室町時代戦国時代日本史歴史

武士と農民を分けた身分制度「兵農分離」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は兵農分離(へいのうぶんり)について勉強していきます。「戦う=武士」、「農業=農民」のイメージがありますが、そう明確に分けられたのは戦国時代に入ってからになる。

それまでは武士と農民の差はほぼ皆無、時には農民が武器を持つこともあったのです。そこで、今回は武士と農民を分けた兵農分離について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から兵農分離をわかりやすくまとめた。

兵農分離とはどのような制度なのか

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兵農分離の目的1. 戦いと農業の常備軍の確保

兵農分離とは文字から連想できるとおり武士と農民の身分を分けることで、その目的は軍事面や経済面においての効率を高めるためです。兵農分離が行われたのは戦国時代で、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など歴史に名を残す戦国武将が実施した政策として有名ですね。

最も、徳川家康の江戸時代ではこうした身分の分別として士農工商を連想しますが、近年では士農工商はなかったと考えられています。兵農分離を行った理由は2つあり、まず1つ目に戦いと農業における常備軍を確保することです。兵農分離が行われる以前、武士と農民の区別は特にありませんでした。

そのため農民が武器を持って戦うこともあり、むしろ農民の中からも兵士を集めていたのです。しかし、そうなると農業が手薄になってしまうため収穫に影響、戦国大名ですら収穫の時期には収穫目的で領地に戻っていくほどでした。そこで兵農分離を行って農業の常備軍を確保、また戦いの常備軍を確保することで常に武士が訓練できる状態にしたのです。

兵農分離の目的2. 農民による一揆対策

兵農分離を行った2つ目の理由は農民による一揆対策です。戦国時代では一揆が頻発しており、農民相手とは言え戦国大名ですら時には追い詰められるケースもありました。特に農民と一向宗(一向俊聖が創めた仏教宗派)が中心となる一向一揆には織田信長や徳川家康も苦労したようです。

しかし、そんな一揆も武器がなければ起こしようがなく、例え起こったとしても鎮圧させるのは容易でしょう。そこで戦う必要のない農民から武器を奪うことを考えるのですが、問題なのは武器を持つ人物を見て武士なのか農民なのかが分からないことです。

そのため兵農分離を行ってひとまず武士と農民を明確に分けておき、その上で農民から武器を取り上げるようにしました。その政策は刀狩りが有名で、その影響で「兵農分離を行った人物=豊臣秀吉」のイメージが強い人が多いのではないでしょうか。

兵農分離によって行われた秀吉の刀狩り

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\次のページで「農民から武器を奪った刀狩り」を解説!/

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