今日は関東軍(かんとうぐん)について勉強していきます。1931年の満州事変は関東軍の暴走が印象的ですが、関東軍は日本側の兵でありながらなぜ日本軍と表現しないのでしょうか。

この理由は「関東軍=日本軍」ではないためで、この区別は少々複雑で一言では説明しきれない。そこで、今回は関東軍について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から関東軍をわかりやすくまとめた。

関東軍誕生までの歴史

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日本軍の設立

まず日本軍の誕生を振り返ると、それは1871年まで遡ります。富国強兵を掲げていた新政府は、大村益次郎の指揮で天皇護衛のための軍隊となる御親兵を創設、これが日本軍の誕生となりました。最も、天皇護衛はあくまで名目上であり、本来の目的は廃藩置県をスムーズに行うことだったそうです。

設立当初は鎮台と呼ばれるグループに分けられ、士族反乱や西南戦争……言わば内乱の鎮圧を主な任務としていました。1871年は明治時代初期にあたるため、このような役割はわざわざ軍隊を設立せずとも、江戸時代に活躍した武士に任せれば良いのではないかと思うかもしれません。

しかし、近代国家を目指す明治政府にとって武士はもはや不要の力であり、それゆえの冷遇が士族反乱や西南戦争を引き起こした原因にもなったわけです。そして、やがて徴兵制が採用されると鎮台制は師団制へと変更され、陸軍の組織確立に伴って陸軍省が創設されました。

関東軍の誕生

さて、日本軍と言えば陸軍だけでなく海軍も連想しますが、当時海軍は横須賀造船所を中心に戦艦をつくることに励んでいます。そして、主な任務としては輸送船や貿易船の護衛を務めていて、要するに日本にとって重要な船を守るという海軍の名に相応しい働きをしていました。

日本軍の陸軍と海軍、ここまでまだ関東軍の名前が一切登場していません。なぜならこの時はまだ関東軍は誕生しておらず、誕生のきっかけとなったのはその後に起こる数々の戦争です。1894年の日清戦争、1904年の日露戦争、日本はいずれの戦いにおいても勝利しました。

日清戦争や日露戦争に戦争に勝利した日本は大連、旅順、満州に新たに作られた日本の鉄道会社である南満州鉄道を租借地として手に入れます。最も、これらの場所は海外にあるためそこを守るには部隊を派遣する必要があり、そこで作られたのが日本軍から分かれた関東軍だったのです。

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関東軍の独断行動

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関東軍の立場と権力

関東軍は日本軍から分かれて作られた軍になりますが、ここで日本軍と関東軍の違いをまとめてみましょう。日本軍は文字どおり日本の軍隊を示していて、その頂点に立つのは天皇であり、その下についたのが陸軍大臣と海軍大臣。そして、軍の指揮を任されていたのは参謀総長です。

一方、関東軍は日露戦争で獲得した租借地を守るために派遣された軍を示していて、頂点に立つのは司令官であり、その下に参謀長がついていました。関東軍の「関東」とは関東地方の意味ではなく、山海関と呼ばれる関所よりも東側に軍が設置されたことがその名の由来になっています。

さらに権力や立場を比較すると「日本軍>関東軍」となるため、つまり関東軍は日本軍の配下ということになりますね。最も、これは頂点に立つ存在で比較すれば一目瞭然で、仮に関東軍が日本軍より立場が上なら、日本で最も偉い存在であるはずの天皇が日本軍の頂点に立つのは矛盾してしまいます。

中国の情勢変化に対する危機感

南満州鉄道や関東州を守っていた関東軍は、やがて中国の情勢の変化に危機感を抱くようになっていきます。1911年の辛亥革命をきっかけに分裂状態となっていた中国、しかし1920年代に入ると中国国民党のリーダー・蒋介石が勢力を高めていき、蒋介石は中国全土を統一しようとしていました。

仮に蒋介石が中国全土の統一に成功すれば、満州での日本の利益も奪われてしまう……そう危機感を抱いた関東軍は満州を支配していた張作霖を蒋介石の対抗馬に当てようと考えます。しかし、張作霖は欧米諸国との関係を優先するようになり、挙句の果てに蒋介石率いる中国国民党に敗れてしまいました。

こうなると張作霖は関東軍にとってもはや用済みの存在。とは言え、このような理由で日本の政府が張作霖の殺害を許すはずはなく、そのため関東軍は独断で張作霖を列車ごと爆殺するという暴挙に出たのです。これが1928年の張作霖爆殺事件であり、勝手に軍事行動を起こした関東軍の行動は当然逆罪にあたるものでした。

満州事変の発生

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満州を手に入れたい関東軍

関東軍が独断で起こした張作霖爆殺事件の情報は当然日本政府に伝わります。明らかな憲法違反をおかした関東軍参謀・河本大作大佐には処分が下されますが、その処分とは「停職」という非常に軽いものでした。そして、この処分に納得できなかったのが日本の頂点に立つ天皇で、昭和天皇は当時の首相・田中義一を叱責して総辞職させたのです。

成果の有無だけで考えても、張作霖爆殺事件は大失敗に終わります。なぜなら、張作霖の後を継いだ息子の張学良は日本を恨むようになり、対立勢力であるはずの蒋介石の味方についてしまったからです。つまり、関東軍の行動は蒋介石を阻止するどころか逆に力を高めさせてしまい、日本の権益もより危なくなりました。

ただ、これで反省する関東軍ではありません。新たな参謀として就任した石原莞爾はこれまた過激な考えを持つ人物で、石原莞爾はやがて日本は東洋の代表として西洋の代表であるアメリカと戦争することを予言。そして、アメリカとの戦争に勝利するためには満州を手に入れなければならないと考えていたのです。

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柳条湖事件と満州事変

石原莞爾の考えのもと、中国軍と戦って満州を占領したい関東軍。しかし、ただ占領することを目的に軍事行動を起こせばそれはただの侵略行為になってしまい、関東軍は自らの首を絞める結果になってしまうでしょう。逆に言えば、関東軍は戦う理由さえあればすぐにでも中国軍に対して軍事行動を起こして満州を占領したいと思っていました。

そこで、関東軍はその戦う理由を自作自演によって作ってしまいます。1931年、南満州鉄道鉄道の一部が爆破される事件が起こり、関東軍はこの犯人を中国軍と断定しました。しかし、この柳条湖事件の真犯人は関東軍であり、関東軍は中国軍の仕業とすることで軍事行動を起こすきっかけに利用したのです。

こうして起こったのが満州事変、関東軍は中国軍を倒して満州全土の占領に成功。それどころか、そこに満州国と呼ばれる国まで勝手に建国する始末、もはや政府ですら制御できないほど暴走してしまいます。その影響で次々と内閣が総辞職となる中、ついには斎藤実内閣が満州国を承認して関東軍の行動を正当化してしまうのでした。

関東軍崩壊への道

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ノモンハン事件での敗北

関東軍の暴走はもはや政府でも止められず、止められるとすれば関東軍が戦いで敗北した時でしょう。そして、関東軍が敗北するそんな戦いはやがて起こり、それは1939年の満州国とモンゴルの国境付近で起こったノモンハン事件でした。1939年は第二次世界大戦が始まった年ですが、これと同じ頃に日本はソ連と戦っていたのです。

ノモンハン事件とは、簡単に言えば満州国とモンゴルとの間に起こった国境問題なのですが、ここでポイントなのが「満州国=日本の傀儡国家」であり「モンゴル=ソ連の傀儡国家」という点。つまり満州国とモンゴルの争いは、日本とソ連の争いであることを示します。

争いの中、満州国に駐屯中の関東軍はまたしても独断で戦線を広げていき、その結果ソ連の攻撃を受けてほぼ壊滅状態に陥りました。もちろん日本も「関東軍の暴走」で片づけられる問題ではなく、ソ連に対してこれ以上戦闘を続行するのは不可能と判断、後日モスクワにて停戦協定を締結させるに至っています。

太平洋戦争の始まり

ノモンハン事件で力が弱まった関東軍は太平洋戦争の終盤で崩壊することになりますが、その解説のためノモンハン事件が起こった2年前……すなわち1937年まで時間を戻します。1937年に日本は中国と日中戦争を起こし、この戦争では開戦当初においては日本が優勢でした。

しかし、戦争が続く中で中国はイギリスやフランスから援助を受け、そのため戦況が変わりつつあり日本も押されるようになっていきます。最も、日中戦争は関東軍が独断で起こした戦争ではないため、むやみな軍事行動を暴走と表現するなら、この頃は日本軍も暴走していると考えて良いでしょう。

日中戦争で形勢逆転しつつある戦況を変えるため、日本はドイツ・イタリアと同盟を締結させるなどの行動に出ますが、こうした日中戦争での日本の行動がアメリカを怒らせてしまいます。その挙句に起こったのがアメリカとの太平洋戦争であり、日本は第二次世界大戦に巻き込まれていきました。

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関東軍の廃止

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太平洋戦争の敗北

太平洋戦争で日本が戦うことになったのはアメリカ、両国の軍事力の差は明らかであり、そこで日本は奇襲でアメリカの戦意を奪い、その上で講和に持ちこむという短期決戦の方針を計画して実施、真珠湾攻撃による奇襲は成功して開戦早々アメリカにダメージを与えます。

ただ、この真珠湾攻撃に奇襲は戦争のルールに反するもので、宣戦布告前に攻撃したことでアメリカに徹底抗戦の感情を芽生えさせてしまいました。一方、奇襲に成功した日本軍はその勢いで太平洋の島々を次々と占領していきますが、ミッドウェー海戦の敗北をきっかけに形勢逆転、日本は立て続けに敗北するようになります。

そして太平洋戦争の敗北が濃厚となったさなか、日ソ中立条約を結んでいたはずのソ連が突如日本に対して宣戦布告。アメリカ側につく形となったソ連は満州国になだれ込むように攻め込んできて関東軍を崩壊させたのです。やがて日本は戦争に降伏し、日本軍と関東軍は廃止され、憲法によって軍隊の所有は禁止となりました。

関東軍のまとめ

関東軍についてまとめると、関東軍とは日本軍から分かれて作られた部隊で、その目的は日露戦争で獲得した南満鉄などの領地を守ることでした。そのため現地に派遣された関東軍ですが、中国の情勢変化に伴って日本の利益に危機感を抱き、やがて独断で行動するようになります。

しかしその行動とは過激そのもので、中国の重要人物の爆殺や自作自演による事件を起こしての軍事行動などでした。特に1931年の満州事変は有名で、関東軍は軍事行動を起こして満州全土を占領、さらにはそこに満州国と呼ばれる国まで作ってしまいます。

こうして暴走を続ける関東軍に日本政府は黙認の対応を取りますが、1939年のノモンハン事件によって関東軍はソ連に敗北。そして、第二次世界大戦の中で起こった太平洋戦争では日本に宣戦布告したソ連が満州国へと攻め込み、関東軍は崩壊して戦後に日本軍と共に廃止されました

関東軍を覚えるには満州事変に注目しよう!

関東軍のポイントとして抑えるべきなのは、やはり満州事変でしょう。満州事変を起点として関東軍誕生の歴史を振り返り、また関東軍の行く末を辿るのが理解しやすい覚え方だと思います。

活躍と表現すると不適切かもしれませんが、関東軍が最もその名を示したのは満州事変のため、関東軍を覚えるなら最低限この事件を深く理解しておかなければなりません。

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日本史昭和歴史

満州事変を起こした暴走部隊「関東軍」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は関東軍(かんとうぐん)について勉強していきます。1931年の満州事変は関東軍の暴走が印象的ですが、関東軍は日本側の兵でありながらなぜ日本軍と表現しないのでしょうか。

この理由は「関東軍=日本軍」ではないためで、この区別は少々複雑で一言では説明しきれない。そこで、今回は関東軍について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から関東軍をわかりやすくまとめた。

関東軍誕生までの歴史

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日本軍の設立

まず日本軍の誕生を振り返ると、それは1871年まで遡ります。富国強兵を掲げていた新政府は、大村益次郎の指揮で天皇護衛のための軍隊となる御親兵を創設、これが日本軍の誕生となりました。最も、天皇護衛はあくまで名目上であり、本来の目的は廃藩置県をスムーズに行うことだったそうです。

設立当初は鎮台と呼ばれるグループに分けられ、士族反乱や西南戦争……言わば内乱の鎮圧を主な任務としていました。1871年は明治時代初期にあたるため、このような役割はわざわざ軍隊を設立せずとも、江戸時代に活躍した武士に任せれば良いのではないかと思うかもしれません。

しかし、近代国家を目指す明治政府にとって武士はもはや不要の力であり、それゆえの冷遇が士族反乱や西南戦争を引き起こした原因にもなったわけです。そして、やがて徴兵制が採用されると鎮台制は師団制へと変更され、陸軍の組織確立に伴って陸軍省が創設されました。

関東軍の誕生

さて、日本軍と言えば陸軍だけでなく海軍も連想しますが、当時海軍は横須賀造船所を中心に戦艦をつくることに励んでいます。そして、主な任務としては輸送船や貿易船の護衛を務めていて、要するに日本にとって重要な船を守るという海軍の名に相応しい働きをしていました。

日本軍の陸軍と海軍、ここまでまだ関東軍の名前が一切登場していません。なぜならこの時はまだ関東軍は誕生しておらず、誕生のきっかけとなったのはその後に起こる数々の戦争です。1894年の日清戦争、1904年の日露戦争、日本はいずれの戦いにおいても勝利しました。

日清戦争や日露戦争に戦争に勝利した日本は大連、旅順、満州に新たに作られた日本の鉄道会社である南満州鉄道を租借地として手に入れます。最も、これらの場所は海外にあるためそこを守るには部隊を派遣する必要があり、そこで作られたのが日本軍から分かれた関東軍だったのです。

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