
2-4、アン、王妃に戴冠
作者不明 – http://www.siue.edu/~ejoy/eng208lecturenotessonnets.htm (see also National Portrait Gallery, London: NPG 668), パブリック・ドメイン, リンクによる
1533年5月23日、アンがヘンリー8世に言い寄られてから6年後、やっとキャサリン王妃との結婚無効宣言、6月1日の聖霊降臨祭の日にアンの王妃としての戴冠式が行われ、アンは正式なイギリス王妃に。
そして1533年9月に、アンはヘンリー8世の第2王女エリザベスを出産。王子を望んでいたヘンリー8世は落胆したが、エリザベス王女には王位継承権が与えられたそう。
アンは、王女の身分を剥奪されて庶子に落とされたキャサリン前王妃の娘メアリー王女を、娘エリザベス王女の侍女に強要、また宮殿の改装や家具、衣装、宝石などに浪費と、傲慢な態度をあらわにするようになり、ヘンリー8世はアンへの愛情が薄れ、アンの侍女であるジェーン・シーモアへと心移りしたということ。
2-5、アン、男子流産で寵愛を失う
1536年1月、前王妃キャサリンが幽閉先のキムボルトン城で死去の知らせに、アンとヘンリー8世は喜び、祝いの意味の黄色の衣装を着て祝宴を開いたということで、神聖ローマ帝国及びスペインの駐イギリス大使が本国に報告、アンとヘンリー8世がキャサリンを毒殺した噂もあったが、黄色はスペインを表す色でキャサリンの訃報を悲しんだという文献もあるそう。
しかしキャサリンの葬儀の日にアンは男児を流産、すでに30代になり男子が産まれないアンに対し、飽きっぽいヘンリー8世の寵愛が離れる一方に。
2-6、アン、反逆罪に問われ処刑

1536年5月、正式結婚から2年後、アンは国王暗殺と不義密通を行った容疑で反逆罪に問われ裁判にかけられることに。こういうときに上手に処理するヘンリー8世の側近トーマス・クロムウェルが手腕を発揮し、アンは5人の男と姦通したとされ、そのうち1人は実の弟のジョージとされる始末。
同年5月19日、反逆、姦通、近親相姦及び魔術という罪で死刑判決を受け、ロンドン塔で斬首刑に。ヘンリー8世はアンの処刑が終わった知らせを聞くと、きっちり24時間喪に服したあと、すぐにジェーン・シーモアのもとへ行き、アンの処刑の11日後にはジェーンと結婚式を挙行。
3-1、アン・ブーリンの逸話
キャサリン王妃はイギリス国民に敬愛されていたため、アンがテムズ川のほとりで食事をしていると、8000人ともいわれる女性たちが大挙して襲い掛かってきて、慌ててボートで逃げたとか、アンの戴冠式の行列には集まった観衆から沈黙と罵声がとび、拍手や祝いの反応は一切なかったという、国王の愛人として国民に歓迎されていなかった話も多く、いろいろな逸話があります。
3-2、当時の美人とは言えなかった
チュダー朝時代の美人の条件は金髪で色白で豊満、しかしアンは黒髪で肌の色も浅黒く、ヘンリー8世のお気に入りというだけで、どこがいいのかわからないとさえ言われたそう。
右手の指が6本(1876年の発掘調査では異常な点はなし)とか、首にあざがあるなどと欠点ばかりが伝わっているが、フランソワ1世の宮廷で過ごしたことで、教養を身に着け、ダンスが上手だったりとかなり洗練されていたはず。
またアンはよく作曲をしたということですが、アンの残した書類などは死刑宣告後にすべて処分されたということ。
3-3、ヘンリー8世は梅毒だった
これはアンというよりもヘンリー8世の逸話ですが、6度も結婚したのに、王妃たちが死産や流産を繰り返した理由は、ヘンリー8世が若い頃フランスで罹患したという梅毒が原因だと言われていて、ジェーン・シーモアの産んだエドワード王子も先天性の梅毒のために幼少から病弱で、16歳で亡くなったということ。