『将門記』の主人公「平将門」の名前を聞いたことはあるか?彼は日本三大怨霊とも言われているから、オカルト方面でも有名な武将です。しかし、なぜ「平将門」はそんな物騒な怨霊なんかになったんでしょうな?

今回は「平将門」の人生を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。平氏は源氏のライバルとして描写されるため詳しくなった。

1.関東に根付いた平氏

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平将門が生まれた平氏の事情

日本に「平氏」の一族が生まれたのは平安時代中期ごろ。桓武天皇の孫にあたる「高棟王(たかむねおう)」や「高望王(たかもちおう)」ら兄弟が臣籍降下して賜ったのが「平」の姓でした。

「平清盛」が有名なように「平氏=武士」のイメージがありますが、このうちで実際に武士となったのは「高望王」とその子孫のみ。あとはみんな都で文官として勤めています。なかには大出世した人物もいるんですよ。

では、なぜ高望王は武士となったのでしょうか?

それは、当時の朝廷の勢力図に答えがあります。平安時代中期の朝廷は「藤原氏」が非常に強い権力を握った時代でした。桓武天皇の孫とはいえ、都にいたままでは思うような出世は難しいと判断したのでしょう。実際、平将門は若い頃に藤原家の氏の長者だった藤原忠平に仕えましたが、実力を認められながらも与えられた官位は低いままでした。

関東を拠点にして勢力をのばす

「高望王」改め、「平高望(たいらのたかもち)」は、898年に上総介に任命されて上総国(現在の千葉県)の国司となりました。国司となれば、任地に赴いて仕事をしなければなりませんでした。しかし、このころの貴族は、たいてい、地方に任官されても任地へは行きません。代理人を派遣して、自身は都に残るのが常でした。これを「遙任」といいます。

ところが、平高望は遙任を行わず、息子たちを伴って自ら関東へと赴いたのです。そうして、任期満了となっても彼は都へは帰りませんでした。

平高望の息子・平国香や平良兼、平良将らは現地の有力者の娘と婚姻したり、東国の未開墾地を開発して勢力を拡大していったのです。

土地の開発をするということは、その土地で米や作物をつくったり、家を建てたりして住めるようにするということ。そこには必ず利益が生まれます。そうすると、その利益を守る必要性がでてきますね。平高望は利益を守るために戦えるものを集めて「武士団」を形成して一族の基盤を固めました。

平将門の父・平良将

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平高望の長男・平国香や次男の平良兼が常陸国(茨城県)の国司のひとり「源護(みなもとのまもる)」の娘たちと婚姻したのに対し、三男の平良将は下総国(千葉県北部周辺)の名族・犬養春枝の娘を妻としました。そうして生まれたのが平将門です。

父・平良将は下総国豊田郡を拠点にしたとされ、土地を開発し広大な「私営田」をつくったとされています。

「私営田」というのは、読んで時のごとく「個人の田地」ですが、経営者(この場合は平良将)が自分で耕したり農作物を育てるわけではありません。この土地に農人を集めて耕作させ、その収穫が経営者の懐に入るというもの。ついでですが、個人の「私営田」に対して、国が経営する田地を「公営田」といいました。

また、平良将は、兄の平国香の次に「鎮守府将軍」に就任します。「鎮守府将軍」とは、陸奥国に置かれた軍政を司る「鎮守府」の長官のこと。陸奥国と出羽国の兵士を指揮し、北方の蝦夷から国土を守る職務でした。次男の平良兼をすっ飛ばして、弟の平良将が就任したのですから、彼はかなり優れた人物だったのかもしれません。

平良将はそんな優秀な父でしたが、残念なことに息子の平将門が20代のころに亡くなってしまいます。そして、平良将の広大な遺領は兄の平国香らによって奪われてしまうのでした。

上京してみたけれど

平良将の死から時をさかのぼって、平将門が15~16歳のころのこと。彼は故郷の東国ではなく、祖父らが捨てた平安京に上京して藤原忠平(ふじわらただひら)に仕えていました。藤原忠平は藤原家の氏の長者、つまり、当時の朝廷で最も権力を持った人物です。

上司が良ければ出世しそうなものですが、しかし、そこは藤原氏が幅を利かせる平安時代中期。いくら平将門が桓武天皇の子孫であれ、父の平良将が鎮守府将軍であれ、藤原政権下では一介の兵士にすぎません。藤原忠平に認められはしても、検非違使(当時の警察)の官職になる夢はかなえられませんでした。

そうして、十二年後に父・平良将が亡くなったのをきっかけに、東国へ戻ることになったのです。

\次のページで「「平将門の乱」へつながる騒動、諸説アリ」を解説!/

「上京」の違い今昔

平将門は東国から平安京へ「上京」していますね。けれど、現代で「上京する」と言えば普通「東京へ行く」という意味になります。

なぜ平安京へ行くことを「上京」と言うのでしょうか?

実は、「上京」の「京」の字は「首都」という意味があるのです。なので、当時の日本の首都だった平安京に行くことを「上京」、現代では東京へ行くことを「上京」と現しました。

また、「上京」と同じ使い方で「上洛」という言葉もあるのですが、こちらの「洛」は日本では特に京都を指して使います。京都では今でも「洛外」や「洛中」、「洛北」という言葉が残っていますしね。そのため現代の東京へ行くことを「上洛」とは言わないのです。

「平将門の乱」へつながる騒動、諸説アリ

のちの「平将門の乱」へつながる原因は諸説ありますが、そのうちのひとつが、先述した平将門の父の遺領問題です。

そりゃあそうですよね。実家に帰ったら自分ちの土地が伯父さんたちにかっさらわれているんですから。母は実家の犬養家の力を借りながらなんとか家を維持するので精一杯です。これで怒らない人がいますか?

他にもいくつかの説があり、『将門記』によると、平将門は伯父の平良兼と女性問題で対立したとの記録があります。あるいは、源護と平真樹の領地争いに介入した説も。

「平将門の乱」を記録した『将門記』は当時の貴重な史料として評価されています。けれど、作者不明であったり、一部欠けがあったりと不確かな部分があるため、諸説のうちからコレ!と決めることができないんですね。

2.坂東平氏の内紛から「平将門の乱」へ

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豊原国周 - ウォルターズ美術館: Home page  Info about artwork, パブリック・ドメイン, リンクによる

源護の息子たちとの戦い

原因は諸説あれ、伯父たちからの非道な仕打ちに対抗するため、平将門は下総国豊田を本拠地にして自分の勢力を拡大させていきました。平将門が力を蓄えているいるうちに、とうとう最初の戦いが起こったのです。

935年2月、源護の息子の源扶(みなもとのたすく)は二人の兄弟を引き連れて常陸国野本で平将門を待ち伏せし、合戦が始まりました。

しかし、突然戦いを仕掛けられたはずの平将門は、逆に源扶兄弟を返り討ちにすると、逃げる彼らを追って源護の館にまで攻め入ったのです。そうして、平将門は周辺の村を焼き、源扶兄弟を討ち取ってしまいます。勢いに乗った彼は、さらに伯父の平国香の館まで行って火をかけて打ち取ってしまったのでした。

復讐に燃えた源護だが

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一方、三人の息子たちを討ち取られた源護は、娘婿の平良正に訴えます。前章でお話した通り、源護は平国香や平良兼、平良正ら兄弟と自分の娘を婚姻させた親戚にあたりました。平将門の父・平良将だけが、源護の娘と結婚していなかったため、平将門とは直接の姻戚関係を結んでいないのですね。

源護に訴えられた平良正は、平将門を討ち取ろうと出陣しますが、これもあえなく平将門に撃退されてしまいます。そこで平良正は兄の平良兼に助けを求めました。平良兼が平国香の息子・平貞盛を味方に引き入れて、大軍を形成します。こうして、「平将門vsその他の坂東平氏」の図式ができあがったのでした。

平良兼らが連合した大軍と平将門の戦いは約三年ほど続くことになるのですが……。ふたを開けてみると、平将門の奮闘に平良兼たちがほとんど押され気味になっていました。

さらには平将門が都にいる元主人の藤原忠平に伯父たちの非道を訴えて、朝廷から平良兼らを捕えよという官符をもぎ取ります。つまり、平良兼は国家の敵になったのです。

そして、最後の戦いで夜襲したにもかかわらず失敗した平良兼は、失意のうちに病没したのでした。

\次のページで「平清盛の先祖・平貞盛」を解説!/

平清盛の先祖・平貞盛

平良兼側の人間として登場する平貞盛。実は、平貞盛はのちに都で大権勢を振るう「平清盛」の先祖にあたります。平将門との戦いでなんとか逃げ延びた平貞盛の四男・平維衡(たいらのこれひら)がのちに伊勢(現在の三重県)に移り、朝廷や上流貴族に仕える軍事貴族となったのでした。

しかし、このとき平良兼を失って頼るべきもののいなくなった平貞盛は、平将門に追われながら東国を放浪することとなってしまいました。

身内での私闘を治めたあと

一族内での私闘を治めた平将門は、その功績から東国の有力者たちから一目置かれ、頼られる存在へとなっていきます。

そうして、932年のこと。武蔵国権守(国司の役職のひとつ)の興世王(おきよおう)と、新たに赴任してきた武蔵国守百済貞連が不和となり、興世王は自分の任地を離れて平将門に頼るようになってしまいました。さらにそこへ常陸国で国の貯蔵庫を破ったお尋ね者の藤原玄明(ふじわらのはるあき)が庇護を求めてやってきます。平将門は彼も匿い、常陸国からの引き渡し要求を拒否してしまいました。

この藤原玄明の処遇を巡り、平将門は常陸国へ軍勢を率いて行って彼を追うのをやめるように要求するのです。いくら平将門の要求と言えど、国としてこんな無法なまねを通すわけにはいきません。常陸国は要求を拒否すると同時に、平将門に対して宣戦布告して両者ともに一歩も引けない状態へと突入していったのでした。

3000人の常陸国軍と1000人の平将門軍。数字の上では常陸国が有利なように思えましたが、しかし、平将門はこの数的不利を打ち破り、あっけなく常陸国を降伏させてしまいます。

地方とはいえ、朝廷から派遣された人々の働く国府を落としたわけですから、これは国家への謀反として言い訳もできません。平将門はもう二度と戻れない道を歩み始めたのでした。

「平将門の乱」勃発

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常陸国国府を落とした平将門は興世王の進言によって、さらに翌月に下野国(栃木県)や上野国(群馬県)の国府まで襲撃して制圧してしまいました。このようにして関東一体を奪い取った彼は、独自に任官を行って岩井(茨城県坂東市)に政庁を置きます。

そして、『将門記』によると、平将門は八幡大菩薩の使いを名乗る巫女の宣託により「新皇」を称するようになりました。

しかし、勝手に国内に新しい国を打ち立てられて黙っている朝廷ではありません。……が、「平将門の乱」と同時期に瀬戸内海で「藤原純友の乱」が起こったのです。このふたつの乱を合わせて「承平天慶の乱」といいます。

平将門追討に平貞盛出陣

東と西の両方から謀反の知らせが届いた朝廷は、まず瀬戸内海で海賊に転身した藤原純友に位を授けるなどして懐柔します。そして、ひとまず兵を東の平将門に集中させることにしたのです。

藤原忠文が征夷大将軍に任命され、追討軍が東へ向かって出発しますが、一方そのころ、平将門は5000人の兵を使って平貞盛とその息子・平為憲を捜索しています。けれど、ここで平貞盛たちは見つかりませんでした。

それからしばらくもしないうちに、平貞盛が下野国の押領使だった藤原秀郷(俵籐太)と一緒に4000人の兵を集めたとの情報が平将門軍に飛び込んできます。しかも間の悪いことに、5000人もいた平将門軍の兵たちのほとんどが帰国していて、彼の手元にはたったの1000人しか残っていませんでした。

伯父たちとの戦いで数の不利を乗り越えて勝利してきた平将門でしたが、合戦になるや平将門の兵たちは奮うことなくさらに数を減らしていきます。そうして、寡兵で最後の戦いに挑んだ平将門の額に、どこからか飛んできた矢が命中し、あっけなく戦死してしまったのでした。

戦いに明け暮れた平将門

伯父たちと戦い父の遺領を取り戻したまではよかったものの、そのあとはお尋ね者を匿ったり、国に無茶な要求をしたりと、それまで身内へ向いていた平将門の牙は徐々に国へと向けられてしまいました。そこにきて自ら新しい天皇として国を打ち立ててしまったからには、もうあとには引けません。

若い頃から死の間際まで戦いに明け暮れることとなった平将門。その死後は都で晒首にされてしまいますが、彼の首は夜中のうちに大笑いしながら関東へ飛び去ってしまったという伝説が残りました。

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平安時代日本史歴史

『将門記』の主人公「平将門」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

『将門記』の主人公「平将門」の名前を聞いたことはあるか?彼は日本三大怨霊とも言われているから、オカルト方面でも有名な武将です。しかし、なぜ「平将門」はそんな物騒な怨霊なんかになったんでしょうな?

今回は「平将門」の人生を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。平氏は源氏のライバルとして描写されるため詳しくなった。

1.関東に根付いた平氏

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平将門が生まれた平氏の事情

日本に「平氏」の一族が生まれたのは平安時代中期ごろ。桓武天皇の孫にあたる「高棟王(たかむねおう)」や「高望王(たかもちおう)」ら兄弟が臣籍降下して賜ったのが「平」の姓でした。

「平清盛」が有名なように「平氏=武士」のイメージがありますが、このうちで実際に武士となったのは「高望王」とその子孫のみ。あとはみんな都で文官として勤めています。なかには大出世した人物もいるんですよ。

では、なぜ高望王は武士となったのでしょうか?

それは、当時の朝廷の勢力図に答えがあります。平安時代中期の朝廷は「藤原氏」が非常に強い権力を握った時代でした。桓武天皇の孫とはいえ、都にいたままでは思うような出世は難しいと判断したのでしょう。実際、平将門は若い頃に藤原家の氏の長者だった藤原忠平に仕えましたが、実力を認められながらも与えられた官位は低いままでした。

関東を拠点にして勢力をのばす

「高望王」改め、「平高望(たいらのたかもち)」は、898年に上総介に任命されて上総国(現在の千葉県)の国司となりました。国司となれば、任地に赴いて仕事をしなければなりませんでした。しかし、このころの貴族は、たいてい、地方に任官されても任地へは行きません。代理人を派遣して、自身は都に残るのが常でした。これを「遙任」といいます。

ところが、平高望は遙任を行わず、息子たちを伴って自ら関東へと赴いたのです。そうして、任期満了となっても彼は都へは帰りませんでした。

平高望の息子・平国香や平良兼、平良将らは現地の有力者の娘と婚姻したり、東国の未開墾地を開発して勢力を拡大していったのです。

土地の開発をするということは、その土地で米や作物をつくったり、家を建てたりして住めるようにするということ。そこには必ず利益が生まれます。そうすると、その利益を守る必要性がでてきますね。平高望は利益を守るために戦えるものを集めて「武士団」を形成して一族の基盤を固めました。

平将門の父・平良将

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平高望の長男・平国香や次男の平良兼が常陸国(茨城県)の国司のひとり「源護(みなもとのまもる)」の娘たちと婚姻したのに対し、三男の平良将は下総国(千葉県北部周辺)の名族・犬養春枝の娘を妻としました。そうして生まれたのが平将門です。

父・平良将は下総国豊田郡を拠点にしたとされ、土地を開発し広大な「私営田」をつくったとされています。

「私営田」というのは、読んで時のごとく「個人の田地」ですが、経営者(この場合は平良将)が自分で耕したり農作物を育てるわけではありません。この土地に農人を集めて耕作させ、その収穫が経営者の懐に入るというもの。ついでですが、個人の「私営田」に対して、国が経営する田地を「公営田」といいました。

また、平良将は、兄の平国香の次に「鎮守府将軍」に就任します。「鎮守府将軍」とは、陸奥国に置かれた軍政を司る「鎮守府」の長官のこと。陸奥国と出羽国の兵士を指揮し、北方の蝦夷から国土を守る職務でした。次男の平良兼をすっ飛ばして、弟の平良将が就任したのですから、彼はかなり優れた人物だったのかもしれません。

平良将はそんな優秀な父でしたが、残念なことに息子の平将門が20代のころに亡くなってしまいます。そして、平良将の広大な遺領は兄の平国香らによって奪われてしまうのでした。

上京してみたけれど

平良将の死から時をさかのぼって、平将門が15~16歳のころのこと。彼は故郷の東国ではなく、祖父らが捨てた平安京に上京して藤原忠平(ふじわらただひら)に仕えていました。藤原忠平は藤原家の氏の長者、つまり、当時の朝廷で最も権力を持った人物です。

上司が良ければ出世しそうなものですが、しかし、そこは藤原氏が幅を利かせる平安時代中期。いくら平将門が桓武天皇の子孫であれ、父の平良将が鎮守府将軍であれ、藤原政権下では一介の兵士にすぎません。藤原忠平に認められはしても、検非違使(当時の警察)の官職になる夢はかなえられませんでした。

そうして、十二年後に父・平良将が亡くなったのをきっかけに、東国へ戻ることになったのです。

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