戦国時代には全国各地に城が作られ地名から名付けた城やその時々の大名によって呼び方を変えていた城があったようです。また古い時代から残されていた城は一度取り壊しを行い時代の戦闘方法になった城へと改良したことで、城の防御を固めていくこともしていたようです。

そこで今回は、鎌倉時代に建てられ下剋上で成り上がっていった斎藤道三が居城としていた岐阜城を、歴史マニアで歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

麒麟が来るで話題となっている明智氏にも関係のある岐阜城を紹介していく。

岐阜城の建築様式

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岐阜城の構造について紹介していきます。

築城時期

築城されたのは鎌倉時代の時だったようで、鎌倉幕府の公家だった二階堂行政が稲葉山城の山頂に築城を開始して1201年の建仁元年に完成しました。しかし築城してから100年後に行政の血筋にあたる二階堂行藤が亡くなったことで廃城となっていきます。

廃城となってしまったのは二階堂貞藤が甲斐国へ移り住んでいたようで、寺院を再興させるために稲葉山から下りたことで城が不要だと感じ廃城にしてしまったのかも知れません。そこから数百年の間、城の残骸だけ残していき室町幕府へと時代が変わっていく頃に再び築城されていきました。

建築手法

十五世紀中頃に美濃守護代に任命されていた斎藤道三が稲葉山の山頂に城を築く計画を立て、残骸を修復しつつ完成させていきました。天守構造については残されていないため、判明していなく現在発掘調査を行っているようです。

建物は独立式望楼型3重4階となっていて独立していた天守でしたが、最終的には廃城となってしまい天守の手がかりになるものがありませんでした。山の頂上にあるということで山城として扱われ、難攻不落の城として知られていき斎藤氏がこの地を収めていたころは金華山城や井口城といわれています。

岐阜城と呼ばれていくのが織田信長がこの城を居城とした時に、名付けていきました。

斎藤氏が台頭してくる

斎藤氏の手によって再建され、激動の時代へと突入していきます。

家督争いに巻き込まれていく斎藤氏

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室町幕府から守護代に任命されていた斎藤利良が美濃一帯を支配しており、重臣だった長井長弘と共に政務を行っていました。大きな争いごともなく過ごして両名でしたが、美濃守護の土岐氏が次期当主を長男ではなく次男を推薦したことで家中で意見が分かれてしまい家督争いへと発展していきます。

土岐氏は長男の頼武と次男の頼芸が対峙していき、利良は頼武側に付き長弘は頼芸側に付いたことで斎藤氏の中でも家臣達が分かれて戦うことになっていきました。初戦は頼武側の勝利となりましたが、1518年に再び両者が対峙し頼芸側が勝利し頼武を越前国へ追放していきます。

越前国に逃げた頼武は朝倉氏の力を借りて頼芸を圧倒し、守護の座に頼武が就いていきました。このままで終わることができないと思った長弘は頼芸を守護の座に就けために策を練っていきます。

岐阜城が落城

頼芸を擁して頼武に対して挙兵していった長弘は、岐阜城を攻め立てていきました。勢いのあった長弘の侵攻を止めることはできずに岐阜城は、陥落し美濃守護所も制圧していき反乱は成功。

また頼武も戦いで破り越前国へ追放し、美濃守護に頼芸を就かせ長弘は美濃守護代として岐阜城を居城としていきました。しかし長弘の守護代は長く続かずに、家臣だった長井新左衛門尉が法を犯したという理由で長弘を処刑していき新左衛門尉が岐阜城の当主となっていきます。

新左衛門尉が亡くなると道三が継ぎ、岐阜城を拠点とした国作りが始まっていきました。

\次のページで「織田信秀が城を包囲」を解説!/

織田信秀が城を包囲

歴史の文献によって書かれていることと異なっている戦いが城の城下で行われていきました。1547年に支配権を拡大させるために尾張国の織田信秀が美濃国へ侵攻してきたため対峙することになっていく道三。

道三は籠城を選択し岐阜城で守りを固めていたところに、信秀の軍勢が岐阜城下に陣を構え民家を焼き払い道三を挑発してきました。ところが信秀は民家を焼き払った後に、軍勢を引き上げることを指示していき岐阜城下から離れていきます。

信秀の取った行動については、判明しておりませんが今川氏の動向が気になったため引き上げをした可能性があるでしょう。撤退していく織田軍を見た道三は岐阜城から全軍を突撃させ、織田軍を壊滅させていきました。

美濃の蝮が敗れる

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信秀と戦った加納口の戦い後に織田と斎藤で同盟を交わしていき、道三の娘だった濃姫を信秀の嫡男だった信長へと嫁がせていきました。同時期に道三は斎藤家を嫡男の義龍に引継ぎ、隠居していきましたが家の引継ぎを義龍にしていたものの次男と三男を溺愛しており義龍の廃嫡を考えていきます。

義龍は道三の動きを聞きつけていくと義龍は道三に対して挙兵。長良川で対峙していくことになっていき、前半戦は戦い方を熟知していた道三軍が押し込んでいました。しかし兵力では義龍軍が優勢だったため道三の兵は、休まずに戦っていたことで疲労が溜まっていき討ち取られていきます。

道三や次男と三男も討ち取られ、義龍が美濃国を正式に支配することになっていきました。

信長の居城となる岐阜城

道三が亡くなり、義龍が美濃国を支配していきますが長続きはしませんでした。

義龍が急死したことで龍興が当主へ

道三が亡くなり他国への影響が広がり、一番影響があったのは尾張国。道三時代に信秀から信長へと家督が渡り、道三と良好な関係性を保っていずれは信長に美濃を譲渡する予定でした。

勢いの乗り義龍は信長の居る尾張を攻めていきましたが、信長も必死に抵抗していきます。1561年になると義龍が急死したことで十三歳の若さの嫡男龍興が家督を継ぎ、岐阜城の当主となっていきました。

信長は養父の仇討ちのために美濃侵攻を開始。織田軍と戦っていった龍興でしたが家臣の竹中重治らの活躍により加納口で信長を破りました。しかし龍興が重宝していた斎藤飛騨守に私怨のあった重治と安藤守就らに暗殺され数名によって稲葉山城を占拠されていきます。

斎藤氏が衰退していく

重治の行動によって斎藤氏が弱体化していき、再び美濃攻略を開始していきました。岐阜城攻撃に取り掛かると内応していた美濃三人衆によって岐阜城が開城させられていき、龍興は城や家臣を捨てて伊勢へ逃亡していきます。

岐阜城を奪取した信長は小牧城から岐阜城へ居城を移していき天下統一を目指していきました。1576年になると信長は岐阜城を嫡男だった信忠に譲り、岐阜城を改修させていきます。

岐阜城を改修していき山城として更に特化させていきましたが、1582年に明智光秀が信長に対して謀反を起こしていきました。これにより信忠が留守にしている間に道三の子だった斎藤利堯が、明智軍に寝返り岐阜城を占拠。

しかし羽柴秀吉が光秀を討ち取ると、織田信孝に属していきます。

戦国時代で幕を閉じた

秀吉が天下人に近い人物になっていくと、転封などで岐阜城の当主はさまざまな人の城となっていきました。

織田家臣が二つに分かれる

秀吉が光秀を討ち取ったことで、織田家の家臣内での影響力が強まっていきましたがこれに反発していくのが家老筆頭の柴田勝家。勝家は信長が討ち取られた直後は上杉氏と争っていましたが、いち早く光秀と戦う計画を練っていたようで丹羽長秀などの重臣と戦に臨む予定でした。

しかし先手を取られてしまい、仇討をした秀吉が織田家臣から信頼されていくことに不満を感じていきます。信長と信忠の次に当主を決めなければならなかったので、秀吉と勝家を含む重臣四人で話し合いの場を清州城で開かれていきました。

話し合いをした結果は信忠の嫡男だった三法師を当主にすることに決まりましたが、この決定に信長三男の信孝が反論していきます。

僅か二十七名の降伏

秀吉に反抗していく信孝は反秀吉派と共同していき勝家や滝川一益を擁して、賤ヶ岳で戦いを挑んでいくことになりました。戦が開始した当初は柴田軍が優勢でしたが、途中で部隊連携が執れなくなっていき羽柴軍に押し込まれていき敗北していきます。

敗色濃厚となった信忠は岐阜城で籠城していきましたが、兄だった信雄に城を包囲されていき抵抗できないと判断した信孝は信雄に降伏。城を開城して降伏した人数を数えてみると僅か二十七名にしかおらず、包囲されて時点で大多数は城から逃亡していました。

そして秀吉から切腹を命じられていき信孝は亡くなります。

さまざな当主

信孝死後に岐阜城の当主へと任命されていくのが、池田恒興の子だった池田元助が城主となっていたものの1584年に秀吉と徳川家康が小牧長久手で対峙していきました。この戦いで恒興と共に討死してしまい、次の城主として弟の池田輝政が後を継いでいきます。

そして富山の役などで戦功を挙げていく輝政は転封されていき変わりで岐阜城の当主は、豊臣秀勝から織田秀信へと変わっていき十三万石で入城していきました。

天下一の大戦

九州の島津氏と関東の最大勢力だった北条氏を戦によって制圧して、天下を統一していきました。ようやく平和な世となっていきましたが、秀吉が天下を統一して僅か九年目で病で亡くなってしまいます。

秀吉は亡くなる三年前に嫡男を残していて、豊臣秀頼のことを大大名で固められていた五大老に任せていきました。ところが家康の身勝手な行動と豊臣家中で武断派と文治派が激しく対立。

これにより戦国一の大戦へと発展していき当時城主だった信秀は、文治派に加担し戦線の要だった岐阜城で籠城していきました。しかし歴戦の将達によって岐阜城を包囲されていき秀信は降伏し岐阜城は陥落していきます。

廃城が決まる

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関ヶ原合戦が終了したことで、西軍に属していた大名達は減石や改易をされていき勝利者となった家康によって地域を変革していきました。岐阜城は奥平昌信が十万石で入城する予定でしたが、諸説ありますが家康が岐阜という地名を嫌っていたことで岐阜城を廃城させることが決定。

岐阜城を解体し使える材料は、築城の決まっていた加納城に使われていき金華山の山頂には天守など跡形も無くなってしまいました。

\次のページで「岐阜城へのアクセス方法」を解説!/

岐阜城へのアクセス方法

2020年となり光秀が主役となるドラマが始まったため、光秀縁の地として観光客が増加しているようです。まだ見ていない人のためにアクセス方法などを紹介していきましょう。

開館から交通機関利用の場合

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岐阜城の開館は午前九時からで閉館は午後十八時までとなっております。季節によって時間変動はありますが、おおむね記載した時間帯で岐阜城まで行っていただければ大丈夫でしょう。

金華山山頂に岐阜城がありますが、近代に入ってから建て替えされた天守閣となっています。徒歩で向かうことも可能ですが、足腰などが悪い方には最適なロープウェーが運行されており十分単位で往復。

車できた場合でも無料開放されている駐車場が岐阜城付近に二か所あるので、利用するといいでしょう。鉄道利用の場合はバスを利用して岐阜駅から約十五分で信長公居跡に到着し、隣の建物からロープウェイを利用して山頂までいけます。

歴代の城主達が見たであろう景色

岐阜城の最上階から眺める景色は想像以上で長良川を城の下の方に流れていて、あたり一帯を一望できる場所となっています。信長はここで天下を取るべく動き、歴代城主もここで世の末をいろいろと考えさせられる場所だったことでしょう。

昼の景色だけでなく夜景も素晴らしく、城下の住宅からの光と夕暮れが合わさる時には言葉には表すことができない夜景をみることもできます。また金華山の麓に岐阜市が管理する岐阜公園があり、春の時期になると桜が公園一面に咲き誇り花見が可能。

難攻不落の城だったが度々陥落してしまった

山の山頂に築城された防御面に優れたお城となっていたはずですが、陥落してしまうことが度々ありました。ただ賤ケ岳の戦いや岐阜城の戦いでも籠城兵力が、少なかったことや周りに設置していた砦に兵を分散してしまったことで敗北してしまった要因でしょう。

防御力は非常高い作りだったことでしょうが、食料を確保するうえで麓まで降りるのも登ってくるのも一苦労で水を貯蓄するにも岩盤が固いため戦になると兵糧には不安があったと思います。またの発掘調査で信長時代の石垣が発見されましたが調査結果次第では日本最古の石垣の可能性がでてきました。

これが本当であれば今以上に歴史ファンが多数押し寄せる観光場所になっていくことでしょう。

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室町時代戦国時代日本史歴史

難攻不落の城と呼ばれた「岐阜城」を戦国通のサラリーマンが徹底わかりやすく解説

戦国時代には全国各地に城が作られ地名から名付けた城やその時々の大名によって呼び方を変えていた城があったようです。また古い時代から残されていた城は一度取り壊しを行い時代の戦闘方法になった城へと改良したことで、城の防御を固めていくこともしていたようです。

そこで今回は、鎌倉時代に建てられ下剋上で成り上がっていった斎藤道三が居城としていた岐阜城を、歴史マニアで歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

麒麟が来るで話題となっている明智氏にも関係のある岐阜城を紹介していく。

岐阜城の建築様式

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岐阜城の構造について紹介していきます。

築城時期

築城されたのは鎌倉時代の時だったようで、鎌倉幕府の公家だった二階堂行政が稲葉山城の山頂に築城を開始して1201年の建仁元年に完成しました。しかし築城してから100年後に行政の血筋にあたる二階堂行藤が亡くなったことで廃城となっていきます。

廃城となってしまったのは二階堂貞藤が甲斐国へ移り住んでいたようで、寺院を再興させるために稲葉山から下りたことで城が不要だと感じ廃城にしてしまったのかも知れません。そこから数百年の間、城の残骸だけ残していき室町幕府へと時代が変わっていく頃に再び築城されていきました。

建築手法

十五世紀中頃に美濃守護代に任命されていた斎藤道三が稲葉山の山頂に城を築く計画を立て、残骸を修復しつつ完成させていきました。天守構造については残されていないため、判明していなく現在発掘調査を行っているようです。

建物は独立式望楼型3重4階となっていて独立していた天守でしたが、最終的には廃城となってしまい天守の手がかりになるものがありませんでした。山の頂上にあるということで山城として扱われ、難攻不落の城として知られていき斎藤氏がこの地を収めていたころは金華山城や井口城といわれています。

岐阜城と呼ばれていくのが織田信長がこの城を居城とした時に、名付けていきました。

斎藤氏が台頭してくる

斎藤氏の手によって再建され、激動の時代へと突入していきます。

家督争いに巻き込まれていく斎藤氏

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室町幕府から守護代に任命されていた斎藤利良が美濃一帯を支配しており、重臣だった長井長弘と共に政務を行っていました。大きな争いごともなく過ごして両名でしたが、美濃守護の土岐氏が次期当主を長男ではなく次男を推薦したことで家中で意見が分かれてしまい家督争いへと発展していきます。

土岐氏は長男の頼武と次男の頼芸が対峙していき、利良は頼武側に付き長弘は頼芸側に付いたことで斎藤氏の中でも家臣達が分かれて戦うことになっていきました。初戦は頼武側の勝利となりましたが、1518年に再び両者が対峙し頼芸側が勝利し頼武を越前国へ追放していきます。

越前国に逃げた頼武は朝倉氏の力を借りて頼芸を圧倒し、守護の座に頼武が就いていきました。このままで終わることができないと思った長弘は頼芸を守護の座に就けために策を練っていきます。

岐阜城が落城

頼芸を擁して頼武に対して挙兵していった長弘は、岐阜城を攻め立てていきました。勢いのあった長弘の侵攻を止めることはできずに岐阜城は、陥落し美濃守護所も制圧していき反乱は成功。

また頼武も戦いで破り越前国へ追放し、美濃守護に頼芸を就かせ長弘は美濃守護代として岐阜城を居城としていきました。しかし長弘の守護代は長く続かずに、家臣だった長井新左衛門尉が法を犯したという理由で長弘を処刑していき新左衛門尉が岐阜城の当主となっていきます。

新左衛門尉が亡くなると道三が継ぎ、岐阜城を拠点とした国作りが始まっていきました。

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