今回はアン・ブーリンを取り上げるぞ。映画やドラマにもなった悲劇の王妃ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパの歴史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、アン・ブーリンについて5分でわかるようにまとめた。

1-1.アン・ブーリンはイギリス生まれ

アン・ブーリンは、フランス駐在イギリス大使の父トーマス・ブーリンとノーフォーク公爵の娘の母エリザベス・ハワードとの間に誕生。生年月日は不明で、1501年または1507年生まれなど諸説あります。

1-2.ブーリン家とは

アンは、古い由緒ある家柄ではなく、曾祖父のジェフリーはノーフォークの農家出身。絹織物工見習いから財産を築いてロンドン市長になりました。その息子で祖父ウィリアムはリチャード3世にサーの称号を授かってジェントルマン階級になり、伯爵家と縁組したり娘を国王の愛人にしたりして爵位や領地を増やした新興貴族。このヘンリー8世の時代はそういう新興貴族が台頭する時代だったそうです。

アンの父トーマスは、母方からアイルランドの名家オーモンド伯爵の相続権を持っていて、サリー伯爵(有力貴族のノーフォーク公爵の相続人)の娘でヘンリー8世の元愛人説があるエリザベスと結婚。メアリー、アン、ジョージが誕生しました。

生年不明のためメアリーとアンはどちらが年長か諸説あり、ジョージは末弟だろうということです。

1-3.アンとメアリー姉妹はフランスで成長

アンの父トーマスは、1512年、スペイン領ネーデルラントの女総督マルガレーテ大公女の宮廷に使節として派遣されたとき、娘のメアリーとアンを大公女の宮廷に侍女として出仕させたそう。

その後、トーマスはフランス駐在大使となり、1515年ヘンリー8世の妹メアリー王女がフランス国王ルイ12世に嫁ぐ際、アンは姉妹のメアリーと共に侍女としてフランス宮廷へ。ルイ12世はわずか3カ月で死去し、メアリー王女がイギリスへ帰ったあとも、アンとメアリー姉妹は次の国王フランソワ1世の王妃でルイ12世の娘のクロードに仕えていたということです。

フランソワ1世の宮廷は華やかで、アンとメアリー姉妹はフランス語やラテン語を習得はもちろん、ダンスやリュートなども身に着けて洗練された女性に成長しました。

1-4.美貌の姉妹メアリーはヘンリー8世の愛人に

アンの姉妹メアリーはフランス宮廷でも目立った美貌で、フランソワ1世の愛人説もありますが、先にイギリスに帰国。そしてヘンリー8世に見初められて愛人に。

ヘンリー8世との間にヘンリー・フィッツロイという庶子が生まれましたが、この子は修道院に入れられて顧みられなかったという話です。メアリーは1520年、イギリス貴族サー・ウィリアム・ケアリーと結婚。 なお、姉メアリーはその後平民と再婚し、寿命をまっとうしました。

1-5.イギリスへ帰国後、キャサリン王妃の侍女に

アンは1522年または1526年頃に帰国し、ヘンリー8世の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女に。

年頃を迎えたアンには、父とオーモンド伯爵の相続争いを収めるために、もう一人の相続人だったピアス・バトラーとの結婚の話もあったのですが、なかなか進展せずに、後のノーサンバーランド伯爵ヘンリー・パーシーと恋愛沙汰を起こし、ヘンリー8世に叱責されたことでバトラーとの結婚話は消滅。

スキャンダルとなったため、アンは一時田舎で謹慎することになりました。

\次のページで「2-1.ヘンリー8世、アンに言い寄る」を解説!/

2-1.ヘンリー8世、アンに言い寄る

アンは再び宮廷に戻り、宮廷に出入りする詩人のサー・トマス・ワイアットがアンに詩を作ったりして接近し、求婚。

そしてアンは同時にヘンリー8世にも愛人になるよう迫られましたが、アンはヘンリー8世が同僚の侍女たちをもてあそぶところも、特に姉妹のメアリーとの愛人関係などもよく知っていました。そのせいか、正式に王妃にしないとベッドを共にしないと言い張ったということで、ヘンリー8世はアンが跡継ぎの王子を生んでくれるのではという期待とともに、アンのことしか目に入らなくなったそうです。

2-2.ヘンリー8世の事情

Catalina de Aragón, por un artista anónimo.jpg
Attributed to Joannes Corvus - NPG, パブリック・ドメイン, リンクによる

ヘンリー8世はアンと知り合った当時は30代後半の壮年。2歳上の王妃キャサリンは、カスティラ女王イザベラとアラゴン王フェルディナンドの末娘で、姉ファナはハプスブルグ家のフィリップと結婚。生まれた神聖ローマ皇帝カール5世らは甥になるという、ヨーロッパ外交には欠かせない重要な家柄の出身

キャサリンは最初にヘンリー8世の兄アーサー王太子と結婚、一年後にアーサー王太子が死亡。そこで、キャサリンの膨大な持参金を返したくないアーサー皇太子の父ヘンリー7世は、キャサリンとアーサーの結婚を無効として、自分かアーサーの弟で次男のヘンリー8世とキャサリンとの再婚を画策。ローマ教皇に願い出て結婚無効が認められ、ヘンリー8世と結婚したという経過です。

キャサリンは有能な女性でヘンリー8世と結婚後、政治の助言も行っていましたが、何度も流産と夭折でメアリー王女一人しか育たず、この頃はまだ女王が即位しなかったため、ヘンリー8世は後継ぎの王子が欲しかったということ。

2-3.ヘンリー8世、離婚に向けて動く

1491 Henry VIII.jpg
ヨース・ファン・クレーフェ - Royal Collection, パブリック・ドメイン, リンクによる

カトリック教会は離婚を認めていませんでしたが、結婚そのものが無効であったという「結婚無効」の認可を与えて事実上の離婚を可能にする方法が存在していました。

しかし、ヘンリー8世とキャサリン王妃の場合、すでにヘンリーの兄アーサーの妻だったことを結婚無効にし、教皇ユリウス2世から教会法規によって特免を得て合法的な結婚と許可を受けた過去があったため、この方法が通用せず。

また、キャサリンの甥の神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)も国際関係を考慮して反対したために教皇庁は許可を出しにくいうえに、キャサリン王妃はイギリス国民の間でも尊敬され人気が高かったこともあって国内からも反対の声が大きかったそう。

しかし何でも自分の思い通りにしたい暴君のヘンリー8世は激怒して、ローマ教皇庁との断絶を決意。ここでイギリス国王が首長のイギリス国教会の原型が成立することに。そして国王至上法で、イギリス国内では国王が宗教的、政治的な最高指導者と宣言、ヘンリー8世は1533年5月にアンを正式な王妃にしました。

なお、これに反対した大法官のトーマス・モアは反逆罪で処刑され、カトリックの修道院は解散、反対した多くの修道士が処刑となり、修道院の領地や財産は王室財産としてヘンリー8世が没収することになったのです。

\次のページで「2-4.アン、王妃に戴冠」を解説!/

2-4.アン、王妃に戴冠

Anne boleyn.jpg
作者不明 - http://www.siue.edu/~ejoy/eng208lecturenotessonnets.htm (see also National Portrait Gallery, London: NPG 668), パブリック・ドメイン, リンクによる

1533年5月23日、アンがヘンリー8世に言い寄られてから6年後、やっとキャサリン王妃との結婚無効宣言、6月1日の聖霊降臨祭の日にアンの王妃としての戴冠式が行われ、アンは正式なイギリス王妃に。

そして1533年9月に、アンはヘンリー8世の第2王女エリザベスを出産。王子を望んでいたヘンリー8世は落胆しましたが、エリザベス王女には王位継承権が与えられたそう。

アンは、王女の身分を剥奪されて庶子に落とされたキャサリン前王妃の娘メアリー王女を、娘エリザベス王女の侍女に強要。また宮殿の改装や家具、衣装、宝石などに浪費と、傲慢な態度をあらわにするようになりました。ヘンリー8世はアンへの愛情が薄れ、アンの侍女であるジェーン・シーモアへと心移りしたということ。

2-5.アン、男子流産で寵愛を失う

1536年1月、前王妃キャサリンが幽閉先のキムボルトン城で死去。その知らせにアンとヘンリー8世は喜び、祝いの意味の黄色の衣装を着て祝宴を開きました。神聖ローマ帝国及びスペインの駐イギリス大使は本国に報告。アンとヘンリー8世がキャサリンを毒殺した噂もありましたが、黄色はスペインを表す色でキャサリンの訃報を悲しんだという文献もあるそうです。

しかしキャサリンの葬儀の日にアンは男児を流産、すでに30代になり男子が産まれないアンに対し、飽きっぽいヘンリー8世の寵愛が離れる一方に。

2-6.アン、反逆罪に問われ処刑

image by PIXTA / 5886568

1536年5月、正式結婚から2年後、アンは国王暗殺と不義密通を行った容疑で反逆罪に問われ裁判にかけられることに。こういうときに上手に処理するヘンリー8世の側近トーマス・クロムウェルが手腕を発揮し、アンは5人の男と姦通したとされ、そのうち1人は実の弟のジョージとされる始末。

同年5月19日、反逆、姦通、近親相姦及び魔術という罪で死刑判決を受け、ロンドン塔で斬首刑に。ヘンリー8世はアンの処刑が終わった知らせを聞くと、きっちり24時間喪に服したあと、すぐにジェーン・シーモアのもとへ行き、アンの処刑の11日後にはジェーンと結婚式を挙行したそうです。

3-1.アン・ブーリンの逸話

キャサリン王妃はイギリス国民に敬愛されていたため、アンがテムズ川のほとりで食事をしていると、8000人ともいわれる女性たちが大挙して襲い掛かってきて、慌ててボートで逃げたとか、アンの戴冠式の行列には集まった観衆から沈黙と罵声がとび、拍手や祝いの反応は一切なかったという、国王の愛人として国民に歓迎されていなかった話も多く、いろいろな逸話があります。

3-2.当時の美人とは言えなかった

チュダー朝時代の美人の条件は金髪で色白で豊満、しかしアンは黒髪で肌の色も浅黒く、ヘンリー8世のお気に入りというだけで、どこがいいのかわからないとさえ言われたそう。

右手の指が6本(1876年の発掘調査では異常な点はなし)あるとか、首にあざがあるなどと欠点ばかりが伝わっていますが、フランソワ1世の宮廷で過ごしたことで、教養を身に着け、ダンスが上手でかなり洗練されていたはずです。

またアンはよく作曲をしたということですが、アンの残した書類などは死刑宣告後にすべて処分されたということ。

3-3.ヘンリー8世は梅毒だった

これはアンというよりもヘンリー8世の逸話ですが、6度も結婚したのに、王妃たちが死産や流産を繰り返した理由は、ヘンリー8世が若い頃フランスで罹患したという梅毒が原因だと言われています。ジェーン・シーモアの産んだエドワード王子も先天性の梅毒のために幼少から病弱で、16歳で亡くなりました。

\次のページで「3-4.アンの両親はアンをかばわず、弟の妻は不利な証言を」を解説!/

3-4.アンの両親はアンをかばわず、弟の妻は不利な証言を

ヘンリー8世とアンの恋愛後、ブーリン一家はヘンリー8世に取り立てられ、1529年に父トーマスはウィルトシャー伯爵位とオーモンド伯爵位を授与され、弟ジョージはそれまで父が名乗っていたロッチフォード子爵となり、フランスへの使節に任命。アンが王妃となった翌年には五港長官の顕職に就任しました。

一家はアンのおかげで出世しましたが、アンが反逆罪に問われ、あろうことか弟との近親相姦を疑われても、アンの両親そして母の兄ノーフォーク公爵もアンとジョージをかばおうとしなかったそう。また弟のジョージが1524年ころに結婚した、ヘンリー8世の又従妹の妻ジェーンとは不仲だったということで、ジェーンは夫と義姉アンの近親相姦の罪を立証する証言を行ったということ。

なお、アンとジョージの刑死後、両親は宮廷を追放されて田舎に引きこもって数年後に死去。ジェーンは、夫の従妹であるヘンリー8世の5番目の王妃キャサリン・ハワードの侍女となり、キャサリン王妃の姦通の手引きをしたことが露見し、キャサリンとともに処刑されました。

3-5.処刑の時もフランス流を要求

イギリスの死刑執行人は斧を使うことになっていましたが、アンの要望でフランスのリールから剣を使うジャン・ロムバウドという死刑執行人を呼び寄せたそう。これは刑の執行の時間稼ぎとも、斧での失敗で悲惨なことにならないためともいわれているそうです。

3-6.ロンドン塔などに幽霊として出没

image by PIXTA / 3447083

ロンドン塔には、不慮の死を遂げた歴史上の人物が多く幽霊として出現することで有名ですが、アン・ブーリンの幽霊はその最たるもので、ロンドン塔の衛兵が夜間勤務で説明しようのない体験をしても不問に付されるほど。

首のない王妃が深夜に礼拝堂で儀式を行う、処刑場での処刑の最中にひんぱんに出現、首のない馬にひかせた馬車に自分の首を抱きかかえて乗っている、写真撮影をしようとした写真家に突進し、フィルムをすべて感光させたなどなど。

また、ハンプトンコート宮殿では、自分の侍女だったヘンリー8世の3番目の王妃ジェーン・シーモアの幽霊と連れ立って散歩するなど、歴史の本以外のオカルト本にも詳しく登場しています。

3-7.姉妹のメアリーの子孫

アンの娘エリザベス1世は未婚のまま死去し、アンの弟ジョージも刑死しましたが、姉妹のメアリーは2度結婚して4人の子供が生まれたということ。

メアリーの子孫には、姪のエリザベス1世の寵臣エセックス伯ロバート・デヴァルー(曾孫)、ウィンストン・チャーチル、現エリザベス女王の母クィーンマザー、ダイアナ元皇太子妃、元ヨーク公妃セーラ、チャールズ・ダーウィンなどの多くの有名人がいます。

愛人ではなく正式結婚を要求したことで、イギリスの歴史を変えた女性

アン・ブーリンは新興貴族の娘として生まれ、野心家の父にフランス宮廷に送り込まれて洗練された女性に育ち、イギリスに帰国してヘンリー8世の宮廷に仕えることに。

そして、ヘンリー8世の目に留まって愛人にされるところを、王妃と離婚して正式に結婚をと要求。これが発端となり、ヘンリー8世は離婚を認めないローマ教皇と決別してイギリス国教会を成立させるなど、歴史の転換期となる出来事に。アンは正式結婚で王妃に戴冠したが、王女しか生まれなかったことで汚名を着せられて処刑。

アンは暴君ヘンリー8世のために悲惨な最期を遂げましたが、結果的にイギリス国教会が生まれ、娘はエリザベス1世としてイギリス史に残る名君となったのですから、アンの登場は歴史の必然だったのかもしれませんね。

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イギリスヨーロッパの歴史世界史歴史

アン・ブーリンはなぜ処刑された?悲劇の王妃の生涯を歴女が簡単にわかりやすく解説

今回はアン・ブーリンを取り上げるぞ。映画やドラマにもなった悲劇の王妃ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパの歴史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、アン・ブーリンについて5分でわかるようにまとめた。

1-1.アン・ブーリンはイギリス生まれ

アン・ブーリンは、フランス駐在イギリス大使の父トーマス・ブーリンとノーフォーク公爵の娘の母エリザベス・ハワードとの間に誕生。生年月日は不明で、1501年または1507年生まれなど諸説あります。

1-2.ブーリン家とは

アンは、古い由緒ある家柄ではなく、曾祖父のジェフリーはノーフォークの農家出身。絹織物工見習いから財産を築いてロンドン市長になりました。その息子で祖父ウィリアムはリチャード3世にサーの称号を授かってジェントルマン階級になり、伯爵家と縁組したり娘を国王の愛人にしたりして爵位や領地を増やした新興貴族。このヘンリー8世の時代はそういう新興貴族が台頭する時代だったそうです。

アンの父トーマスは、母方からアイルランドの名家オーモンド伯爵の相続権を持っていて、サリー伯爵(有力貴族のノーフォーク公爵の相続人)の娘でヘンリー8世の元愛人説があるエリザベスと結婚。メアリー、アン、ジョージが誕生しました。

生年不明のためメアリーとアンはどちらが年長か諸説あり、ジョージは末弟だろうということです。

1-3.アンとメアリー姉妹はフランスで成長

アンの父トーマスは、1512年、スペイン領ネーデルラントの女総督マルガレーテ大公女の宮廷に使節として派遣されたとき、娘のメアリーとアンを大公女の宮廷に侍女として出仕させたそう。

その後、トーマスはフランス駐在大使となり、1515年ヘンリー8世の妹メアリー王女がフランス国王ルイ12世に嫁ぐ際、アンは姉妹のメアリーと共に侍女としてフランス宮廷へ。ルイ12世はわずか3カ月で死去し、メアリー王女がイギリスへ帰ったあとも、アンとメアリー姉妹は次の国王フランソワ1世の王妃でルイ12世の娘のクロードに仕えていたということです。

フランソワ1世の宮廷は華やかで、アンとメアリー姉妹はフランス語やラテン語を習得はもちろん、ダンスやリュートなども身に着けて洗練された女性に成長しました。

1-4.美貌の姉妹メアリーはヘンリー8世の愛人に

アンの姉妹メアリーはフランス宮廷でも目立った美貌で、フランソワ1世の愛人説もありますが、先にイギリスに帰国。そしてヘンリー8世に見初められて愛人に。

ヘンリー8世との間にヘンリー・フィッツロイという庶子が生まれましたが、この子は修道院に入れられて顧みられなかったという話です。メアリーは1520年、イギリス貴族サー・ウィリアム・ケアリーと結婚。 なお、姉メアリーはその後平民と再婚し、寿命をまっとうしました。

1-5.イギリスへ帰国後、キャサリン王妃の侍女に

アンは1522年または1526年頃に帰国し、ヘンリー8世の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女に。

年頃を迎えたアンには、父とオーモンド伯爵の相続争いを収めるために、もう一人の相続人だったピアス・バトラーとの結婚の話もあったのですが、なかなか進展せずに、後のノーサンバーランド伯爵ヘンリー・パーシーと恋愛沙汰を起こし、ヘンリー8世に叱責されたことでバトラーとの結婚話は消滅。

スキャンダルとなったため、アンは一時田舎で謹慎することになりました。

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