今回はジェーン・シーモアを取り上げるぞ。ヘンリー8世の6人中3番目の王妃だって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ王室の歴史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパ王室の歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ジェーン・シーモアについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ジェーン・シーモアはイギリスの生まれ

ジェーン・シーモアはジョン・シーモア卿の9人の子のうちの3番目の子として誕生。出生年ははっきりせず、1508年頃ということ。

シーモア家は古い家柄で、11世紀にウィリアム征服王に従ってイギリスに渡ったフランス貴族の血を引いていて、ジェーンの祖母アン・セイと、アン・ブーリンとキャサリン・ハワードの祖母エリザベス・ティルニーは異父姉妹、その母エリザベス・チェイニーが共通の曽祖母ということになり、ジェーンはヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリンとも、5番目の王妃キャサリン・ハワードとも、はとこの関係。

1-2、ジェーン、王妃キャサリンの侍女として宮廷に

父ジョンはヘンリー8世の信頼篤い寝室侍従だった関係で、8人の子供たちのうちの長男エドワード、次男トーマスと長女ジェーンの3人を宮廷に出仕させ、ジェーンは1532年、キャサリン・オブ・アラゴン王妃の侍女として仕えたのち、2人目の王妃アン・ブーリンの侍女となったということ。

2-1、ジェーン、ヘンリー8世に見初められる

Hans Holbein, the Younger, Around 1497-1543 - Portrait of Henry VIII of England - Google Art Project.jpg
ハンス・ホルバイン - bwFsEOEPkei3Lw at Google Cultural Institute, zoom level maximum, パブリック・ドメイン, リンクによる

1535年9月、ヘンリー8世はイングランド西部巡幸の途中で、シーモア家の邸宅のウルフ・ホールを訪問。このときに接待に出たジェーンが、控えめでもの静かな態度だったことでヘンリー8世は関心をもったそう。この頃は、ヘンリー8世は2番目の王妃アン・ブーリンと冷え切った関係になっていたとはいえ、ジェーンはヘンリー8世とは初対面のはずはなく、この時見初められたというのは伝説という説も。

尚、ジェーンが積極的にヘンリー8世の関心を得て愛人になろうとしたというよりも、シーモア家の父や兄たちの野心のため、ジェーンはヘンリー8世に差し出されたということのよう。

\次のページで「2-2、おとなしく物静かだったジェーン」を解説!/

2-2、おとなしく物静かだったジェーン

Hans Holbein d. J. 032b.jpg
ハンス・ホルバイン - Kunsthistorisches Museum Wien, Bilddatenbank., パブリック・ドメイン, リンクによる

ジェーンは目立った美貌の女性ではなく平凡な女性だったが、物静かで金髪、色白で控えめなタイプだったため、気が強く黒髪、結婚後はけんかや言い争いが絶えなかったアン・ブーリンへの気持ちがすっかり冷め、40代半ばとなっていたヘンリー8世には気持ちが安らぐ存在だったそう。

しかし、1536年、ジェーンがヘンリー8世の膝に乗っているのを見たショックでアンが流産した話や、ジェーンがヘンリー8世のプレゼントのペンダントを着けているのを見て激怒して首から引ったくった話もあるということ。

ヘンリー8世はジェーンに対し高価なプレゼントをし、ジェーンの2人の兄を出世させたので、ヘンリー8世のジェーンへの好意があからさまになったが、ジェーンは兄たちの指導で贈り物を返し、ヘンリー8世と2人きりにならないよう警戒、結婚前のアン・ブーリンをお手本に簡単になびかない態度を見せたということ。

2-3、ジェーン、アン・ブーリン王妃の処刑後すぐに結婚

ヘンリー8世はジェーンと結婚したいあまりに、すっかり愛が冷め切ったアン王妃を姦通、近親相姦、魔術行為、大逆罪の罪を着せて処刑。そして24時間喪に服したのち、翌日にはジェーンと婚約、2週間後に正式に結婚。しかしロンドンに伝染病が大流行していたことと、アン・ブーリン戴冠の先例もよくなかったということで、王妃としての戴冠式はなかったそう。

2-4、ジェーン、メアリー王女を呼び戻し家族だんらん

ジェーンはカトリック教徒だったからか、アン・ブーリン前王妃が追放したキャサリン王妃の遺児で同じくカトリック教徒のメアリー王女に同情的で、ヘンリー8世に20歳になっていたメアリー王女を宮廷に呼び戻すよう懇願し、アンの娘のエリザベス王女にも優しく接し、ヘンリー8世の宮廷は家族団らんの場に。ジェーンはアン・ブーリンとは違い、夫となったヘンリー8世にまったく逆らわない従順な妻だったということ。

2-5、ジェーン、待望の男子を出産

1537年、王妃ジェーンの妊娠が発表、ヘンリー8世は歓喜、ジェーンは男子であると確信し、お腹の子が欲しがっていると、好物のうずらをフランスから輸入させたり、高価な季節外れの果物を欲しがったりしたそう。

そして10月12日、2日3晩の難産の末、ジェーンはハンプトン・コート宮殿で待望の男子(後のエドワード6世)を出産。3日後の夜に行われた赤子の洗礼式には、上機嫌のヘンリー8世が長女メアリー王女を王子の代母に選び、アン・ブーリンの父トーマス・ブーリンや次女エリザベス王女らにも参列を許したということで、産後の肥立ちの悪いジェーンも、王家の紋章入りのソファーに横になったまま王宮内の礼拝堂に運ばれて出席。

これはヘンリー8世の祖母でヘンリー7世の母マーガレット・ボーフォートが、王妃は王室のすべての儀式に出席しなければならないと決めた王室の規則にのっとってのこと。ジェーンは未明までかかった儀式の疲れもあり、高熱を発したが、この時代は瀉血が行われる程度の治療しか行われず、産褥熱ともいわれるジェーンの容体は悪化の一途をたどって、10月24日深夜に死去。

2-6、ジェーン、ヘンリー8世の隣に埋葬

image by PIXTA / 6325284

ジェーンはヘンリー8世との結婚わずか1年5ヶ月後、出産の12日後に亡くなったということで、待望の男子を生んだだけでなく、ヘンリー8世が飽きる前に逝ったせいか、亡くなった後も王室の肖像画に家族として描かれるなど、好待遇を受けたということ。

ジェーンの遺体は防腐処置がされて11月12日まで安置、ヘンリー8世は世継ぎの男子を産んだジェーンへの感謝から、6人の王妃で唯一ウィンザー城の聖ジョーンズ・チャペルの王室霊廟でヘンリー8世の隣に埋葬することを許可。ジェーンの墓碑銘は「もう一つの不死鳥に命を与えるために亡くなった不死鳥」。

尚、ハンプトン・コート宮殿では、エドワード王子の誕生日にジェーンの幽霊が出るという話があるそう。

\次のページで「3-1、ジェーンの生んだエドワード王子のその後」を解説!/

3-1、ジェーンの生んだエドワード王子のその後

Edward VI Scrots c1550.jpg
Attributed to William Scrots - Scanned from tipped in color plate in Roy Strong, The English Icon: Elizabethan and Jacobean Portraiture, 1969, Routledge & Kegan Paul, London. Original in the Royal Collection., パブリック・ドメイン, リンクによる

ジェーンが命をかけて生んだ王子はその後どうなったか、ご紹介しますね。

3-2、ひ弱説と健康説

エドワード王子は父ヘンリー8世からの先天性梅毒により、幼い頃から病弱だった説と、4歳のときに四日熱型マラリアにかかったが、その後は視力が弱かったものの、特に問題なく健康的で運動も得意な子に育った説あり。

そして6歳ころまでは4歳年上の異母姉のエリザベス王女と一緒に育てられ、幼い頃から賢いと評判の高かったエリザベス王女と競争して勉学に励み、ギリシャ語、ラテン語、フランス語、 神学に興味を持ち、歌やリュートの吹き方を習うなどの音楽の勉強にも熱心だったということ。

3-3、父ヘンリー8世の6番目の王妃キャサリンに養育される

ヘンリー8世の6番目にして最後の王妃はサー・トーマス・パーの娘でキャサリン・パー、16歳で最初の結婚後に夫が病死、21歳で2度目の結婚をするもまた夫が病死(二人の夫はかなり年上の人)、その後、宮廷に出入りしていてヘンリー8世に見初められ(交際していたジェーン・シーモアの兄トーマスを海外に飛ばして)、求婚されて1543年に31歳で結婚。

キャサリンはかなりの教養の高い女性として有名で、王妃になってからは、当時庶子の身分にされていたメアリー王女(後のメアリー1世)とエリザベス王女(後のエリザベス1世)の姉妹を、王位継承権保持者の地位に戻すことをヘンリー8世に嘆願、これは1543年の第三王位継承法制定のきっかけになったということ。

そしてヘンリー8世に、エリザベス王女とエドワード王子の養育を任され、知性的なキャサリン王妃は3歳年下のメアリー王女にも、もちろんエリザベス王女とエドワード王子にも敬愛され、よい影響を与えたということで、母がカトリックだったエドワード王子はプロテスタント派になったのも、継母キャサリン王妃の影響が大きかったためだということ。

またエドワード王子は幼いころから詳細な日記をつけていたのが残っているため、貴重な資料となっているそう。

3-4、エドワード王子、9歳で即位

1547年1月28日ヘンリー8世が55歳で死去。エドワード王子が9歳でエドワード6世として即位。ヘンリー8世は、幼い息子を摂政が操ることを警戒して、複数の顧問に集団で補佐させるよう遺言をしたが、ジェーンの兄でエドワード6世の伯父エドワード・シーモアが握りつぶして、エドワード6世の即位直前にサマセット公爵位を創設、護国卿(摂政)に就任。

また、ヘンリー8世は生前、エドワードとスコットランド女王のメアリー・ステュアートとの結婚で、スコットランドをイングランド管理下にと構想していたため、護国卿となったエドワード・シーモアは、スコットランドに攻め込んでメアリー女王の拉致を計画するも、1548年、メアリー女王の母でスコットランドの摂政皇太后、フランス王族でもあるメアリー・オブ・ギーズがメアリーをフランスへ送り、フランスのアンリ2世の息子の王太子フランソワ(フランソワ2世)とメアリーを結婚させたので、この計画は頓挫。

3-5、ジェーンの次兄の失脚

ジェーンのもう一人の兄トーマスは、ヘンリー8世との結婚前から付き合っていたキャサリン・パー王妃と、ヘンリー8世死去の年に結婚。トーマスはキャサリンの屋敷に移り住んだが、同居していたエリザベス王女にもちょっかいを出し、妊娠したキャサリンが二人の関係を疑ってエリザベス王女を追い出し、キャサリンは出産後に死亡。

トーマスはキャサリンの莫大な遺産を相続、さらにエリザベス王女との再婚を画策したが、エリザベス王女は拒否。

またトーマスは兄の護国卿の権力をうらやみ、幼い甥エドワード6世に近づいて好意を得て意のままに操ろうとしたために、兄が気付いて近づけないようにしたとか、兄がスコットランドに攻め入っている間、海軍卿のトーマスは海賊と結んで反乱の準備を行ったり、造幣局の役人と共謀して裏金から軍資金をため込んだりという陰謀が露見し、大逆罪で有罪となり斬首されたということ。

3-6、長兄も失脚

護国卿、摂政として実権を握っていたジェーンの長兄のサマセット公エドワードは、カトリック勢力を枢密院から追い出したり、議会に働きかけて六信仰箇条法などプロテスタント迫害に利用された諸法を廃止、また1549年にイングランド西部でのカトリックの反乱を軍隊をもって鎮圧など、プロテスタントとしてヘンリー8世時代末に後退したプロテスタント復興を目指していたが、農民の反乱に理解を示したことで地主である貴族階級の反発を買うように。

そのうえに、弟トーマスの陰謀発覚、処刑などで政敵のノーサンバランド公ジョン・ ダトリーが台頭、ノーザンバランド公は、サマセット公エドワードを枢密院で糾弾することを画策。サマセット公エドワードは事前に察知して民衆に向けて布告、国民を味方につけようとし、ラッセル卿の支持を得ようと手を回していたが失敗。

1549年10月に逮捕されて、ロンドン塔に投獄。 一時釈放されるが、完全に権力を掌握したノーザンバランド公によって再逮捕され、捏造された罪状で裁判にかけられて大逆罪で有罪となり、1552年1月に処刑。

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3-7、エドワード6世、病身となり後継者をごり押しされる

1552年、護国卿エドワード・シーモアが反逆罪で処刑後は、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーが実権を握って、14歳のエドワード6世に政治教育を行ったが、すでに結核で余命いくばくもない状態に。

父ヘンリー8世は、1543年に継承順位をエドワード、メアリー(後のメアリー1世)、エリザベス(後のエリザベス1世)と制定してあったが、ノーザンバランド公は、エドワードが亡くなることを見越して、1553年5月、自分の6男ギルフォードをエドワード6世の従姉フランセス・ブランドンの娘ジェーン・グレイ(ヘンリー8世の妹の孫)と結婚させ、本来は継承順位が低いジェーンをプロテスタントであるために、エドワード6世に後継者に指名するように迫ったそう。

エドワードはノーザンバラント公の言うとおりの遺言をして、7月6日に15歳で死去。

3-8、ジェーン・グレイの9日女王の悲劇

image by PIXTA / 59492681

エドワード6世死去の4日後、枢密院はノーザンバランド公の筋書き通りジェーン・グレイを女王に推し、ノーサンバランド公はメアリー王女の身柄を拘束しようとしたが、メアリー王女は事前に身の危険を察知してロンドンを脱出。

7月10日にはジェーン・グレイがロンドン塔に入城、王位継承が公に宣言されたが、メアリー王女も13日にノリッジで即位を宣言したところ、メアリー王女の支持者が続々とつめかけて民衆蜂起となってロンドンに進軍。これを鎮圧しようとしたノーサンバランド公は惨敗した結果、19日には枢密院もメアリー王女支持を表明、ロンドンに入ったメアリー王女は改めて即位を宣言。

ノーサンバランド公とその子ギルフォード、舅と夫に利用されただけの16歳のジェーン・グレイはともに身柄を拘束、反逆罪で処刑されることに。

3-9、「王子と乞食」のモデル

そっくりな顔をした、身分は正反対の王子と乞食の少年が入れ替わってという有名な「王子と乞食」は、19世紀のアメリカの小説家マーク・トウェインが1881年に発表したものですが、モデルはエドワード6世ということ。

野心家の兄たちに利用されたが、平凡な癒し系だった女性

ジェーン・シーモアは貴族の女性として宮廷に仕えたが、自分で王妃になろうと野心的に立ち回ったのではなく、ごく控えめで目立たない女性だったが親兄弟によってヘンリー8世に差し出されたよう。

女たらしのヘンリー8世はすでに40代半ば、気が強く野心的な2番目のアン・ブーリンが自分の思った通りに男子を生まず、けんかばかりで氷点下まで愛が冷めてうんざりしていた、まさにそのときに物静かで落ち着いたジェーンが輝いて見えたのか、ヘンリー8世はジェーンに夢中に。

ヘンリー8世はジェーンと結婚したいがために、側近に命じて姦通罪などの罪を着せてアンを国王に対する大逆罪で処刑、そしてジェーンは待望の跡継ぎを生んだがすぐに死亡。

息子エドワードはヘンリー8世が亡くなったあとに9歳で即位しますが、ジェーンの長兄がヘンリー8世の遺言を握りつぶして摂政となって国政を牛耳り、次兄はそれをうらやんで兄に反逆して処刑、長兄は政敵に追われてこれまた処刑、息子エドワードも15歳で早世となり、ジェーンを利用したシーモア家の繁栄は日本の平安朝の藤原時代のように続かなかったのですね。

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エドワード6世を生んだ「ジェーン・シーモア」ヘンリー8世の3番目の王妃を歴女がわかりやすく解説

今回はジェーン・シーモアを取り上げるぞ。ヘンリー8世の6人中3番目の王妃だって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ王室の歴史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパ王室の歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ジェーン・シーモアについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ジェーン・シーモアはイギリスの生まれ

ジェーン・シーモアはジョン・シーモア卿の9人の子のうちの3番目の子として誕生。出生年ははっきりせず、1508年頃ということ。

シーモア家は古い家柄で、11世紀にウィリアム征服王に従ってイギリスに渡ったフランス貴族の血を引いていて、ジェーンの祖母アン・セイと、アン・ブーリンとキャサリン・ハワードの祖母エリザベス・ティルニーは異父姉妹、その母エリザベス・チェイニーが共通の曽祖母ということになり、ジェーンはヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリンとも、5番目の王妃キャサリン・ハワードとも、はとこの関係。

1-2、ジェーン、王妃キャサリンの侍女として宮廷に

父ジョンはヘンリー8世の信頼篤い寝室侍従だった関係で、8人の子供たちのうちの長男エドワード、次男トーマスと長女ジェーンの3人を宮廷に出仕させ、ジェーンは1532年、キャサリン・オブ・アラゴン王妃の侍女として仕えたのち、2人目の王妃アン・ブーリンの侍女となったということ。

2-1、ジェーン、ヘンリー8世に見初められる

Hans Holbein, the Younger, Around 1497-1543 - Portrait of Henry VIII of England - Google Art Project.jpg
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1535年9月、ヘンリー8世はイングランド西部巡幸の途中で、シーモア家の邸宅のウルフ・ホールを訪問。このときに接待に出たジェーンが、控えめでもの静かな態度だったことでヘンリー8世は関心をもったそう。この頃は、ヘンリー8世は2番目の王妃アン・ブーリンと冷え切った関係になっていたとはいえ、ジェーンはヘンリー8世とは初対面のはずはなく、この時見初められたというのは伝説という説も。

尚、ジェーンが積極的にヘンリー8世の関心を得て愛人になろうとしたというよりも、シーモア家の父や兄たちの野心のため、ジェーンはヘンリー8世に差し出されたということのよう。

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