日本史歴史江戸時代

島津久光と朝廷の圧力でうまれた幕府の新体制「文久の改革」を歴女がわかりやすく解説

2-2、建白書が朝廷に受け入れられる

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京都での久光は、権大納言近衛忠房、議奏中山忠能、正親町三条実愛らの公家に工作、建白書を提出。

内容は、安政の大獄での処分者の赦免と復権、前越前福井藩主松平慶永(春嶽)の大老就任、一橋慶喜を将軍後見職に、また過激派尊攘浪士の取り締まり強化などだったが、久光の建白は孝明天皇に受け入れられて、5月9日に大原重徳を勅使として江戸へ派遣が決定。勅書は久光の意見が大幅に取り入れられたものに。

2-3、寺田屋事件勃発

この頃の京都では、過激な尊王攘夷派の志士たちが勢力を高めていたが、久光の兵を率いた上洛のニュースが広まると、朝廷主導による武力での尊王攘夷実現と討幕の機会と思い込み、久光に期待した尊王攘夷派過激志士が続々と京都に集まることに。

しかし久光は先進開明派の斉彬とは違い、あくまでも保守的な佐幕派で、幕政の改革、公武合体、公武一和が目的だったため、薩摩藩士有馬新七ら過激派志士たちが関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義を襲撃、京に火をつけて一挙に挙兵という陰謀を計画、伏見の寺田屋に集合。

久光はこの陰謀を聞いて激怒して、阻止するために、有馬らと同じ精忠組の奈良原喜八郎ら8人を派遣、薩摩藩士を召還を命令、召還を聞かなければ上意打ちを命じたが、結果的に激しい死闘のうえに粛清され、薩摩藩の尊王攘夷過激派は壊滅に。

3、久光、勅使とともに江戸へ上る

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原田直次郎 – 尚古集成館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

そして6月7日に久光は勅使大原重徳を擁して江戸へ入り、幕府との交渉開始。朝廷からの改革の指示に幕府内は混乱したが、結局は改革案を受け入れざるを得なかったということ。

4-1、文政の改革の内容

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久光が朝廷を通じて申し入れた内容のうち、幕府が受け入れて実現したものについてご紹介しますね。

4-2、人事改革

勅書による改革の指示に沿ったものとしては、将軍家茂の補佐役として、将軍後見職に御三卿一橋家当主の一橋慶喜が就任し、政事総裁職に越前福井藩前藩主松平春嶽が任命。

政事総裁職となった松平春嶽は、補佐役としてあの横井小楠を用いたということで、小楠の提唱した「国是七策」を施政方針とし、これをベースにして改革が行われることに。

国是七策とは
1、大将軍上洛して、列世の無礼を謝す
2、諸侯の参勤を止めて術職(領内政治の報告書を将軍に提出する)となす
3、諸侯の室家(妻子)を帰す
4、外様譜代に限らず賢を選び、政官となす
5、大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなす
6、海軍を興し、兵威を強くす
7、相対貿易を止めて、官交易をなす

という7か条からなっていて、江戸幕府、徳川将軍家存続目的で、大名を支配して治めるため、大名に江戸と領地の二重生活や参勤交代で散財させていたが、挙国一致で大名が富国強兵を行うことが必要、身分にかかわらず良い意見に耳を傾けろという背景があるということ。

4-3、京都守護職の設置

そして過激派尊王攘夷志士たちが集まり、テロの巣窟となって治安が悪化の一途だった京都の治安維持のために、ほとんど用をなさなくなった京都所司代の上に京都守護職を新設、伝統的に規律正しい藩兵を持つ会津藩主松平容保を任命。

会津藩では藩を挙げて反対し、国元からも家老が駆け付けたが、藩祖の家訓遵守のため藩主以下藩士たちは徳川家に殉じる覚悟で京都入り。

そして翌年、将軍家茂警護の名目で江戸で募集され京都に残った浪士組の一部が、新選組として会津藩お預かりとして市中警備を任されたということ。

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