今回は、中国の歴史上最大の建造物といっても過言ではない『万里の長城』について勉強していこう。

誰もが一度が聞いたことのあるこの建造物は、ユネスコの世界遺産にも登録されており、今でもたくさんの観光客に愛されている。『万里の長城』が建設されたのはいつだったのか、建設された目的は何だったのか、それは歴史の知識なくして語ることはできないでしょう。そして、現在の『万里の長城』はどういった扱いなのかを、わかりやすくまとめておいた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「万里の長城」について、わかりやすくまとめた。

そもそも城なのか?壁なのか?

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 『万里の長城』といえば、一度は耳にした事のある人も多いでしょう。しかし『城』と呼ばれながらも、頭に浮かぶのは石垣の壁、という事もまた事実かと思います。そこで、まずは『万里の長城』とは、城なのか、壁なのか、から勉強していきましょう。

 そもそも『長城』とは、壁として作られました。初めは様々な国が各地にバラバラに建設し、長さや高さもまちまちであったようです。それを、春秋戦国時代と経て中国統一を果たした「始皇帝」(しこうてい)が繋ぐ形で建設したのが、今現在でも『万里の長城』と呼ばれるものとなりました。

 今でもあるこの名前『長城』という通り、一定間隔に兵士が寝泊まり出来る場所や、登れる場所があることで、その辺りは『城』のように見えますね。

 しかし、あくまで『万里の長城』は敵の侵入を防ぐことが目的の『壁』であると考えてよさそうです。

建設が始まったのは何時頃から?

 そもそも『万里の長城』といえば「始皇帝」が建設したもの、とよく知られているのですが、実は始皇帝が行ったのはそれらを繋ぐ作業でした。本当の『長城』の始まりは『斉』もしくは『楚』であったと考えられており、時代としては春秋時代まで遡ります。

 『長城』が最も効力を発揮するのは、馬を使った騎馬戦術相手です。そういった理由で『長城』は、騎馬を得意としていた、北方の遊牧民族の侵攻阻止に悩んでいた『燕』『趙』『秦』の3ヵ国で積極的に取り入れられていきました。

 しかし、戦国時代に突入する頃には隣接する他国に備える、という目的のためにも北方に面していない国の中でも『長城』の建設は盛んになっていったのです。

建設が始まった理由とは?

Great Wall of Han Dynasty.jpg
慕尼黑啤酒 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 『万里の長城』が建設された目的は、まさに他国の侵入を防ぐためでした。そもそもの兵士の侵攻を防ぐため、そして何よりも私は人材不足が関係しているのでは、と思います。

 当時の人口はおよそ2000万人~3000万人といわれているのです。それがさらに20近くの国に分かれ、その中には当然、女性や子どもも含まれます。それが広い中国全土に分布していました。兵士の数にも限りがあったのでしょう、我々が思いつくような、昼夜通しての人を使った見張りを立てる等といった方法は、出来なかったのでしょう。

 そこで、そもそも敵の侵入を許さないような『壁』があれば良い、ということでまずは石を重ねたり、土を盛ったりした『長城』の原型が出来ていったのだと思われますね。

完成したのはいつ?

Map of the Great Wall of China.jpg
Maximilian Dörrbecker (Chumwa) - This map is the result from a map request to the Kartenwünsche in the Kartenwerkstatt. You can make a request for a new map to us as well., CC 表示-継承 2.5, リンクによる

 紀元前214年、秦の始皇帝により建設された『万里の長城』ですが、現在まで残っている部分の殆どは明の時代に建設されたものなのです。

 その間にも歴代の王朝によって修繕されたり、時には不必要な場所にある、ということで破壊、もしくは移転されたこともありました。

 始皇帝が建設した部分の殆どは失われ、当時建てられた場所よりも、現在の『長城』は随分と南にあるようです。

 これには大きな理由があり、秦や漢の時代は遊牧民族に対して有利な情勢が続いていました。それによって勢力を可能な限り北方へ広げようとしたのです。

 しかし、明の時代、遊牧民族の力が優勢な時には、防備を容易にしようと、首都の近くへと移転を行いました。実際に、首都『北京』近くの『長城』は、100kmも離れていない場所に建てられているのです。

\次のページで「『万里の長城』の実績とは?」を解説!/

『万里の長城』の実績とは?

 『万里の長城』がその効果を最も発揮したのは、北方の遊牧民族に対してでした。

 巨大な建造物でありながらも、実は低いところでは2m程度しかない箇所もあるのです。通常の歩兵の進軍に対しては『長城』自体を利用した戦地ででもなければ、この2mという差はあまり効力を発揮しないでしょう。

 しかし、騎馬を利用していた遊牧民族には、そもそも歩兵という概念自体がありませんでした。ただの進軍でも『長城』を超え進軍するのは容易なことではなかったのでしょう。

 この『万里の長城』を利用し、最も繁栄をすることが出来たのが『漢』でした。実際に『漢』の時代の『長城』は、7930kmに達したと言われ、中国史上最長だったのです。

 同時に、『万里の長城』は交易の地として利用された側面もあります。北方の民族は家畜を使った畜産に優れ、南方の民族は作物を育てる農耕に優れていたのです。お互いの利益が一致したのでしょう、『長城』沿いにはいくつもの交易所が設けられ、盛んに取引が行われていました。

『万里の長城』を利用しなかった時代もある?

 『漢』の時代に最盛期を迎えた『万里の長城』ですが、その後はこれを大きく利用した王朝と、全く利用しなかった王朝とに分かれます。

 利用した王朝の時代は、『長城』をさらに延長するための建築を行ったり、侵攻や防御の拠点に使用したのです。なにより人の出入りがあったため、荒廃することもありませんでした。

 しかし、『長城』を利用しなかった王朝は、資金も人材も投入しなかったため、それらの王朝末期の『長城』は、ずいぶんと荒れ果ててしまったようです。

 特に長く放棄されていたのは、『唐』の時代から『五代十国』や『宋』の時代でした。『唐王朝』は618年から、『宋王朝』は1279年まで、これを考えると600年以上も放棄されていた時代があったのです。

 その後『金』の時代から、再び利用が始まりその後の『明』に引き継がれ、『万里の長城』は現在まで残っていきました。

時代の流れと共に『万里の長城』は放棄された

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 『明王朝』で、具体的に『長城』の利用が再開されたのは、3代皇帝「永楽帝」(えいらくてい)です。

 永楽帝が『長城』防衛に乗り出した理由は、必要に迫られて、でした。永楽帝の時代に首都を『北京』に遷都したのです。北京といえば、中国本土でも相当『北』の方に位置しています。ここから導き出される答えは、まさに北方遊牧民族への備えです。

 しかし、永楽帝は『長城』を利用しながらも、積極的な建造は行っていませんでした。実際に本格的な『長城』の改修、建造、移転を行ったのは、5代皇帝「宣徳帝」(せんとくてい)だったのです。

 それまで『長城』を利用しながらも、前線部隊を常に配置しつつ防衛していた形から、『長城』単体でも防衛が可能になるように高さを増し、幅を増やし、そして頑丈にしていきました。

 今現在でも、北京の近くに『長城』がある、ということはもう勉強しましたね。遊牧民族の進軍速度は恐るべきものがあったはずです。まさしく『長城』防衛をしなければ、首都の市民も安心して眠れなかったというのは容易に想像がつきますね。

 そして、『清』の時代へと移り変わります。ここまで来ればもはや現代のようなもの、文明の利器が開発され、もはや『壁』での防衛は不可能になっていきました。やはり『清王朝』も『万里の長城』を放棄したのです。

『万里の長城』を観光したい!

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 ここまで『万里の長城』を勉強してきた方は、ぜひ観光してみたい!と思ったことでしょう。少しだけ、『万里の長城』までのアクセス、オススメスポットをご紹介していきます。

 まずは一番人気の『八達嶺長城』(はったつれいちょうじょう)です。こちらは全長が役3700mあり、『明』の時代に改修されたので非常に保存状態も良く、まさしく『万里の長城』らしさあふれる姿を見ることができます。よく写真に撮られる『長城』はこの箇所であることが多いようです。

 北京から75kmのところにあり、所要時間はおよそ1時間30分程度、バスや貸し切りチャーターなどもあることから気軽に観光できるスポットでしょう。

 もう一つのオススメスポットは『慕田峪長城』(ぼでんよくちょうじょう)です。こちらも北京市内から役70kmのところに位置しており、所要時間もおおよそ同程度、全長は約2250mあります。『八達嶺長城』に比べて雄大さに欠けるかもしれませんが、豊かな緑に抱かれるように走る白い『長城』の姿は、まるで『白龍』のようである、と言われ一見の価値有りです。

 特に近年は『八達嶺長城』の人気が高まり、混雑は避けられないようなので、落ち着いて見られる『慕田峪長城』の人気も高まっているようですね。

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ユネスコの世界遺産に登録?

 『万里の長城』は1987年、ユネスコの世界遺産に登録されている、という事は知っている人も多いでしょう。しかし、実際には『万里の長城』全体が登録されているわけではなく、何か所かの『長城』が登録されているのです。

 その登録箇所は、さきほども勉強した『八達嶺長城』から始まり、『山海関』『嘉峪関』の計3か所が登録されています。

心無い観光客により破壊される個所も…それには危険も伴う

The Great Wall野长城 (2).jpg
8016无限 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 『万里の長城』は、現在は中国政府によって、歴史的文化財として保護されています。しかし、あまりにも巨大すぎるが故にメンテナンスの手は行き届かず、北京付近の観光用に整備された一部分を除いて、大部分が、整備されることもなく崩落していっているのです。

 そういった『長城』は『野長城』と呼ばれ、時間に任せ朽ちていく姿を評価する声も高まってきています。しかし、崩落の危険に晒されて危険を伴うことから、2006年には『長城保護条例』で、『野長城』に登ること自体が禁止されました。

 しかし、未だに『野長城』に登ろうとする観光客が後を絶たず、死傷者は増える一方です。悲しいことに2012年には日本人の観光客が、『野長城』付近の山で遭難し、死亡する事故も発生してしまいました。(もちろん、こういった行為は危険なため禁止されています)

 さらには、付近の住民が『長城』のレンガを盗み、転売していたり、悪戯的な破壊行為もされているようです。こういった被害は時代を『秦』まで遡るとおよそ2万kmにも及ぶといいます。

 中国国内でも『万里の長城』の破壊行為を止める動きはもちろんあるのですが、あまりにも長大なため中々上手くはいっていないようですね。

 こうして、今この瞬間にも『万里の長城』の崩壊は進んでいるのです。

ズバリ!『万里の長城』の見どころとは?

『万里の長城』を勉強する時には、まずは歴史から学ぶと良いでしょう。もはや全てといっても過言ではない歴々の中国王朝は、この『万里の長城』と向き合ってきました。それは、今現代まで続いています。

大きな歴史を学んだあとは、現在の『万里の長城』も学びましたね。その裏には戦争という悲しい歴史を背負いながらも、これほどまでに長大な建造物は他に存在しておらず、まさに人類の功績の一つでしょう。

これらを学んだ私たちに出来ることは、『万里の長城』を少しでも保存したまま後世に伝えることではないでしょうか。もし、観光に向かわれる時は、ルールを守って『万里の長城』の壮大な姿を見ていただければ、と願っています。

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中国最大の建造物『万里の長城』の歴史を中国史マニアがわかりやすく解説

今回は、中国の歴史上最大の建造物といっても過言ではない『万里の長城』について勉強していこう。

誰もが一度が聞いたことのあるこの建造物は、ユネスコの世界遺産にも登録されており、今でもたくさんの観光客に愛されている。『万里の長城』が建設されたのはいつだったのか、建設された目的は何だったのか、それは歴史の知識なくして語ることはできないでしょう。そして、現在の『万里の長城』はどういった扱いなのかを、わかりやすくまとめておいた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「万里の長城」について、わかりやすくまとめた。

そもそも城なのか?壁なのか?

image by iStockphoto

 『万里の長城』といえば、一度は耳にした事のある人も多いでしょう。しかし『城』と呼ばれながらも、頭に浮かぶのは石垣の壁、という事もまた事実かと思います。そこで、まずは『万里の長城』とは、城なのか、壁なのか、から勉強していきましょう。

 そもそも『長城』とは、壁として作られました。初めは様々な国が各地にバラバラに建設し、長さや高さもまちまちであったようです。それを、春秋戦国時代と経て中国統一を果たした「始皇帝」(しこうてい)が繋ぐ形で建設したのが、今現在でも『万里の長城』と呼ばれるものとなりました。

 今でもあるこの名前『長城』という通り、一定間隔に兵士が寝泊まり出来る場所や、登れる場所があることで、その辺りは『城』のように見えますね。

 しかし、あくまで『万里の長城』は敵の侵入を防ぐことが目的の『壁』であると考えてよさそうです。

建設が始まったのは何時頃から?

 そもそも『万里の長城』といえば「始皇帝」が建設したもの、とよく知られているのですが、実は始皇帝が行ったのはそれらを繋ぐ作業でした。本当の『長城』の始まりは『斉』もしくは『楚』であったと考えられており、時代としては春秋時代まで遡ります。

 『長城』が最も効力を発揮するのは、馬を使った騎馬戦術相手です。そういった理由で『長城』は、騎馬を得意としていた、北方の遊牧民族の侵攻阻止に悩んでいた『燕』『趙』『秦』の3ヵ国で積極的に取り入れられていきました。

 しかし、戦国時代に突入する頃には隣接する他国に備える、という目的のためにも北方に面していない国の中でも『長城』の建設は盛んになっていったのです。

建設が始まった理由とは?

Great Wall of Han Dynasty.jpg
慕尼黑啤酒投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 『万里の長城』が建設された目的は、まさに他国の侵入を防ぐためでした。そもそもの兵士の侵攻を防ぐため、そして何よりも私は人材不足が関係しているのでは、と思います。

 当時の人口はおよそ2000万人~3000万人といわれているのです。それがさらに20近くの国に分かれ、その中には当然、女性や子どもも含まれます。それが広い中国全土に分布していました。兵士の数にも限りがあったのでしょう、我々が思いつくような、昼夜通しての人を使った見張りを立てる等といった方法は、出来なかったのでしょう。

 そこで、そもそも敵の侵入を許さないような『壁』があれば良い、ということでまずは石を重ねたり、土を盛ったりした『長城』の原型が出来ていったのだと思われますね。

完成したのはいつ?

Map of the Great Wall of China.jpg
Maximilian Dörrbecker (Chumwa) – This map is the result from a map request to the Kartenwünsche in the Kartenwerkstatt. You can make a request for a new map to us as well., CC 表示-継承 2.5, リンクによる

 紀元前214年、秦の始皇帝により建設された『万里の長城』ですが、現在まで残っている部分の殆どは明の時代に建設されたものなのです。

 その間にも歴代の王朝によって修繕されたり、時には不必要な場所にある、ということで破壊、もしくは移転されたこともありました。

 始皇帝が建設した部分の殆どは失われ、当時建てられた場所よりも、現在の『長城』は随分と南にあるようです。

 これには大きな理由があり、秦や漢の時代は遊牧民族に対して有利な情勢が続いていました。それによって勢力を可能な限り北方へ広げようとしたのです。

 しかし、明の時代、遊牧民族の力が優勢な時には、防備を容易にしようと、首都の近くへと移転を行いました。実際に、首都『北京』近くの『長城』は、100kmも離れていない場所に建てられているのです。

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