今日は日本海海戦について勉強していきます。1904年、日本はロシアと日露戦争を始めて最終的に勝利しますが、日本の勝利を決定的にしたとされているのが日本海海戦です。

なぜならロシアは切り札であるバルチック艦隊が敗れてしまったからで、そこには日本軍の見事な作戦があった。そこで、今回は日本海海戦について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から日本海海戦をわかりやすくまとめた。

日露戦争が起こった原因

image by PIXTA / 44312671

遼東半島返還の要求

まず、そもそもなぜ日本とロシアは戦争することになったのでしょうか。その原因は1894年の日清戦争で、この戦争は文字どおり日本と清国の戦争ですからロシアは無関係なのですが、問題は戦後にありました。日清戦争で勝利したのは日本、そのため講和条約である下関条約は必然的に日本有利な内容となります。

その内容とは台湾、澎湖諸島、遼東半島を日本の領土とするもので、ただこれに反対したのがロシアでした。ロシアは日本に対して遼東半島を領土にするのは止めて返還するよう要求、なぜならロシアもまた遼東半島を狙っていたからで、そのため日本に遼東半島を渡したくなかったのです。

部外者が口を挟んできた上に何とも身勝手な要求。それでも日本がロシアの要求に応じたのは、ロシアがドイツ・フランスの三国がかりで日本に圧力をかけてきたためで、これを三国干渉と呼びます。日本は仕方なく遼東半島を返還、そしてその遼東半島をロシアが手に入れたため、納得できない日本はロシアへの敵対感情が高まっていきました

義和団事件後のロシアの影響力

日本はただ敵対感情を高めただけでなく、ロシアと戦争して勝利するための準備を静かに始めます。例えば、日清戦争の勝利によって日本は多額の賠償金を手に入れましたが、その大半を軍事費につぎ込んでおり、言うまでもなくそれは日本を強くしてロシアを倒すためでした。

さらに1902年にはイギリスとの間に日英同盟を成立させ、日本はイギリスという強力な仲間を手にすることになります。最も、イギリスもロシアとの関係は悪かったため、日英同盟はイギリスにとってもメリットの大きなものだったでしょう。そんな時、清国で大規模な内乱が発生して日本とロシアはその鎮圧へと向かいます。

その内乱とは1900年の義和団事件、ここに介入したロシアは満州での影響を強めることになり、その勢いで朝鮮に対しても乗り込みました。しかし、日本もまた朝鮮を手に入れようとしていたため、日本とロシアは対立はより深まって戦争が避けられない事態へとなったのです。

旅順攻略のための戦い

image by PIXTA / 1803191

\次のページで「日本が勝利するための必須条件」を解説!/

日本が勝利するための必須条件

準備万端とした日本は日露協商を破綻させ、1904年にロシアに対して宣戦布告したことで日露戦争が始まりました。日本海海戦に至るまでには様々な戦いが起こり、またその様々な戦いが日本海海戦に関係してきます。日露戦争は日本とロシアの戦争ですが、戦いの主な舞台となったのは満州南部や遼東半島でした

戦争開始直後、日本は韓国を自身の影響下に置き、また朝鮮の確保にも成功して幸先の良いスタートを切るものの、日本にとって本番はここからです。ロシアの重要補給地点となっている旅順、日本が戦争に勝利するためには絶対にこの場所を占領する必要がありました。

日本は作戦として旅順港を封鎖してロシアの補給手段を断ち切ろうと考えますが失敗。しかもロシアが誇る世界最強艦隊であるバルチック艦隊が旅順に向かっているとの情報を得たため、その前に旅順を占領しようと総攻撃を決断、しかしこの総攻撃も失敗してしまいます。

乃木希典の狙い

そもそも旅順は要塞のごとく攻略が難しく、そのため総攻撃によって大量の戦死者を出してしまう始末でした。とは言え、勝利のためには旅順の占領は必須であり、そこで軍人の乃木希典は旅順の近くに見える203高地と呼ばれる丘に目をつけ、戦死者を増やしながらも何とか203高地の確保に成功します。

こうまでして乃木希典が203高地に狙いを定めたのは、地形の高さが理由です。丘である203高地は旅順と比較して地形が高く、そのため確保に成功すれば上から旅順を砲撃できるようになり、確実に有利に戦闘を進められます。そして、そんな乃木希典の作戦は見事に成功しました。

丘の上からの砲撃は要塞と化した旅順の攻略も可能にさせ、ロシア軍の降伏によってとうとう日本軍は旅順を占領したのです。ただそのために被害は大きく、日本軍だけで60000人もの戦死者を出す事態となり、乃木希典の息子達もその中に含まれていました。

ロシアの切り札・バルチック艦隊

image by PIXTA / 22473136

60万人が戦った奉天会戦

旅順を占領したことで、例えバルチック艦隊が旅順港にやってきてもそこは日本軍だらけ……ロシア軍への補給はできません。俄然有利になった日本は次に満州確保を目的として、24万人もの大軍を投入して奉天に攻め入ります。奉天もまたロシア軍の拠点であり、当然反撃してきたためここでも戦闘が起こりました。

これが奉天会戦と呼ばれるもので、ロシア軍はここで予備軍まで投入して日本軍を攻撃します。ロシア軍の猛攻に崩壊寸前となった日本軍でしたがなおも前進、そのためロシア軍の司令官もついには撤退を指示。日本軍は奉天の占領に成功しましたが、撤退はさせただけで撃破はできず、戦争の決着には至りませんでした

奉天会戦に参加したのは日本の陸軍24万人とロシア軍36万人、両国あわせて60万人が戦った奉天会戦は世界史上でも稀に見る大規模な会戦と言われています。この時、アメリカのルーズベルト大統領が日本の依頼を受けて和平交渉を始めますが、これに対してロシアは拒否しました。

ロシアのバルチック艦隊への期待

旅順を占領され、奉天も占領されたロシアは戦況から判断して明らかに劣勢、それでも和平交渉を望まなかったのはロシアにはまだ切り札があったからです。その切り札とは当時最強と謳われたバルチック艦隊、しかしバルチック艦隊は旅順には現れず、今度はウラジオストクに入港するとの情報が入ります。

既に陸軍はお互い消耗しきっていて作戦継続が困難な状態。しかしバルチック艦隊の入港を許せばロシア軍に補給が入るため、日本は連合艦隊を使って日本海にてバルチック艦隊と戦うことを決断します。こうして起こる戦いが日本海海戦であり、つまり日本海海戦は日露戦争の勝敗を決める戦いにもなったのです。

日本の連合艦隊の艦長である東郷平八郎は、バルチック艦隊に勝利するための策を考えます。バルチック艦隊は確かに強く、もしかすると本来の力を発揮できていれば日本の連合艦隊も敗れていたかもしれません。しかし実際に勝利したのは日本の連合艦隊で、その勝因の一つに挙げられるのが日英同盟の成立でした。

\次のページで「日本海海戦」を解説!/

日本海海戦

image by PIXTA / 47896115

バルチック艦隊の状態

日本の連合艦隊艦長である東郷平八郎はバルチック艦隊に勝利するため、バルチック艦隊の航路を考えていました。確かにバルチック艦隊は強いものの、ただ時期的に考えて北極海は凍っており、そのため日本海に向かうためには大西洋とインド洋の経由が必要です。

つまり航路としては遠回りになるわけで、そうなると必須になってくるのが燃料補給でしょう。しかし、バルチック艦隊の航路を考えるとその沿岸はほとんどイギリスの領土になっていて、イギリスは日本と同盟を結んでいるため、ロシアにとってイギリスは敵になります

当然日露戦争のためのロシア軍の補給をイギリスが許すはずはなく、そのためバルチック艦隊は充分な補給も整備もできないまま戦場に向かうしかありません。つまり「バルチック艦隊は万全の状態ではない!」……例え世界最強と謳われても、今のバルチック艦隊なら勝利できると東郷平八郎は確信しました。

東郷平八郎のT字戦法

バルチック艦隊を発見した日本の連合艦隊、こうして日露戦争の決着をつけるための日本海海戦が始まります。連合艦隊はバルチック艦隊に近づいていき、一方のバルチック艦隊は当然これを攻撃のための接近と判断……しかしここで日本の連合艦隊は突如150度の急カーブを行いました。

ここまでのカーブをするとカーブ中は攻撃できないため、本来なら攻撃の的になって集中砲火を浴びるのが明白。ただ当時天候が荒れていたためバルチック艦隊の攻撃は全く当たらず、さらにカープを終えた軍艦が突撃してきてバルチック艦隊に攻撃、この攻撃がバルチック艦隊の司令室を捕えます。

混乱するバルチック艦隊、そして日本の連合艦隊は次々と攻撃を加えてバルチック艦隊を壊滅させていきました。日本の連合艦隊にも被害があったものの、軍艦一隻が沈められたのみ。日本海海戦は日本の連合艦隊の圧勝、東郷平八郎が行った急カーブはT字戦法と呼ばれています。

日露戦争の決着

image by PIXTA / 35443517

\次のページで「ポーツマス条約の締結」を解説!/

ポーツマス条約の締結

バルチック艦隊の敗北は海軍の敗北、ロシア軍は地上戦でも日本軍に敗れており、陸海軍が全て敗れて主力も失いました。さすがのロシアもこれ以上の戦争続行は不可能と判断、一方の日本もこれまで戦争に費やした費用があまりに莫大で、やはり戦争続行が困難な状態に陥ります。

ちなみに日本が費やしたお金はおよそ18億円で、これは当時の基準で国家予算30年分に相当する額でした。互いに戦闘を続けるのは得策ではなく、このタイミングでアメリカのルーズベルト大統領が講和を仲介、1905年にアメリカのポーツマスにて日本とロシアの講和条約が結ばれます

アメリカが仲介に入って講和という形で決着がついた日露戦争。しかし、戦況から判断して勝利したのは明らかに日本、そのため講和条約も日本に有利なものとなり、この講和条約は条約を結んだ場所が由来となってポーツマス条約と呼ばれました。

国内で混乱が起こる日本とロシア

戦前の時点では世界中が明らかにロシア有利と見ていた日露戦争、しかし日本が勝利したことから日本はアジア唯一の列強国と認められるようになりました。ただ、日本の国民には納得できない部分もあったようで、それは賠償金の支払いが一切なかったことです。

最も、賠償金を支払わない旨についてはポーツマス条約にも示されていました。しかしそれでも国民は納得できず、その影響で日比谷で焼き打ち事件が起こるなど、国内の治安は一時相当悪化したようです。また、予想外の敗北をしたロシアも国内は大混乱、やがてそれはロシア革命へとつながっていきました。

ちなみにロシアのバルチック艦隊を破ったのは日本が誇る戦艦三笠、歴史に詳しくない人でもこの戦艦名は聞いたことがあるのではないでしょうか。日露戦争に勝利したことで日本は当時ヨーロッパの植民地となっていたアジアの国々から讃えられ、後に作られることになる国際連盟でも常任理事国として認められました。

T字戦法、乃木希典、戦艦三笠、バルチック艦隊のワードは必須!

日本海海戦は日露戦争で起こった戦いですから、当然日本海海戦だけでなく日露戦争全体を覚える必要があります。ただ、日本海海戦に絞って言えばそのポイントは日本の連合艦隊の活躍でしょう。

T字戦法を行った乃木希典、戦艦三笠、このあたりは一つのワードとしても覚えておくべきです。また、ロシアのバルチック艦隊の名前も覚えておき、あわせてバルチック艦隊の敗因も説明できるようにしてください。

" /> 最強・バルチック艦隊を撃破した「日本海海戦」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説 – ページ 4 – Study-Z
日本史明治歴史

最強・バルチック艦隊を撃破した「日本海海戦」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

ポーツマス条約の締結

バルチック艦隊の敗北は海軍の敗北、ロシア軍は地上戦でも日本軍に敗れており、陸海軍が全て敗れて主力も失いました。さすがのロシアもこれ以上の戦争続行は不可能と判断、一方の日本もこれまで戦争に費やした費用があまりに莫大で、やはり戦争続行が困難な状態に陥ります。

ちなみに日本が費やしたお金はおよそ18億円で、これは当時の基準で国家予算30年分に相当する額でした。互いに戦闘を続けるのは得策ではなく、このタイミングでアメリカのルーズベルト大統領が講和を仲介、1905年にアメリカのポーツマスにて日本とロシアの講和条約が結ばれます

アメリカが仲介に入って講和という形で決着がついた日露戦争。しかし、戦況から判断して勝利したのは明らかに日本、そのため講和条約も日本に有利なものとなり、この講和条約は条約を結んだ場所が由来となってポーツマス条約と呼ばれました。

国内で混乱が起こる日本とロシア

戦前の時点では世界中が明らかにロシア有利と見ていた日露戦争、しかし日本が勝利したことから日本はアジア唯一の列強国と認められるようになりました。ただ、日本の国民には納得できない部分もあったようで、それは賠償金の支払いが一切なかったことです。

最も、賠償金を支払わない旨についてはポーツマス条約にも示されていました。しかしそれでも国民は納得できず、その影響で日比谷で焼き打ち事件が起こるなど、国内の治安は一時相当悪化したようです。また、予想外の敗北をしたロシアも国内は大混乱、やがてそれはロシア革命へとつながっていきました。

ちなみにロシアのバルチック艦隊を破ったのは日本が誇る戦艦三笠、歴史に詳しくない人でもこの戦艦名は聞いたことがあるのではないでしょうか。日露戦争に勝利したことで日本は当時ヨーロッパの植民地となっていたアジアの国々から讃えられ、後に作られることになる国際連盟でも常任理事国として認められました。

T字戦法、乃木希典、戦艦三笠、バルチック艦隊のワードは必須!

日本海海戦は日露戦争で起こった戦いですから、当然日本海海戦だけでなく日露戦争全体を覚える必要があります。ただ、日本海海戦に絞って言えばそのポイントは日本の連合艦隊の活躍でしょう。

T字戦法を行った乃木希典、戦艦三笠、このあたりは一つのワードとしても覚えておくべきです。また、ロシアのバルチック艦隊の名前も覚えておき、あわせてバルチック艦隊の敗因も説明できるようにしてください。

1 2 3 4
Share: