, リンクによる

忠邦は、天保12年(1841年)に大御所家斉が死去すると、幕政の実権を握っていた御側御用取次水野忠篤らの側近を一掃し、将軍家慶の信任を受けて、農本思想を基本とした天保の改革を開始。

同年5月、将軍家慶は享保、寛政の改革の趣意に基づいた幕政改革という上意を伝え、忠邦は幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を通達。尚、江戸町奉行の遠山景元(「遠山の金さん」として庶民に人気)、矢部定謙(さだのり)を通じて江戸市中にも布告、華美な祭礼、贅沢、奢侈は全面禁止。しかし大奥で絶大な権力を持っていた御年寄で上臈の姉小路(和宮の大叔母)ら大奥女中に抵抗され、大奥は改革の対象外に。

忠邦のおこなった改革をご紹介しますね。

2-2、倹約令

11代将軍家斉の時代は、江戸の庶民文化の花を咲かせた文化、文政時代だったが、大奥で大勢の子供をこしらえたりと家斉による浪費のために、幕府の財政は窮迫の一途に。そして12代将軍家慶になり天保と元号が変わると、贅沢に慣れた人々に一転、地方では飢饉が起こり、ついで一揆、打ちこわしが頻発、そして近海に外国船が姿を現すように。

そして天保の改革で老中忠邦が最初に出したのが倹約令。町人に対し、木綿以上の着物は一切、着てはならないとのお触れを出し、髪結い、風呂屋から櫛、笄(こうがい)の類に至るまで細かく制限。女髪結いを禁止、自分の家では誰も髪が結えないために町家の女性の髪形がすっかり変わったそう。またほかにも、初鰹などの高価な初物は禁止、花火が火災の危険が理由で禁止となり、店先での碁や将棋は往来の邪魔だと禁止に。

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すごいな、こんな細かいことに禁止ばっかりって、昭和の高校の校則みたいじゃないか

2-3、綱紀粛正

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不明National Diet Library Digital Collections, パブリック・ドメイン, リンクによる

忠邦は倹約令から発展して風俗取締りを実施。

芝居小屋の江戸郊外、浅草へ移転、寄席の閉鎖など、庶民の娯楽が制限されることに。歌舞伎役者の7代目市川團十郎の江戸追放のほか、当時の役者は差別階級とされていたため、平民との交際禁止、居住地の限定、湯治、参詣の名目での旅行の禁止。また外出時は強制的に編笠着用、興行地を江戸、大坂、京都に限定というまさに弾圧で、それまで江戸の繁華街にあった江戸三座の中村座、市村座、守田座を、天保12年(1841年)、中村座の焼失後も建替え禁止、当時は郊外だった浅草の一角の猿若町に移転させられることに。

そして出版統制令により、すべての出版物を幕府が検閲し、幕府に不都合な書物を取り締まるとともに、錦絵を禁止し、風俗に悪影響を与えるとして人情本作家(恋愛小説)、為永春水や柳亭種彦などが処罰。

当時は町方、寺社境内、新吉原などに200ヶ所以上の寄席が存在していたが、古くから存在する一部を除いた寄席が規制されたために廃業。免除された寄席も、演目について神道講釈、心学などの娯楽以外のものに限ると規制されたために寄席は衰退したが、忠邦失脚後に復活したそう。

歌舞伎については廃止も考慮されたが、北町奉行遠山景元の進言によってそこまではされなかったということ。

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