今日は日本三大水攻めについて勉強していきます。戦国時代の戦いの中では様々な戦術が用いられ、その中でも有名なのが水攻めであり、豊臣秀吉が行ったものが歴史に残っている。

それは日本三大水攻めと呼ばれるもので、備中高松城の戦い、太田城の戦い、忍城の戦いが該当する。そこで、今回は日本三大水攻めについて日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から日本三大水攻めをわかりやすくまとめた。

信長に仕えた秀吉

image by PIXTA / 21147338

戦国時代の始まり

1467年の応仁の乱以降、日本は武力によって権力を手にする戦国時代へと突入します。その中では下位の者が上位の者を破る下剋上も起こり、名ばかりの地位だけでは権力を維持できない時代になりました。そうなると力を落としてしまうのが幕府であり、足利将軍家は徐々に衰退の道を辿っていきます。

そして、将軍の権力が低下する一方で名を上げてきたのが戦国武将、最初にその名を世間に知らしめたのは織田信長で、信長は室町幕府を滅ぼして天下統一を夢に戦い続けました。そんな信長のもとには当然多くの家臣が存在していて、その中の一人が豊臣秀吉です。

最も、「豊臣」の姓は秀吉が朝廷の関白に任命された頃に賜ったものですから、当時は「豊臣」ではなく「木下」や「羽柴」と名乗っていました。農民出身と呼ばれる秀吉は信長の小者(雑用役)として仕えるようになりますが、その中で信長に信頼される立場にまで出世していきます。

毛利氏攻略の任務

例えば、1570年には朝倉義景の討伐に出陣した信長が、突如仲間に裏切られて朝倉義景の軍と挟み撃ちされる事態が起こりました。この時、秀吉は敵の軍を引きつけてその間に信長を退却させるという難しい任務に成功、この功績を認められた秀吉は長浜城の城主となっています。

また、1577年には信長の家臣である松永久秀の謀反に対して、松永久秀の討伐に参加して自害に追い込む活躍も見せました。こうした出来事を経る中で信長は秀吉を信頼するようになっていき、また秀吉も信長の家臣としての地位を高めていったのです。

時は過ぎて1582年、勢力を伸ばし続ける信長は念願の天下統一まであと一歩のところまで迫ります。そして、その一手として中国地方の毛利氏攻略を決断した信雄は、秀吉にその役目を与えました。その戦いによって日本三大水攻めの最初の戦いが起こり、また信長にも思わぬ運命が待ち受けていたのです。

日本三大水攻め ~備中高松城の戦い~

image by PIXTA / 26946027

智将・清水宗治の籠城戦

1582年の備中高松城の戦い、これが日本三大水攻めの一つ目となる戦いです。30000人もの軍勢を率いる秀吉は兵力の差でこそ毛利軍を遥かに上回っていたものの、そこに立ちはだかった備中高松城主である清水宗治が展開した籠城戦に思わぬ苦戦を強いられます。

清水宗治の兵力はおよそ5000人、しかし智将として知られた清水宗治の戦術はさすがの一言で、籠城した上での激しい抵抗によって秀吉は攻めきれずにいました。そして、秀吉のそんな苦戦を知った信長は秀吉に対して一日も早い攻略を指示、そこで黒田官兵衛が秀吉に提案した作戦が水攻めです。

黒田官兵衛は秀吉にとって旧知の仲であると同時に軍師たる存在。そのため、黒田官兵衛の提案する作戦はいずれも秀吉が納得するものであり、秀吉はそれに従って備中高松城に籠城する清水宗治の軍攻略において、水攻めの作戦を決行します。その水攻めこそ、日本三大水攻めに数えられる一つでした。

備中高松城の水没

水攻めとは周辺が川などの水に囲まれた場所において、堤防の決壊や堤防を築くなどして川の流路を意図的に変えて城を水没させる作戦です。何もせず包囲するだけの兵糧攻め以上に相手の士気を低下させる効果があり、士気の低下した相手の降伏を誘う策略として知られていました。

ただ水攻めは決して万能な策ではなく、なぜならリスクの高さもあるからです。堤防を壊すにしても築くにしても敵に発見される恐れがありますし、そうなってしまえば敵に妨害されるどころか攻撃を受けてしまうため、さらに膨大な労力も考慮してあまり採用されない作戦でした。

しかし、秀吉は現地に住む農民や建築者の集団をうまく利用して水攻めに成功。見事に備中高松城を水没させて水攻めを成功させたのです。つまり、日本三大水攻めの一つ目となる備中高松城の戦いでは、水攻めの作戦は成功に終わりました。最も、清水宗治もこれで降伏することはせず、依然抵抗を続けます。

信長の死

image by PIXTA / 11259355

\次のページで「明智光秀の突然の裏切り」を解説!/

明智光秀の突然の裏切り

日本三大水攻めに数えられる備中高松城の戦い・太田城の戦い・忍城の戦い。いずれも秀吉が絡む戦いですが、太田城の戦いと忍城の戦いでは既に信長は生きておらず、なぜなら信長は本能寺の変にて死亡、しかもそれは備中高松城の戦いのさなかに起こりました。

水攻めによって備中高松城を水没させられた清水宗治でしたが、それでも降伏することなく抵抗を続けます。そこで秀吉は水攻めを続ける一方で信長に対して援軍要請の書状を送り、信長はすぐさまこれに応えて援軍を送ることを決断、そこで指名されたのが明智光秀でした。

援軍に向かう明智光秀、しかしなぜか途中で進路を変えて本能寺へと向かい、本能寺の変を起こして信長を自害へと追い込みます。ここで疑問なのは明智光秀が突如裏切った理由ですが、その詳細は現在でも明らかになっておらず、歴史のミステリーとして様々な諸説が存在するほどです。

備中高松城の戦いの決着

本能寺の変で信長を倒した明智光秀は、そのまま秀吉も倒してしまおうと考えました。そこで、明智光秀は毛利軍に対して「自分と毛利軍で秀吉を挟み撃ちしよう」を提案した密書を送りますが、その伝令役は秀吉に捉えられ、秀吉はそこで信長の死も知ることになります。

信長の敵討ちをしたい秀吉は一刻も早く明智光秀のいる京都に戻ろうと考え、備中高松城の戦いの決着を急ぎました。その結果秀吉は和陸を望む毛利軍の提案と条件を受け入れ、戦いを切り上げるような形で急いで京都へと戻ります。その移動は脅威的な速さで、およそ200キロもの距離を秀吉はわずか10日ほどで京都に到着しました

この秀吉による大移動は中国大返しと呼ばれており、予想外に早い秀吉の到着によって明智光秀は充分な兵士を整えることができなかったのです。それが影響して明智光秀は山崎の戦いにて秀吉に敗北、明智光秀の天下は束の間のものとなり、秀吉は信長にかわって時代の主役へとなっていくのでした。

日本三大水攻め ~太田城の戦い~

image by PIXTA / 1769849

太田左近の籠城

1585年の太田城の戦い、これが日本三大水攻めの二つ目となる戦いです。1578年、天下統一を目指す信長は家臣の佐久間信盛らに太田城を攻めさせますが、80000人の兵力を持つ佐久間信盛の攻撃でも落としきれず、その結果この戦いでは停戦が成立します。

そして本能寺の変で信長が死亡した後、1585年に秀吉が改めて紀伊攻めを行い、今度こそ太田城を落とすために10万人もの大軍を送り込みました。この秀吉の侵攻に対して根来衆・雑賀衆が抵抗するものの、大軍勢の秀吉軍には敵わず千石堀城や積善寺城などが次々と突破されていきます。

もはや勝利目前となった秀吉軍、しかし太田左近が4000人ほどの兵力で抵抗、堀を深くした太田城に籠城して秀吉軍との戦いを続けました。兵糧攻めでは時間が掛かりすぎると判断した秀吉は、備中高松城の戦いと同様に水攻めによる攻略を提案して指示します。

作戦成功の裏で起こった事故

太田城の周囲には水路が巡っており、そこで秀吉は太田城は水害に弱いと考えたのでした。早速行われた堤防築造の工事、40万人以上となる労働者を集めて築かれた堤防はわずか6日ほどで完成します。そして堤防が完成した後、太田城攻略のために水攻め作戦が展開されました。

太田城も土塁を高くすることで浸水に対処しましたが、それも限界に達して城内は水浸し状態。ただ、作戦中に水圧が変化したことで堤防の一部が決壊する事故が起こり、そのため秀吉軍にも被害が及んでしまいました。この時、秀吉軍はただちに堤防の修復を行っています。

最も、水攻めを行っても降伏させるまでには至りませんでしたが、水軍を使った秀吉軍の攻撃によって相手の戦意喪失を招いて勝利。日本三大水攻めの二つ目となる備中高松城の戦いでは、水攻めの作戦は一応の効果があったものの、一方で堤防決壊という失敗も起こしてしまいました

\次のページで「日本三大水攻め ~忍城の戦い~」を解説!/

日本三大水攻め ~忍城の戦い~

image by PIXTA / 49493647

水攻めを指示した秀吉と実行した石田三成

1590年の忍城の戦い、これが日本三大水攻めの三つ目となる戦いです。忍城の戦いは秀吉にとって天下統一に向けた総仕上げ、成田氏の本拠となる武蔵国の忍城にて起こった戦いであり、後の埼玉県にあたる場所でした。この戦いで秀吉は作戦の命令こそ行っているものの、実際の戦場には姿を見せていません

日本三大水攻めでの戦いにおいて、秀吉にとっては最も重要と言える忍城の戦い……しかし、すべての水攻めの中で最も失敗に終わった戦いでもありました。戦場を任されていた石田三成は忍城の包囲に成功すると水攻めを開始、この作戦を指示したのは秀吉で、当の石田三成は作戦に対して消極的だったそうです。

築いた堤防は備中高松城の戦いの時に比べて遥かに長く、しかし水攻めを行っても忍城は水没せず、それどころか堤防決壊によって石田軍が被害を受けてしまいました。水攻めの作戦指示は秀吉でしたが、この失敗を受けて石田三成は秀吉から厳しく叱責されて責任を追求されています。

作戦失敗

結局、水攻めによって忍城を落とすことはできませんでした。しかし、その間に本城となる小田原城が落城したため、小田原城にいた忍城の城主が籠城を続ける兵士達を説得、忍城はこの説得により開城される結果となり、戦いには勝利したものの水攻めは作戦として完全に失敗でした

ちなみに、忍城の戦いは秀吉にとって後北条氏との争いの一つになりますね。日本三大水攻めが行われたとされる備中高松城の戦い・太田城の戦い・忍城の戦い。その中で最も成功したのは最初の備中高松城の戦いであり、逆に最も失敗したのは明らかに忍城の戦いです

とは言え、忍城は元々自然の堤防に恵まれた難攻不落の城として知られており、さすがの秀吉でも落とせなかったということでしょう。この戦いの最大の被害者は、秀吉の指示どおり水攻めを行ったものの、作戦失敗を叱責されて「戦下手」や「城攻め下手」のレッテルを貼られて評価がガタ落ちした石田三成ではないでしょうか。

三つの戦いで最も重要なのは備中高松城の戦い!

日本三大水攻めで最も覚える必要があるのは、やはり備中高松城の戦いでしょう。この戦いでは途中で本能寺の変が起こっていますし、秀吉が中国大返しを行った戦いでもあります。

本能寺の変を学ぶ時、「明智光秀が援軍に向かって引き返した」と解説されますが、その援軍として向かう予定だったのが備中高松城の戦いです。こうした点から考えても、備中高松城の戦いを覚えておくのは必須でしょう。

" /> 秀吉お得意の戦術「日本三大水攻め」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説 – Study-Z
室町時代戦国時代日本史歴史

秀吉お得意の戦術「日本三大水攻め」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は日本三大水攻めについて勉強していきます。戦国時代の戦いの中では様々な戦術が用いられ、その中でも有名なのが水攻めであり、豊臣秀吉が行ったものが歴史に残っている。

それは日本三大水攻めと呼ばれるもので、備中高松城の戦い、太田城の戦い、忍城の戦いが該当する。そこで、今回は日本三大水攻めについて日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から日本三大水攻めをわかりやすくまとめた。

信長に仕えた秀吉

image by PIXTA / 21147338

戦国時代の始まり

1467年の応仁の乱以降、日本は武力によって権力を手にする戦国時代へと突入します。その中では下位の者が上位の者を破る下剋上も起こり、名ばかりの地位だけでは権力を維持できない時代になりました。そうなると力を落としてしまうのが幕府であり、足利将軍家は徐々に衰退の道を辿っていきます。

そして、将軍の権力が低下する一方で名を上げてきたのが戦国武将、最初にその名を世間に知らしめたのは織田信長で、信長は室町幕府を滅ぼして天下統一を夢に戦い続けました。そんな信長のもとには当然多くの家臣が存在していて、その中の一人が豊臣秀吉です。

最も、「豊臣」の姓は秀吉が朝廷の関白に任命された頃に賜ったものですから、当時は「豊臣」ではなく「木下」や「羽柴」と名乗っていました。農民出身と呼ばれる秀吉は信長の小者(雑用役)として仕えるようになりますが、その中で信長に信頼される立場にまで出世していきます。

毛利氏攻略の任務

例えば、1570年には朝倉義景の討伐に出陣した信長が、突如仲間に裏切られて朝倉義景の軍と挟み撃ちされる事態が起こりました。この時、秀吉は敵の軍を引きつけてその間に信長を退却させるという難しい任務に成功、この功績を認められた秀吉は長浜城の城主となっています。

また、1577年には信長の家臣である松永久秀の謀反に対して、松永久秀の討伐に参加して自害に追い込む活躍も見せました。こうした出来事を経る中で信長は秀吉を信頼するようになっていき、また秀吉も信長の家臣としての地位を高めていったのです。

時は過ぎて1582年、勢力を伸ばし続ける信長は念願の天下統一まであと一歩のところまで迫ります。そして、その一手として中国地方の毛利氏攻略を決断した信雄は、秀吉にその役目を与えました。その戦いによって日本三大水攻めの最初の戦いが起こり、また信長にも思わぬ運命が待ち受けていたのです。

日本三大水攻め ~備中高松城の戦い~

image by PIXTA / 26946027

智将・清水宗治の籠城戦

1582年の備中高松城の戦い、これが日本三大水攻めの一つ目となる戦いです。30000人もの軍勢を率いる秀吉は兵力の差でこそ毛利軍を遥かに上回っていたものの、そこに立ちはだかった備中高松城主である清水宗治が展開した籠城戦に思わぬ苦戦を強いられます。

清水宗治の兵力はおよそ5000人、しかし智将として知られた清水宗治の戦術はさすがの一言で、籠城した上での激しい抵抗によって秀吉は攻めきれずにいました。そして、秀吉のそんな苦戦を知った信長は秀吉に対して一日も早い攻略を指示、そこで黒田官兵衛が秀吉に提案した作戦が水攻めです。

黒田官兵衛は秀吉にとって旧知の仲であると同時に軍師たる存在。そのため、黒田官兵衛の提案する作戦はいずれも秀吉が納得するものであり、秀吉はそれに従って備中高松城に籠城する清水宗治の軍攻略において、水攻めの作戦を決行します。その水攻めこそ、日本三大水攻めに数えられる一つでした。

備中高松城の水没

水攻めとは周辺が川などの水に囲まれた場所において、堤防の決壊や堤防を築くなどして川の流路を意図的に変えて城を水没させる作戦です。何もせず包囲するだけの兵糧攻め以上に相手の士気を低下させる効果があり、士気の低下した相手の降伏を誘う策略として知られていました。

ただ水攻めは決して万能な策ではなく、なぜならリスクの高さもあるからです。堤防を壊すにしても築くにしても敵に発見される恐れがありますし、そうなってしまえば敵に妨害されるどころか攻撃を受けてしまうため、さらに膨大な労力も考慮してあまり採用されない作戦でした。

しかし、秀吉は現地に住む農民や建築者の集団をうまく利用して水攻めに成功。見事に備中高松城を水没させて水攻めを成功させたのです。つまり、日本三大水攻めの一つ目となる備中高松城の戦いでは、水攻めの作戦は成功に終わりました。最も、清水宗治もこれで降伏することはせず、依然抵抗を続けます。

信長の死

image by PIXTA / 11259355

\次のページで「明智光秀の突然の裏切り」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: