世界史

最大にして最後の宗教戦争と呼ばれる「三十年戦争」を歴女が5分でわかりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。今回は主にドイツが戦場となった三十年戦争についてだ。

この戦争は最大にして最後の宗教戦争と呼ばれていて、旧教カトリックと新教プロテスタントの戦争が次第にヨーロッパの覇権をかけての戦いとなった戦争なんだ。

それじゃあ詳しくはヨーロッパ史に詳しい歴女のまぁこと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が大好きなアラサー歴女。特に名門ハプスブルク家に関する書籍を愛読中!今回はオーストリア・ハプスブルクとスペイン・ハプスブルク家が参戦した三十年戦争について解説していく。

1 三十年戦争とは?

image by iStockphoto

三十年戦争が起こった背景には神聖ローマ帝国内の宗教対立がありました。更に宗教対立の他に皇帝ルドルフ2世と弟マティアスの権力争いも絡むことに。ここでは三十年戦争の背景について見ていきましょう。

1-1 ハプスブルク家一の変人ルドルフ

ルドルフ2世とは、オーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝となった人物。そしてハプスブルク家一の変わり者として有名です。ルドルフは政治に無関心で宗教にもあまり関心を示さず、ウィーンからプラハに移って美術品のコレクションに明け暮れることに。

当時の貴族らは、大航海時代の影響から多くの美術品(宝飾品や昆虫標本、中には動物の内臓など)をコレクションしていました。ルドルフは最大のコレクターとして有名で、オカルト皇帝と称されることも。

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ルドルフ2世には婚約者イサベルがいたんだが、なんと彼女を20年も待たせた挙句に結婚しなかったんだ。そして生涯独身を通したんだが、その理由が現在でも分かっていないらしい。変人と呼ばれたルドルフらしいな。

1-2 アルチンボンドの肖像画

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ジュゼッペ・アルチンボルド LSH 91503 (sm_dig7869), パブリック・ドメイン, リンクによる

これは1591年に描かれたアルチンボンド「ウェルトゥムヌスとしてのルドルフ」。この絵画では花や果物などの植物を配置して人の肖像画を表す「合成人面像」という技法が用いられています。しかも単に彼は植物を配置したのではなく、意味(例えば林檎は知恵を、百合なら清浄、玉ねぎなら不死をという具合に)がありました。ちなみにタイトルのウェルトゥムヌスとは、季節を司る神のこと。季節が変わっていくことを、この神が変身して様々な姿に変わったことから、この絵画はウェルトゥムヌスがルドルフに姿を変えた瞬間を描いたものでした。

ルドルフはこのアルチンボンドを重用したことでも知られています。ルドルフは彼に貴族の称号を与え、画家としてだけでなく、祝祭の演出も手掛けさせていたそう。これはスペイン・ハプスブルク家の宮廷画家だけでなく官吏となったベラスケスと似ていますね。

1-3 野心家マティアス

時の皇帝が自身の知識欲を満たしている間も帝国内の問題は山積状態。帝国内ではカトリック勢力とプロテスタント勢力の対立が深刻化しており、また異教徒のオスマン帝国と争いもありました。しかし晩年のルドルフは鬱状態となることに。

1607年には極秘会議が開かれ、健康不安のあるルドルフの代わりに弟のマティアスを宗主とすることが決定。弟のマティアスは、ハンガリーの総司令官を務めており兄とは違って野心家でした。宗主となって4年後には実権を握ることに。この時にマティアスはプロテスタント側に味方してもらったため、プロテスタント勢力が勢いつきましたがカトリック勢力からは不信感が募るように。

1-4 兄から冠を奪ったマティアス

その後ルドルフは弟にプラハ城に軟禁されることに。ルドルフは1612年に60歳でひっそりとこの世を去りました。マティアスは兄の死後、神聖ローマ皇帝選挙に勝利し、皇帝となることに。しかしそこでもプロテスタントの選帝侯に頼ったことで、更にカトリック側から不信感が募り、彼の威信はかなり低下することに。

兄を皇帝から引きずり下ろしたマティアスでしたが、彼自身にも健康問題が。マティアスは結婚していましたが、子どもがいなかったため後継者問題が浮上することに。そこでルドルフとマティアスの従弟のフェルディナントが選ばれることに。マティアス自身はこの決定に不服でしたが、フェルディナントにハンガリーとチェコの王位を譲らざるを得なくなることに。これによってこれまで情勢が不安定となっていたボヘミアがフェルディナントの即位によってより悪化する事態を招きました

2 カトリックとプロテスタントの対立から戦争が始まることに

三十年戦争は大きく分けて4つの戦争(ボヘミア・プファルツ戦争デンマーク・ニーダーザクセン戦争スウェーデン戦争フランス・スウェーデン戦争)に分けられています。それではそれぞれ見ていきましょう。

2-1 窓外放擲事件

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Johann Philipp Abelinus, パブリック・ドメイン, リンクによる

これまでルドルフ2世とマクシミリアン2世は帝国内の信仰の自由を認めていました。しかし新たに即位したフェルディナントは根っからのカトリック信者。そのため彼は再カトリック化を強行したため、プロテスタント貴族が激しく抵抗することに。貴族らはプラハ城に集まり、2人の役人を窓から突き落としました。この窓外放擲事件をきっかけに三十年戦争が始まりました。(皇帝マティアスが窓外放擲事件を引き起こしたとする説もあります)

2-2 ボヘミア・プファルツ戦争

プラハで起こった窓外放擲事件によって、皇帝マティアスは内戦を恐れます。そして妥協を図ろうとしますが、フェルディナント側の猛反対に遭うことに。難しい局面を乗り切るほどの政治力がなかったマティアスは亡くなり、新たに強硬派フェルディナントが実権を掌握。これに対しボヘミアのプロテスタント貴族らはチェコやオーストリアのプロテスタント貴族を取り込み、ボヘミア連合を結成。そしてフェルディナントに廃位宣言し、代わりにプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を新王に選出しました。更に多くの支持を広げ、ついに戦争となることに。

当初フェルディナントはオーストリア、ボヘミア、トランシルヴァニア軍によって苦戦に立たされます。しかし皇帝に選出されたことやポーランドからの援軍、カトリック勢力であるバイエルン公マクシミリアン1世、スペインからの援助を受けて盛り返すことに。逆にプロテスタント勢力は内部分裂や外部からの支援が得られなかったこと、更に農民反乱が起こったことから劣勢に。こうして1620年11月にはビーラー・ホラの会戦で皇帝軍が勝利しました。

2-3 戦争の結末

こうしてボヘミア・プファルツ戦争ではフェルディナントが勝利を収めました。これによってプロテスタント貴族の首謀者27名は処刑され、フリードリヒ5世は廃位。フェルディナントは復位することができました。余談ですが、廃位されたフリードリヒはイギリス王のジェームズ1世の娘を妃に迎えた有力な人物

3 デンマーク・ニーダーザクセン戦争

デンマーク・ニーダーザクセン戦争は1625年から4年間にわたり起こった戦争。この戦いでは先の戦争で勝利した皇帝軍とプロテスタントの保護を目的に介入したデンマーク王クリスチャン4世が刃を交えることに。それでは経過を見ていきましょう。

3-1 侵攻する皇帝軍

こうして先の戦争に勝利した皇帝側は、更に再カトリック化を目論んでバイエルンと共に北ドイツを侵攻しました。北ドイツといえば多くのプロテスタント達がいる地域。この侵攻に対してルター派(プロテスタント)のデンマーク王クリスチャン4世プロテスタントの保護を目的に参戦しました。

これに対しフェルディナントはボヘミアの軍人ヴァレンシュタインを起用。彼はボヘミア出身の貴族でもともとはプロテスタント。しかしカトリックに改宗していました。ヴァレンシュタイン率いる傭兵軍とバイエルンのティリー率いる連盟軍の活躍によって勝利することに。

3-2 ヴァレンシュタインとは?

ここではより詳しくヴァレンシュタインについて見ていきましょう。彼は軍人でもありましたが、同時に軍事起業家の顔も。ボヘミアの動乱の際には資産を活用して大土地主となり、傭兵業も手掛けます。当時の戦争の主流は傭兵を雇うのが当たり前の時代。彼は数万もの傭兵を用意していました。しかし大勢の傭兵を維持するために戦場で得た財貨を収奪したため、多くの人々から恨まれることに

フェルディナントから見れば、傭兵を雇うことは膨大なコストがかかる上に自由に使えないことが問題となることに。更に独断で行動されることもあったため、忠誠心に欠けることも問題視されるようになりました。

3-3 再カトリック化を目指し勅令を出す

更に勢いついたフェルディナントは1629年に復旧勅令を出しました。これは1552年のパッサウ条約の後にプロテスタントのものとなったカトリックの教会領を返還することやプロテスタントを禁止するという内容。この勅令は不評を買い、フェルディナントは宗派を問わず激しい反発を受けることに。

4 スウェーデン戦争

1630年から5年間にかけて起こったスウェーデン戦争。この戦争はデンマーク・ニーダーザクセン戦争で勝利したフェルディナントが復旧勅令を出したことで多くの人々から反発を受けて起こった戦争でした。それでは経過を見ていきましょう。

4-1 ヴァレンシュタインの罷免

激しい反発を受けたフェルディナントはこの勅令の撤回とヴァレンシュタインの罷免まで求められることに。ヴァレンシュタインは先の戦争で大きな成果をもたらしましたが、一方で独断行動が目立ち始めます。フェルディナントは彼を警戒するようになり、ヴァレンシュタインを罷免しました。

4-2 スウェーデン戦争勃発

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Johann Walter自ら撮影 〜によって Rama, 2010年, パブリック・ドメイン, リンクによる

このような情勢の中、野心家のスウェーデン王グスタフ・アドルフが参戦することに。グスタフの巧みな指揮のもとブライテンフェルトの会戦などで連勝を重ねていくことに。これに焦ったフェルディナントはすぐにヴァレンシュタインを起用。そして1632年のリュッツェンで衝突することに。ここではスウェーデンに軍配が上がりましたが、グスタフが戦死。これによってスウェーデン軍、プロテスタント勢力が統制を失う事態となることに。

4-3 ヴァレンシュタインの裏切り

これでフェルディナント側の優勢になるかと思いきや…。こちらも内部に問題を抱えていました。なんとヴァレンシュタインがフェルディナントを裏切り、処刑されることに。こうして両陣営とも問題を抱えることになりましたが、カトリック勢力の方がいち早く立て直すことに成功。フェルディナントはスペインからの援助を受け、1634年のネルトリンゲンの会戦で大勝することに。こうして長きに渡った戦争が終結するかにみえたところでフランスが介入してきました。

5 ヨーロッパの覇権をかけて フランス・スウェーデン戦争

長きにわたり繰り広げられた三十年戦争。しかしやっとここで終止符が打たれるかに見えました。ところが戦況を見守っていたフランスがついに直接介入することに。ここからはヨーロッパの覇権をかけた戦いとなっていきます。それでは見ていきましょう。

5-1 フランスの直接介入

これまでのフランスはデンマークやスウェーデンに対しこっそりと援助していました。しかしハプスブルク家の勝利が目前となったところで、フランスがスペインに宣戦布告し参戦することに。しかしなぜフランスは同じカトリックであるフェルディナントに刃を向けたのでしょうか

フランスの宰相リシュリュー「国家理性(レゾン・デタ)」を政策として掲げていました。これは国家の利益が最も大事とする考えで、場合によっては宗教や倫理的な問題は多少犠牲にしても仕方ないとする考え方。この考え方からハプスブルク家からヨーロッパの覇権を奪うため直接介入したのでした。

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フランスはブルボン朝の以前の王朝、ヴァロワ朝の時代からハプスブルク家と覇権を争っていたんだ。その時はハプスブルク家のカール5世(スペイン王としてはカルロス1世)とフランス王フランソワ1世イタリアの覇権を巡って争い、パヴィアの戦いでカールが勝利したんだ

5-2 長引く戦争

フランス・スウェーデン戦争では当初はフェルディナント側が優勢でしたが、次第に劣勢に立たされることに。しかしなかなか決着がつかなかったため、戦争は泥沼化していきました。そのため次第に厭戦気分が高まり、多くの諸侯らは戦争から離脱。フェルディナントの味方だったスペインは、カタルーニャの蜂起やフランスからの攻撃、更にポルトガルの独立によって苦しい戦況に陥ります。更にフェルディナント2世は1637年に亡くなり、彼の後継に息子のフェルディナント3世が即位することに。

そうした中で和平を望む声が高まったことから1640年代にドイツのミュンスターとオスナブリュックで和平交渉が始まりました。

6 ウェストファリア条約

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ヘラルト・テル・ボルフ – www.geheugenvannederland.nl : Home : Info : Pic, パブリック・ドメイン, リンクによる

30年にも及ぶ長い戦争がついに終わりを告げました。三十年戦争での最終的な勝者は、フランスとスウェーデン。神聖ローマ皇帝の敗北でした。ちなみにこの時条約を結ばなかったフランスとスペインはこの後も戦争をすることに。それでは詳細を見ていきましょう。

6-1 2つの条約からなるウェストファリア条約

三十年戦争の講和条約は8年間もの時間を費やして三十年戦争後の交渉されました。しかしその間にも多くの犠牲が払われることに。主戦場となったドイツは大ダメージを受け、土地は荒廃。人口は400~500万人もの人々が亡くなりました。(これについては当時ペストが流行したためこれほどまでの被害になったとも)

さてウェストファリア条約ですが、ミュンスター条約(フランスとの間に結んだ条約)とオスナブリュック条約(スウェーデンと結んだ条約)の2つからなるもの。では内容はどのようなものだったのでしょうか。

6-2 条約の内容

まず宗教についてはカトリックとルター派の他に新たにカルヴァン派も承認されることに。そして神聖ローマ皇帝の権限が制約され、帝国内の重要な案件については帝国議会に諮ることが義務付けられました。更に諸侯らは領邦高権を認められることに。しかしその後100年間ほどは神聖ローマ皇帝を盟主とするこの形態は機能していました。

そしてスイスとオランダは独立が正式に承認されることに。また戦勝国であるフランスにはアルザスなどドイツの西部の領土が、スウェーデンには西ポンメルンなどドイツの北部の領土が与えられることになりました。ちなみに神聖ローマ皇帝は条約を結ばなかったスペインに対して援助することは禁止されることに。(フランスとスペインはその後ピレネー条約を結び終戦しました。)

宗派の対立だけではなかった三十年戦争

三十年戦争は神聖ローマ帝国内の宗教対立や兄弟争いからの政治情勢の不安定が背景にありました。そんな中でマティアスの従弟のフェルディナントが王位に即位し、プロテスタントに対して弾圧を行うことに。そして窓外放擲事件が引き金となって戦争が起こりました。

当初はカトリック勢力とプロテスタント勢力の争いから、次第にヨーロッパの覇権をかけたものとなっていくことに。こうして最大にして最後の宗教戦争は、同じカトリック国のフランス(とプロテスタントのスウェーデン)が勝利し、その後のヨーロッパ社会を牽引していくことになりました。敗れたオーストリア・ハプスブルク家及びスペイン・ハプスブルク家は後退していくことに。かつて栄華を極めたカール5世の時代の歴史を知る者としてはハプスブルク家の敗北は盛者必衰のようで少し寂しいものを感じます。

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