今回は文久の改革を取り上げるぞ。幕末に行われた改革ですが、どんなことだったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治維新は、勤皇佐幕に関係なく興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、文久の改革について5分でわかるようにまとめた。

1-1、文久の改革(ぶんきゅうのかいかく)とは

文久2年(1862年)に江戸幕府が行った人事、職制と諸制度の改革のこと。

当時は、嘉永7年(1854年)のペリーの黒船来航での開国以来、安政の大獄に桜田門外の変と、幕府の権威が急激に低下、尊王攘夷運動が盛り上がって、朝廷の発言権が強まり、外様大名も幕府に意見を言うようになって混沌となるばかりの政治情勢のなか、皇女和宮と14代将軍家茂の結婚で公武合体が推進という情勢。

この改革は幕閣ではなく、薩摩藩主の父島津久光、朝廷の公武合体派公卿らの主導の圧力で行われたということがポイント。

1-2、文久の改革の発端、島津久光の挙兵上洛

幕政改革については、安政の大獄以前に老中阿部正弘らが広く外様大名などにも意見を聞いたため、薩摩藩主島津斉彬、越前藩主松平慶永(春嶽)らの賢侯と呼ばれる開明的な大名らが必要性を示唆、島津斉彬は藩兵を率いて上洛直前に急死、その後の大老井伊直弼が安政の大獄で改革派を弾圧したなどで頓挫。

その後、異母兄斉彬の死後に藩主となった実子の島津茂久(忠義)を補佐する国父の立場の島津久光が、斉彬の遺志を継いで兄の果たせなかった率兵上洛を敢行し、朝廷から勅使を出させ、幕府に命令して改革を推し進めようと画策。

久光は大砲も4門携えた1000人の藩兵を率いて文久2年(1862年)3月16日に鹿児島を発し、4月13日に上洛。しかし久光は藩主の父ではあるが大名になったこともない無位無官の島津三郎という身分であり、また参勤交代の際も大名が京都へ入るのはご法度。それが兵を率いて京都へ入り、幕府に無断で公家と接触するという事態は、幕府の威信の衰えた証拠とみることも。

2-1、久光上洛の影響

朝廷から尊王攘夷浪士まで、影響を及ぼしました。

\次のページで「2-2、建白書が朝廷に受け入れられる」を解説!/

2-2、建白書が朝廷に受け入れられる

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京都での久光は、権大納言近衛忠房、議奏中山忠能、正親町三条実愛らの公家に工作、建白書を提出。

内容は、安政の大獄での処分者の赦免と復権、前越前福井藩主松平慶永(春嶽)の大老就任、一橋慶喜を将軍後見職に、また過激派尊攘浪士の取り締まり強化などだったが、久光の建白は孝明天皇に受け入れられて、5月9日に大原重徳を勅使として江戸へ派遣が決定。勅書は久光の意見が大幅に取り入れられたものに。

2-3、寺田屋事件勃発

この頃の京都では、過激な尊王攘夷派の志士たちが勢力を高めていたが、久光の兵を率いた上洛のニュースが広まると、朝廷主導による武力での尊王攘夷実現と討幕の機会と思い込み、久光に期待した尊王攘夷派過激志士が続々と京都に集まることに。

しかし久光は先進開明派の斉彬とは違い、あくまでも保守的な佐幕派で、幕政の改革、公武合体、公武一和が目的だったため、薩摩藩士有馬新七ら過激派志士たちが関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義を襲撃、京に火をつけて一挙に挙兵という陰謀を計画、伏見の寺田屋に集合。

久光はこの陰謀を聞いて激怒して、阻止するために、有馬らと同じ精忠組の奈良原喜八郎ら8人を派遣、薩摩藩士を召還を命令、召還を聞かなければ上意打ちを命じたが、結果的に激しい死闘のうえに粛清され、薩摩藩の尊王攘夷過激派は壊滅に。

3、久光、勅使とともに江戸へ上る

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原田直次郎 - 尚古集成館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

そして6月7日に久光は勅使大原重徳を擁して江戸へ入り、幕府との交渉開始。朝廷からの改革の指示に幕府内は混乱したが、結局は改革案を受け入れざるを得なかったということ。

4-1、文政の改革の内容

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久光が朝廷を通じて申し入れた内容のうち、幕府が受け入れて実現したものについてご紹介しますね。

4-2、人事改革

勅書による改革の指示に沿ったものとしては、将軍家茂の補佐役として、将軍後見職に御三卿一橋家当主の一橋慶喜が就任し、政事総裁職に越前福井藩前藩主松平春嶽が任命。

政事総裁職となった松平春嶽は、補佐役としてあの横井小楠を用いたということで、小楠の提唱した「国是七策」を施政方針とし、これをベースにして改革が行われることに。

国是七策とは
1、大将軍上洛して、列世の無礼を謝す
2、諸侯の参勤を止めて術職(領内政治の報告書を将軍に提出する)となす
3、諸侯の室家(妻子)を帰す
4、外様譜代に限らず賢を選び、政官となす
5、大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなす
6、海軍を興し、兵威を強くす
7、相対貿易を止めて、官交易をなす

という7か条からなっていて、江戸幕府、徳川将軍家存続目的で、大名を支配して治めるため、大名に江戸と領地の二重生活や参勤交代で散財させていたが、挙国一致で大名が富国強兵を行うことが必要、身分にかかわらず良い意見に耳を傾けろという背景があるということ。

4-3、京都守護職の設置

そして過激派尊王攘夷志士たちが集まり、テロの巣窟となって治安が悪化の一途だった京都の治安維持のために、ほとんど用をなさなくなった京都所司代の上に京都守護職を新設、伝統的に規律正しい藩兵を持つ会津藩主松平容保を任命。

会津藩では藩を挙げて反対し、国元からも家老が駆け付けたが、藩祖の家訓遵守のため藩主以下藩士たちは徳川家に殉じる覚悟で京都入り。

そして翌年、将軍家茂警護の名目で江戸で募集され京都に残った浪士組の一部が、新選組として会津藩お預かりとして市中警備を任されたということ。

\次のページで「4-4、参勤交代の緩和」を解説!/

4-4、参勤交代の緩和

それまで隔年交代制だった大名の参勤交代を3年に1度に、江戸在留期間も100日にして、人質として江戸屋敷に定住していた大名の妻子の領地への帰国を許可し、大名の参勤交代と江戸の二重生活への負担を軽減という、大名証人制度の緩和。

これは、将軍から大名への知行地の給付、大名による将軍のための軍役の負担という主従関係の一環ということで、参勤交代は軍役に準じたものとして、将軍への忠誠を示す儀礼のひとつと考えると、将軍と大名との主従関係にも影響し、幕府の権力低下をあらわすものに。

また江戸の街は大名が家族を引き上げると人口も減り、大名を相手にした多くの商売も成り立たず、街中は閑散として庶民にも影響があったそう。

4-5、軍制改革

陸軍
歩兵、騎兵、砲兵の三兵を置き、ほとんど役に立たなくなった幕府の直参旗本でなく、浪士や町人、農民を募集。そしてその後、幕府はフランス式を導入することになり、フランス陸軍士官を教官として洋式訓練が行われるように。

最初の陸軍奉行として大関忠裕、歩兵の最高指揮官が歩兵奉行小栗上野介忠順。また、陸軍奉行と歩兵奉行は足高の制が廃止となり、知行のお米ではなくて、それぞれ1500両、800両の貨幣が支給されたということ。

海軍
すでに安政6年(1859年)に軍艦奉行が設置されていたが、文久の改革では、それまでは別だった幕府創世以来の海軍御船手組も軍艦奉行の下に統合。軍幹奉行は木村嘉毅、井上清直、内田正徳で、その下役の軍艦奉行並の勝海舟が実務を行っていたということで、当初、幕府は膨大な海軍を建設するつもりが、勝海舟が船だけ買っても操作できる人間がいないとだめだと説得。

オランダに10隻の船を注文し、同時に海軍技術を学ぶために、榎本武揚、西周、津田真道らの留学生を派遣することに。

4-6、その他の改革

また、それまであった蕃書調所を洋書調所と改め、洋学研究もテコ入れが決定。

幕府で礼服として用いられてた長熨斗、長袴が廃止され、より実用的な服装にするという服制変革令も発布。

尚、小栗上野介忠順が提案した藩を廃止して郡県制にするという郡県制の設置は、第二次長州征伐で、これに反対した長州藩を潰す予定が、逆に長州軍の近代化兵器と西洋式兵制で幕府軍が逆襲を食らって敗退したため実現せず。

5-1、文久の改革、その後

文久の改革後の余波、影響についてご紹介しますね。

5-2、久光、生麦事件を起こす

島津久光が江戸から鹿児島へ帰国の途中に、生麦事件を起こすことに。

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iratume - iratume owns it., パブリック・ドメイン, リンクによる

生麦事件(なまむぎじけん)
文久2年(1862年)8月21日、武蔵国橘樹郡生麦村(現神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、薩摩藩主の父久光の大名行列に乱入した、ピクニック中だった騎馬のイギリス人男性チャールズ・リチャードソン、ウィリアム・マーシャルら女性を含む4人を供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件。

その後、日本駐在イギリス代理公使ニールは幕府と賠償金の交渉を行い、続いて薩摩藩と直接交渉のために、6月27日に軍艦7隻で鹿児島湾に乗り込んだが、交渉は不調に終わり、7月2日のイギリス艦による薩摩藩船の拿捕がきっかけとなって、薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃、薩英戦争が勃発。

薩摩側は鹿児島市街が焼失、多大な被害を被ったが、イギリス艦隊側も旗艦ユーライアラスの艦長や副長の戦死や軍艦の大破、中破などかなりの損傷を受けて、4日に艦隊は鹿児島湾を去って戦闘は収束。

10月5日、イギリスと薩摩藩は横浜のイギリス公使館において講和成立。薩摩藩は、幕府から借用の6万300両をイギリス側賠償金として支払ったが、講和条件のひとつだった生麦事件の加害者は、逃亡中で不問に。

尚、イギリスは講和交渉を通じて薩摩藩を高く評価して関係を深めることとなり、2年後には公使ハリー・パークスが薩摩を訪問、通訳官アーネスト・サトウは小松帯刀や西郷隆盛らの多くの薩摩藩士と親しくなったということ。また薩摩藩側も欧米文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、留学生を派遣するなどイギリスとの友好関係を深めることに。

5-3、久光と朝廷の圧力での改革は幕府の権威にダメージを与えた

そのときに必要な改革が行われたとはいえ、外様大名の父にすぎない無位無官の久光の軍を率いての圧力、また政治的実権のなかった朝廷の圧力で改革が強要された事実は、幕府の権威に著しいダメージに。

そして朝廷の権威は上昇し、幕府は翌年には将軍家茂の上洛要求の勅命に屈して将軍家茂が上洛したのを契機に、幕府の権力も江戸と京都に分裂状態となり、結局は幕府の寿命を縮めることに。

また京都情勢も、久光の行動、寺田屋事件などの影響によって、薩摩藩、会津藩などを中心とする公武合体(幕政改革)派と、長州藩士たちや真木和泉らの過激派志士たちを中心とする尊王攘夷派の間で対立、京都政界の主導権を巡っての争いが激化。

勅命での改革の成功が、それまで政治的な発言力がなかった公卿たちを自信付けることになり、発言力、存在感が増大して、中川宮朝彦親王(久邇宮朝彦親王)、二条斉敬ら公武合体派、三条実美、姉小路公知らの長州派の尊攘派公家の対立も激化し、翌年の8月18日の政変、禁門の変へとつながっていくことに。

5-4、久光、官位獲得と家督相続の自己中な野望は実現せず

image by PIXTA / 8114072

久光は、公武合体や幕政改革だけのために薩摩から軍勢を率いて上洛、江戸へ乗り込んだのではなくて、実は自分が息子に代わって藩主になりたいという野望があったそう。

久光は幕府に支藩を通じ家督相続の運動をしたが、6月に幕府に拒絶、7月には政事総裁職の松平春嶽にも拒絶されたそう。また久光は、朝廷工作をも行い、京都の中山忠能から勅使大原重徳に宛てて「久光の従四位上中将推任叙の叡慮があるので周旋するよう」と大原重徳が幕府に周旋してくれたにも関わらず、幕府は、無位無官の陪臣にすぎない久光へ超越した叙任をすることは、諸大名の官位を乱すだけでなく武家の制度を崩すことになり朝廷のためにもならずと、承諾しなかったということ。

1000の藩兵を率いた島津久光が強引に幕府に起こさせた改革

島津久光は薩摩藩主ではなくて薩摩藩主の父なので、薩摩藩内で実権を握っていたとはいえ江戸城へ登城する資格も、ましてや朝廷に参内して意見を言う官位もなかったが、名君と言われた異母兄の島津斉彬のやり残した藩兵を率いての上洛を代わりに遂行。

久光は公武合体派だが、薩摩藩主の父が軍を率いての上洛が、尊王攘夷の過激派にはすわ討幕のための行動と期待させ、大挙して京都に押し寄せるなどの誤解がうまれ、薩摩藩尊攘派志士たちによる所司代たちの暗殺で一挙に暴動という陰謀計画まで起こり、激怒した久光は寺田屋で自藩の尊攘派志士たちを抹殺。

そして朝廷を動かして勅使を連れて江戸へ向かい、強引に実現させたのが文久の改革。賢侯といわれた一橋慶喜や松平春嶽を登用し、嫌がる松平容保と会津藩を京都守護職に任命して京都の治安維持に当たらせただけでなく、参勤交代の緩和やその他の改革もいろいろ行われましたが、幕府の立て直しどころか権威は失墜の一途をたどり、久光は帰途で生麦事件を起こす始末で、この後も激動の幕末は幾多の事件が起こることに。

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日本史歴史江戸時代

島津久光と朝廷の圧力でうまれた幕府の新体制「文久の改革」を歴女がわかりやすく解説

今回は文久の改革を取り上げるぞ。幕末に行われた改革ですが、どんなことだったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治維新は、勤皇佐幕に関係なく興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、文久の改革について5分でわかるようにまとめた。

1-1、文久の改革(ぶんきゅうのかいかく)とは

文久2年(1862年)に江戸幕府が行った人事、職制と諸制度の改革のこと。

当時は、嘉永7年(1854年)のペリーの黒船来航での開国以来、安政の大獄に桜田門外の変と、幕府の権威が急激に低下、尊王攘夷運動が盛り上がって、朝廷の発言権が強まり、外様大名も幕府に意見を言うようになって混沌となるばかりの政治情勢のなか、皇女和宮と14代将軍家茂の結婚で公武合体が推進という情勢。

この改革は幕閣ではなく、薩摩藩主の父島津久光、朝廷の公武合体派公卿らの主導の圧力で行われたということがポイント。

1-2、文久の改革の発端、島津久光の挙兵上洛

幕政改革については、安政の大獄以前に老中阿部正弘らが広く外様大名などにも意見を聞いたため、薩摩藩主島津斉彬、越前藩主松平慶永(春嶽)らの賢侯と呼ばれる開明的な大名らが必要性を示唆、島津斉彬は藩兵を率いて上洛直前に急死、その後の大老井伊直弼が安政の大獄で改革派を弾圧したなどで頓挫。

その後、異母兄斉彬の死後に藩主となった実子の島津茂久(忠義)を補佐する国父の立場の島津久光が、斉彬の遺志を継いで兄の果たせなかった率兵上洛を敢行し、朝廷から勅使を出させ、幕府に命令して改革を推し進めようと画策。

久光は大砲も4門携えた1000人の藩兵を率いて文久2年(1862年)3月16日に鹿児島を発し、4月13日に上洛。しかし久光は藩主の父ではあるが大名になったこともない無位無官の島津三郎という身分であり、また参勤交代の際も大名が京都へ入るのはご法度。それが兵を率いて京都へ入り、幕府に無断で公家と接触するという事態は、幕府の威信の衰えた証拠とみることも。

2-1、久光上洛の影響

朝廷から尊王攘夷浪士まで、影響を及ぼしました。

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