今日は御恩と奉公(ごおんとほうこう)について勉強していきます。武士の社会では、トップに立つ将軍と仕える御家人の主従関係の確立が大切、それができない将軍は反乱で討たれてしまうでしょう。

鎌倉時代は主従関係を御恩と奉公によって確立させていて、イコールそれは鎌倉幕府の代表的な政策にも該当する。そこで、今回は御恩と奉公について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から御恩と奉公をわかりやすくまとめた。

そもそも「御家人」とは何なのか

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鎌倉時代における御家人

御恩と奉公を理解するには、まず御家人を理解しておかなければなりません。実際、武士と御家人の使い分けが難しいと感じる人も多いでしょうし、また鎌倉時代における御家人と江戸時代における御家人の立場には若干異なる部分もあり、実は少々複雑になっているのです。

御家人の誕生は、鎌倉時代に将軍と主従関係を結んだ武士を御家人と呼んだことが始まりで、この主従関係は今回のテーマである御恩と奉公によって結ばれていました。正確に言うと、鎌倉時代以前にも主に仕える武士は存在していましたが、当時その武士は家人と呼ばれています。

しかし、鎌倉幕府の成立後は将軍の家人となった武士に対して御家人と呼ぶようになり、同時にそれは身分を示す呼び方にもなりました。ちなみに、御家人になるためには将軍に名簿(みょうぶ)の提出と見参の礼をとることが必要で、これは現代の言葉で例えるなら手続きの際に必要となる本人確認のようなものですね。

江戸時代における御家人

さて、江戸時代になると御家人の概念が少々複雑になってきます。江戸時代における御家人とは将軍に仕える家臣の中でも10000石未満の者で、なおかつ将軍に謁見できない者を御家人と呼びました。一方で、10000石未満の家臣でも将軍に謁見できた者を旗本と呼びます。

謁見とは将軍にお目見えできることを意味しますから、その点から立場が「旗本>御家人」となるのが分かりますね。では10000石以上の武士はどう呼ばれていたのか?……それは大名です。ちなみに「石」とは石高……それは管理する土地で取れる米の収穫高を示すもので、「1石=およそ180リットル」ほどの計算になります。

当然土地が広ければそれだけ米の収穫高は上がりますから、「石高の高い武士=領地を広く持つ武士=位が高い武士」ということです。これらの内容から分かるとおり、江戸時代における御家人は武士の中でも下級武士の扱いで、鎌倉時代の御家人とは立場が違うと解釈できるでしょう。

御恩と奉公の仕組み

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将軍から御家人へ御恩、御家人から将軍へ奉公

では、御恩と奉公について説明しましょう。鎌倉時代の将軍と御家人は御恩と奉公の主従関係で結ばれており、御恩は将軍から御家人へ、奉公は御家人から将軍へと与えられるものでした。御恩は本領安堵と新恩給与のことで、「本領安堵=御家人の土地の支配権の保証」、「新恩給与=功績に応じた新たな土地の分与」です。

つまり将軍は仕える御家人に対して土地を与え、土地を与えられた御家人は将軍のために働く。さらに御家人は将軍のために働いて功績をあげ、将軍は御家人の功績に応じてまた新たな土地を与える。「与える=御恩」、「働く=奉公」と言葉を置き換えれば分かりやすいと思います。

ちなみに、現代社会の仕組みも御恩と奉公に似た部分がありますね。会社の社長は働く社員に給与を与え、給与を与えられた社員は会社のために働く。そして会社に多くの利益をもたらした社員ほど多くの給与が与えられる……現代社会においてこれは当然のことですが、御恩と奉公にも同じことが言えるでしょう。

御恩と奉公の問題点

主従関係と表現するとその関係は絶対的なイメージがありますが、実際にはそこまでのものではなかったようです。仕える御家人にとって、奉公は命をかけてでも服従するものではなくあくまで御恩を得るためのビジネスであり、つまり御恩を目的とした奉公でした。

最も、建前としては「御家人は将軍のために命がけで戦って尽くすべき」とされていますが、それも御恩があることが前提であり、それがなければ御家人にとってタダ働き同然です。ですから、御恩と奉公の成立がなければ将軍と御家人の主従関係は成り立たないでしょう。

さて、この御恩と奉公は一見よくできたシステムに思えますが、実は大きな欠陥がありました。それは御恩の土地の与え方の問題で、戦いの勝者に与える土地は敗者から奪った土地なのです。つまり敗者から土地を奪えなければ勝利に御恩を与えられず、それが鎌倉幕府滅亡につながっていくのでした。

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元寇が招いた御恩と奉公の崩壊

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モンゴル帝国の襲来

鎌倉時代の中頃、世界の情報に目を向けてみるとそこには急速に勢力を伸ばすモンゴル帝国の存在がありました。中国大陸だけでなくヨーロッパも領土としたモンゴル帝国は、当時その規模も強さも史上最大の帝国と呼ばれており、そんなモンゴル帝国は日本に目をつけて日本侵略を表明します。

一方の日本、源頼朝から始まった鎌倉将軍も3代目将軍・源実朝が既に死去しており、幕府の実権は将軍以上に執権の北条氏が代々握っていました。日本征服を企むモンゴル帝国でしたが当時の執権・北条時宗も気丈な対応で返し、やがてモンゴル帝国は大軍勢で日本に攻めこんできます。

1274年の文永の役、1281年の弘安の役、元寇と呼ばれる2度ものモンゴル帝国の襲来に対して日本は武士の活躍や天候の味方もあって勝利。見事モンゴル帝国を追い払って侵略の危機を回避したものの、命がけの軍役に就いた御家人達から洩れたのは不満の声の数々でした。

御恩と奉公が成立しない戦い

これまでの日本の戦いの類は内戦であり、つまり国内で武士同士が争うケースが専らでした。しかし元寇での敵は外国となるモンゴル帝国で、日本の武士は一致団結して戦っています。ここで問題なのが、外国であるモンゴル帝国を倒しても御恩を得られないという点です。

何しろ御恩で与えられるのは所領……すなわち土地ですが、まさかモンゴルの地域を奪うわけにもいきません。敗者の土地を奪って勝者に与えるシステムである御恩では、外国と戦った元寇の場合は成り立たせようにも成り立たせられないものだったのです。

日本を守るためとは言え、御恩を得られなかった御家人にとって元寇は負担がかかっただけの戦いでしかありません。そこで幕府は徳政令で御家人の借金を解消したものの、今度はお金を貸した商人の不満を招くことになり、解決の見えない事態に幕府への不満は高まっていったのです。

鎌倉幕府の滅亡

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\次のページで「再びの天皇中心の政治を望む後醍醐天皇」を解説!/

再びの天皇中心の政治を望む後醍醐天皇

主君に尽くして奉公しても御恩が得られなかった元寇、御恩と奉公の問題点が浮上したことをきっかけに、鎌倉幕府は少しずつ失墜へと向かっていきます。平氏・源氏と武家政権が続いてきた中、再び天皇中心の政治を取り戻そうと朝廷の後醍醐天皇が立ち上がったのです。

最も、後醍醐天皇は以前から個人的に幕府を嫌っており、そのため幕府の信頼が揺らいだ現状を見て倒幕のチャンスだと考えたのでしょう。しかし、そんな倒幕も事前に計画が洩れてしまったことで失敗、それでも後醍醐天皇は倒幕への思いを捨てきれませんでした。

そこで二度目の倒幕計画を立てますが、それも計画が幕府に洩れてしまったため、今度は失敗しただけではなく島流しにされてしまいます。天皇が島流しにされるのは異例中の異例であり、ちなみに一度目の倒幕計画は正中の変、二度目の倒幕計画は正弘の変と呼ばれるものです。

鎌倉幕府の滅亡と建武の新政の失敗

後醍醐天皇は島流しにされてもなお倒幕を諦めていませんでした。そしてその頃、各地で幕府に不満を持つ武士達が相次いで倒幕のための兵をあげるようになります。また後醍醐天皇も島から自力で脱出すると味方を集めて倒幕のために挙兵、当然幕府にこれに対抗しようとしました。

しかし、幕府側であるはずの足利尊氏が寝返って後醍醐天皇に味方するなど、幕府の兵力ではもはや太刀打ちできず、最後は新田義貞が鎌倉へと攻め込んで幕府を滅亡させたのです。それは1333年のことですが、ただここまで倒幕派が増えた要因は、やはり元寇による恩賞不足にありました。

最も、その後行われた後醍醐天皇の建武の新政は鎌倉幕府以上に評判は悪く、まるで公家専用の社会に思える貴族の優遇は多くの武士から批判されます。足利尊氏がやがて室町幕府を開くことは既に知っているでしょうが、それは後醍醐天皇に失望したゆえにとった行動でした。

御恩と奉公以外の鎌倉幕府の政策

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\次のページで「守護・地頭の設置」を解説!/

守護・地頭の設置

守護・地頭とは地方の国々に設置した役職のことで、一般的に「守護・地頭の設置=鎌倉幕府の成立」と見なされています。源頼朝は地方の諸国に守護・地頭を設置して、守護には軍事や警察の役割、地頭には荘園や公領の管理と年貢の徴収を命じました。

それぞれの役割から予想できるとおり、守護は各国ごと、地頭は荘園や公領ごとに置かれています。源頼朝は全国支配のため各地に守護・地頭の設置を考えましたが、全国支配を目的とした設置に朝廷が許可を出すはずはなく、そのため当時争っていた源義経を探すことを口実に朝廷からの許可を得ました。

これによって幕府は朝廷の勢力が強かった地域にも勢力が及ぶようになり、支配体制をより強めることに成功しています。最も、こうした設置は元々朝廷による国司の派遣に等しく、そのため国によっては朝廷と幕府の二重支配が問題となったようです。また、室町時代になると有力な守護は守護大名へと成長しました。

御成敗式目の制定

御成敗式目とは武家法……つまり武士のための法律です。日本の歴史の中では他にも分国法や武家諸法度などの武家法が存在しますが、日本で最初に制定された武家法は御成敗式目でした。制定されたのは1232年ですから、鎌倉幕府が誕生してから少々先になります。

制定の中心となった人物は当時の執権・北条泰時で、武士の台頭によって頻繁に起こるようになった御家人同士のトラブル解決を目的に御成敗式目が作られました。こうした争いでは裁判が必要ですが、公平な裁判を行うためにはそのための基準が必要になるでしょう。

そこで北条泰時は裁判の基準を明確にするため御成敗式目を制定、そこには土地の支配権に関連することも明確に示されていました。また、御成敗式目では上記で説明した守護・地頭の役割についても示されており、武士限定の法律とは言え、御成敗式目は当時の日本の法律に大きな影響を与えています。

まず奉公する立場である御家人を理解しよう!

御恩と奉公を理解するには、まず御家人を理解することです。御家人になるためには名簿を捧げて将軍に見参する必要がありますが、この部分については教科書でも解説されていないことがあるため、ここでしっかり覚えておきましょう。

ちなみにイメージとしては手続きにおける本人確認だと解釈すれば良いですよ。また、御恩では土地が与えられるという点を理解しておくのも重要で、そうすれば元寇で御家人の不満が起きた理由も自然と理解できるでしょう。

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日本史歴史鎌倉時代

将軍と御家人の主従関係を成立させた「御恩と奉公」元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は御恩と奉公(ごおんとほうこう)について勉強していきます。武士の社会では、トップに立つ将軍と仕える御家人の主従関係の確立が大切、それができない将軍は反乱で討たれてしまうでしょう。

鎌倉時代は主従関係を御恩と奉公によって確立させていて、イコールそれは鎌倉幕府の代表的な政策にも該当する。そこで、今回は御恩と奉公について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から御恩と奉公をわかりやすくまとめた。

そもそも「御家人」とは何なのか

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鎌倉時代における御家人

御恩と奉公を理解するには、まず御家人を理解しておかなければなりません。実際、武士と御家人の使い分けが難しいと感じる人も多いでしょうし、また鎌倉時代における御家人と江戸時代における御家人の立場には若干異なる部分もあり、実は少々複雑になっているのです。

御家人の誕生は、鎌倉時代に将軍と主従関係を結んだ武士を御家人と呼んだことが始まりで、この主従関係は今回のテーマである御恩と奉公によって結ばれていました。正確に言うと、鎌倉時代以前にも主に仕える武士は存在していましたが、当時その武士は家人と呼ばれています。

しかし、鎌倉幕府の成立後は将軍の家人となった武士に対して御家人と呼ぶようになり、同時にそれは身分を示す呼び方にもなりました。ちなみに、御家人になるためには将軍に名簿(みょうぶ)の提出と見参の礼をとることが必要で、これは現代の言葉で例えるなら手続きの際に必要となる本人確認のようなものですね。

江戸時代における御家人

さて、江戸時代になると御家人の概念が少々複雑になってきます。江戸時代における御家人とは将軍に仕える家臣の中でも10000石未満の者で、なおかつ将軍に謁見できない者を御家人と呼びました。一方で、10000石未満の家臣でも将軍に謁見できた者を旗本と呼びます。

謁見とは将軍にお目見えできることを意味しますから、その点から立場が「旗本>御家人」となるのが分かりますね。では10000石以上の武士はどう呼ばれていたのか?……それは大名です。ちなみに「石」とは石高……それは管理する土地で取れる米の収穫高を示すもので、「1石=およそ180リットル」ほどの計算になります。

当然土地が広ければそれだけ米の収穫高は上がりますから、「石高の高い武士=領地を広く持つ武士=位が高い武士」ということです。これらの内容から分かるとおり、江戸時代における御家人は武士の中でも下級武士の扱いで、鎌倉時代の御家人とは立場が違うと解釈できるでしょう。

御恩と奉公の仕組み

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将軍から御家人へ御恩、御家人から将軍へ奉公

では、御恩と奉公について説明しましょう。鎌倉時代の将軍と御家人は御恩と奉公の主従関係で結ばれており、御恩は将軍から御家人へ、奉公は御家人から将軍へと与えられるものでした。御恩は本領安堵と新恩給与のことで、「本領安堵=御家人の土地の支配権の保証」、「新恩給与=功績に応じた新たな土地の分与」です。

つまり将軍は仕える御家人に対して土地を与え、土地を与えられた御家人は将軍のために働く。さらに御家人は将軍のために働いて功績をあげ、将軍は御家人の功績に応じてまた新たな土地を与える。「与える=御恩」、「働く=奉公」と言葉を置き換えれば分かりやすいと思います。

ちなみに、現代社会の仕組みも御恩と奉公に似た部分がありますね。会社の社長は働く社員に給与を与え、給与を与えられた社員は会社のために働く。そして会社に多くの利益をもたらした社員ほど多くの給与が与えられる……現代社会においてこれは当然のことですが、御恩と奉公にも同じことが言えるでしょう。

御恩と奉公の問題点

主従関係と表現するとその関係は絶対的なイメージがありますが、実際にはそこまでのものではなかったようです。仕える御家人にとって、奉公は命をかけてでも服従するものではなくあくまで御恩を得るためのビジネスであり、つまり御恩を目的とした奉公でした。

最も、建前としては「御家人は将軍のために命がけで戦って尽くすべき」とされていますが、それも御恩があることが前提であり、それがなければ御家人にとってタダ働き同然です。ですから、御恩と奉公の成立がなければ将軍と御家人の主従関係は成り立たないでしょう。

さて、この御恩と奉公は一見よくできたシステムに思えますが、実は大きな欠陥がありました。それは御恩の土地の与え方の問題で、戦いの勝者に与える土地は敗者から奪った土地なのです。つまり敗者から土地を奪えなければ勝利に御恩を与えられず、それが鎌倉幕府滅亡につながっていくのでした。

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