今回は大岡越前を取り上げるぞ。時代劇でおなじみですが、暴れん坊将軍の補佐だったんだって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大岡越前について5分でわかるようにまとめた。

1-1、大岡越前は旗本の生まれ

大岡忠相(おおおか ただすけ)は、延宝5年(1677年)に江戸で誕生。知行1700石の旗本大岡美濃守忠高と、母は正室で1万石の大名北条氏重の娘、越前は4男。きょうだいは男兄弟が3人、女兄弟がひとり。幼名は求馬、のちには市十郎、忠右衛門、越前守は町奉行になってから。

1-2、越前、同族の養子になるも、一族に不祥事相次ぐ

大岡家は徳川家の旗本として三河以来の家柄で、代々名前に付ける忠の字は、家康の父広忠から拝領というほど。同族も多く、のちに9代将軍家重の側用人となった大岡忠光も親戚。

そして貞享3年(1686年)、9歳の越前は大岡家の同族で1920石の旗本大岡忠真(ただざね 忠右衛門)の養子にもらわれて、忠真の娘と婚約。貞享4年(1687年)、5代将軍綱吉に跡継ぎとして初めて御目見え。

しかし元禄6年(1693年)には越前の実兄忠品(ただしな)が、将軍綱吉の怒りに触れて八丈島に流罪(3年後に許されて復帰、その後父の跡を継いだ)。また元禄9年(1696年)、御書院番だった従兄の大岡忠英が、上役の旧島原藩主高力隆長の子で大番頭の高力忠弘に養子願いの際、屋敷内で忠弘を殺害して自刃、お家断絶となった事件を起こしたため、一族はこの事件に連座、越前も閉門。

翌年には赦され、元禄13年(1700年)、養父病死の跡を受けて越前は24歳で家督相続して、忠世家3代当主に。

大岡忠光
300石の旗本大岡忠利(助七郎)の長男で、大岡忠房家の4代目。言語障害のあった9代将軍家重の幼い頃から近侍したため、たったひとり家重の不明瞭な言葉を理解できたということで、側近として異例の出世を遂げたということ。

また忠光は、家重が将軍となっても、決して奢らず幕政に口を挟むようなこともない無私の奉仕で庶民にも人気があったそう。忠光は越前と個人的に親交があり、同じく将軍の信頼篤く旗本から大名へ出世したことで、身の在り方などを相談していたということ。

1-3、越前、順調に出世

越前は、元禄15年(1702年)には、戦時において将軍の身辺警護を、普段は江戸城の要所を守り、将軍御成り時には前後を守る役目である御書院番に就任。

そして元禄16年(1703年)、江戸、相模湾に大地震が起き、江戸城の門などに被害が出たために復旧普請のための仮奉行の一人を務めたということ。その後、宝永元年(1704年)には御徒頭、宝永4年(1707年)になると御使番に、そして御目付にと大身の旗本として順調な出世コースを。

1-4、越前、山田奉行に

越前は、6代将軍家宣の時代の正徳2年(1712年)、17代目の山田奉行に就任。4年ほど山田町奉行を務めたということ。

尚、伊勢地方では、奉行の支配下にある幕府領と紀州徳川家領の間での係争が発生しがちで、山田(現伊勢市)と松坂(現松阪市)との境界を巡る訴訟で、紀州藩領の松坂に有利な前例に従わず、公正に裁いたため、当時の紀州藩主で、後の8代将軍吉宗に認められて後に町奉行に抜擢されて重用されることになった、という通説が定番に。

越前の山田奉行時代に吉宗と知り合ったとする巷説はほかにもあるということですが、実際には奉行時代の越前には他領との係争を裁定する権限はなくそれ以前の別人の奉行という話もあり、また遠国奉行から江戸町奉行という昇進コースは順当なもので、60代で就任することが多い町奉行に40代で就任したとはいえ、大抜擢というほどではないそう。

\次のページで「2-1、越前、江戸町奉行として改革を」を解説!/

山田奉行とは
山田奉行は、遠国奉行(おんごくぶぎょう)のひとつで、江戸幕府の役職。

江戸以外の幕府直轄領(御料、幕領、天領とも)の重要な場所に置かれて土地の政務を取り扱った役所。京都町奉行、大坂町奉行、駿府町奉行、長崎奉行、伏見奉行、山田奉行、日光奉行、奈良奉行、堺奉行、佐渡奉行、浦賀奉行、下田奉行、新潟奉行、箱館奉行、神奈川奉行、兵庫奉行が幕末までに置かれたということ。尚、伏見奉行は大名、他は旗本が任じられたそう。

山田奉行は主に伊勢神宮の守護、造営修理と祭礼、遷宮、そして門前町支配と伊勢、志摩地方の訴訟、鳥羽港の警備や船舶点検などを担当したということで、別名として伊勢奉行や伊勢郡代、伊勢山田奉行。

2-1、越前、江戸町奉行として改革を

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享保元年(1716年)越前は江戸に呼び返されて御普請奉行に。

そして享保2年(1717年)、41歳で江戸町奉行に就任。同時に能登守から越前守に。江戸町奉行は寺社奉行、勘定奉行とともに三奉行と呼ばれて別格の待遇。評定所の正規構成員として幕府最高の司法と行政に参与し、高級閣僚の業務も担当するなどの特別な権限を持った官職。8代将軍吉宗は享保の改革に着手、越前も右腕として今後20年もの長きにわたって町奉行職を務めることに。

大岡越前の町奉行としての活躍はドラマでもおなじみですが、あれはほとんどフィクションということなので、ここでは8代将軍吉宗のもと、享保の改革でおこなったリアルな業績をご紹介しますね。 

2-2、町火消を創設

越前は、享保3年(1718年)に防火負担の軽減のために町火消組合を創設。享保5年(1720年)には、町火消組織を「いろは四十七組(のちに四十八組)」の小組に再編成。瓦葺屋根や土蔵など防火建築を奨励、火除地を設定、火の見制度の確立などを徹底し、江戸の防火体制は強化されたそう。

そして享保6年(1721年)、町代を廃止、町名主の減員など町政改革も行ったというっ子と。

2-3、小石川養生所を設置

下層民対策として、享保7年(1722年)、設置された目安箱に町医師小川笙船(赤ひげのモデル)が、貧しい病人のための養生院設置の要望を投書したことから、吉宗からこの養生院について検討を命じられて小石川薬園内に小石川養生所が設置。

2-4、元文小判の改鋳

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As6673 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

元文元年(1736年)5月12日、幕府は町奉行の越前と勘定奉行の細田時以を最高責任者として貨幣改鋳を実施。正徳、享保金銀など良質貨幣の流通で諸物価が暴落し通用金銀が不足、景気が沈滞したために悪鋳に踏み切って、物価の調整を行ったことで景気が持ち直して安定したそう。元文金銀は80年以上にわたって通用。

2-5、その他

私娼の禁止、心中や賭博などの風俗取締りを強化。

与力の加藤枝直に紹介されたという、甘藷先生こと儒学者青木昆陽を書物奉行に任命して、飢饉対策作物としてさつま芋の栽培を奨励。

米将軍といわれた吉宗主導のもとの米価対策として、米会所の設置、公定価格の徹底指導、物価対策として株仲間の公認といった組合政策を指導。

また、書籍の最終ページに記載されている「奥付」は、享保6年(1721年)に越前が義務化させたために一般化。

享保7年(1722年)、江戸近郊の秩序見直しとして地方御用を拝命、農政にも携わったということで、役人集団を伴って、武蔵野新田、上総国新田の支配、小田原藩領の酒匂川普請を行ったり、儒教思想を浸透させるために、積極的に忠孝者を褒賞したということ。

\次のページで「2-6、大岡裁き」を解説!/

2-6、大岡裁き

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越前がお白州で裁いたという名裁きは大岡裁き、大岡政談と言われて、「天一坊」「三方一両損」「縛られ地蔵」「白子屋お熊」などが有名ですが、「白子屋お熊」以外は越前の裁きではなく創作で、のちに講談などで庶民に広まったものだそう。

しかし江戸の庶民としては、享保の改革で江戸庶民のための町火消や養生所を作り、20年も町奉行を務めたため、町奉行と言えば大岡越前守越前という存在になったのでは。

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白子屋 お熊事件とは
享保11年(1726年)10月に実際に起きた事件。

江戸日本橋新材木町の材木問屋「白子屋」(しろこや)の長女お熊の婿の又四郎が、16歳の下女きく(当時16歳)に頸部を剃刀で切りかかられて負傷。白子屋は、婿養子又四郎の実家に示談を持ちかけたが、又四郎とくま夫婦の不仲、下女きくの犯行動機が不明であるため、町奉行所に訴え出て、奉行所が取り調べたところ、下女きくはお熊の母で店主の妻つねの犯行教唆を自白。

つね、熊母娘を取り調べると婿の又四郎殺害計画を自供。熊と又四郎の結婚は、資金繰りが苦しい白子屋が、大伝馬町の資産家の息子又四郎の結納金目的だったので、熊は夫又四郎を嫌って、結婚後も女中のひさに手引きさせて手代の忠八と関係があり、母つねも娘の密通を容認。熊は又四郎との離縁を望んだが、離縁すれば結納金を返さなければいけないために、又四郎を病死に見せかけて殺して、金を返さず忠八と結婚という自己中心的に考えての殺害計画だったということ。最初は病死に見せかけた毒殺を計画、出入りの按摩を騙して又四郎に毒を盛らせたが失敗、次に下女きくを脅して又四郎を攻撃させたが失敗して殺害計画が露見。

白子屋の関係者は大岡裁きを受けて、妻子の監督を怠り、世間を騒がせた罪を問われた店主庄三郎と、事件に加担した按摩の横山玄柳は江戸所払いに。下手人の下女きくは死罪、密通をそそのかした罪で女中のひさは市中引き回しの上死罪、密通の罪で手代忠八は市中引廻しの上獄門、従犯の母つねは遠島、主犯である熊は密通と夫の殺害未遂という重罪を問われ町中引廻しの上獄門に。

尚、熊は美貌で有名だったためか、市中引き回しの時も 裸馬に乗せられた熊は、白無垢の襦袢に当時非常に高価な黄八丈の小袖を着て水晶の数珠を首に掛けた華やかな姿で、静かに経を唱えるというパフォーマンスぶりで江戸の街中の評判になり、のちに人形浄瑠璃や歌舞伎に取り上げられたということ。

3-1、越前、寺社奉行に

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不詳 - 国立国会図書館, パブリック・ドメイン, リンクによる

越前は元文元年(1736年)8月、60歳で寺社奉行に就任し、評定所一座も引き続き務めることに。

寺社奉行としては元文3年(1738年)に仮完成の公事方御定書の追加改定、御触書の編纂、公文書の収集整理などを行い、儒学者の青木昆陽に旧徳川家領の古文書を収集させて分類整理したということ。尚、越前は寺社奉行に就任後、2000石を加増されて5920石となったうえ、寛延元年(1748年)10月、奏者番を兼任と同時に足高分が正式に加増、三河国西大平(現岡崎市)1万石が与えられて正式に大名に。

町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて越前ただひとりということ。

3-2、寺社奉行とは

江戸町奉行と勘定奉行は旗本が就く役職だが、寺社奉行は譜代大名の役職で、万治元年(1658年)以降は、奏者番に選ばれた譜代大名の若手の中から、さらに選ばれて寺社奉行を兼務し、将来的に徳川政権の老中、若年寄、京都所司代、大坂城代などになるエリート幕閣の役職だったということで、越前が60歳で寺社奉行に就任というのは異例。

\次のページで「3-3、最後まで現役だった」を解説!/

3-3、最後まで現役だった

延享2年(1745年)、越前が寺社奉行となって10年目に将軍吉宗は、将軍職を家重に譲って大御所に。吉宗は退隠前に越前を呼び出して、家重を頼んだということ。

そして寛延4年(1751年)に、大御所吉宗が68歳で死去したとき、越前は葬儀奉行を務めたが、前年から体に不調があったために11月2日に寺社奉行と奏者番の辞任を出願。しかし寺社奉行辞任は受理されたが、奏者番辞任は認められず自宅療養するも12月19日に76歳で死去。

名奉行の裁きはフィクションだが、将軍吉宗の右腕としての実務はほんもの

大岡越前は三河以来の直参大身旗本の家に生まれ、同族の家に養子に行き幕臣として順調に出世。そして裁判以外にも江戸の街を治める重要なポストであった江戸町奉行に就任。

紀州藩主から本家を継いで将軍になった吉宗にも信頼されて享保の改革を行う右腕として活躍。残念ながらほとんどの大岡名裁きは創作だそう。

しかし越前は、今までは大名屋敷などの火消ししかなかったのに町人のための江戸町火消の創設、貧しい人々に施療する小石川養生所の創設など、庶民の味方としての業績が多くあり、20年も町奉行を務めたために町奉行と言えば大岡越前守忠相という親しみと知名度と実績を得たことで、その後に盛況となった歌舞伎や講談の話のネタにされ、ほかの奉行が行った名裁きもすべて越前の手柄になったのではないでしょうか。

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日本史歴史江戸時代

8代将軍吉宗を補佐した「大岡越前」享保の改革を実行した江戸町奉行を歴女がわかりやすく解説

今回は大岡越前を取り上げるぞ。時代劇でおなじみですが、暴れん坊将軍の補佐だったんだって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大岡越前について5分でわかるようにまとめた。

1-1、大岡越前は旗本の生まれ

大岡忠相(おおおか ただすけ)は、延宝5年(1677年)に江戸で誕生。知行1700石の旗本大岡美濃守忠高と、母は正室で1万石の大名北条氏重の娘、越前は4男。きょうだいは男兄弟が3人、女兄弟がひとり。幼名は求馬、のちには市十郎、忠右衛門、越前守は町奉行になってから。

1-2、越前、同族の養子になるも、一族に不祥事相次ぐ

大岡家は徳川家の旗本として三河以来の家柄で、代々名前に付ける忠の字は、家康の父広忠から拝領というほど。同族も多く、のちに9代将軍家重の側用人となった大岡忠光も親戚。

そして貞享3年(1686年)、9歳の越前は大岡家の同族で1920石の旗本大岡忠真(ただざね 忠右衛門)の養子にもらわれて、忠真の娘と婚約。貞享4年(1687年)、5代将軍綱吉に跡継ぎとして初めて御目見え。

しかし元禄6年(1693年)には越前の実兄忠品(ただしな)が、将軍綱吉の怒りに触れて八丈島に流罪(3年後に許されて復帰、その後父の跡を継いだ)。また元禄9年(1696年)、御書院番だった従兄の大岡忠英が、上役の旧島原藩主高力隆長の子で大番頭の高力忠弘に養子願いの際、屋敷内で忠弘を殺害して自刃、お家断絶となった事件を起こしたため、一族はこの事件に連座、越前も閉門。

翌年には赦され、元禄13年(1700年)、養父病死の跡を受けて越前は24歳で家督相続して、忠世家3代当主に。

大岡忠光
300石の旗本大岡忠利(助七郎)の長男で、大岡忠房家の4代目。言語障害のあった9代将軍家重の幼い頃から近侍したため、たったひとり家重の不明瞭な言葉を理解できたということで、側近として異例の出世を遂げたということ。

また忠光は、家重が将軍となっても、決して奢らず幕政に口を挟むようなこともない無私の奉仕で庶民にも人気があったそう。忠光は越前と個人的に親交があり、同じく将軍の信頼篤く旗本から大名へ出世したことで、身の在り方などを相談していたということ。

1-3、越前、順調に出世

越前は、元禄15年(1702年)には、戦時において将軍の身辺警護を、普段は江戸城の要所を守り、将軍御成り時には前後を守る役目である御書院番に就任。

そして元禄16年(1703年)、江戸、相模湾に大地震が起き、江戸城の門などに被害が出たために復旧普請のための仮奉行の一人を務めたということ。その後、宝永元年(1704年)には御徒頭、宝永4年(1707年)になると御使番に、そして御目付にと大身の旗本として順調な出世コースを。

1-4、越前、山田奉行に

越前は、6代将軍家宣の時代の正徳2年(1712年)、17代目の山田奉行に就任。4年ほど山田町奉行を務めたということ。

尚、伊勢地方では、奉行の支配下にある幕府領と紀州徳川家領の間での係争が発生しがちで、山田(現伊勢市)と松坂(現松阪市)との境界を巡る訴訟で、紀州藩領の松坂に有利な前例に従わず、公正に裁いたため、当時の紀州藩主で、後の8代将軍吉宗に認められて後に町奉行に抜擢されて重用されることになった、という通説が定番に。

越前の山田奉行時代に吉宗と知り合ったとする巷説はほかにもあるということですが、実際には奉行時代の越前には他領との係争を裁定する権限はなくそれ以前の別人の奉行という話もあり、また遠国奉行から江戸町奉行という昇進コースは順当なもので、60代で就任することが多い町奉行に40代で就任したとはいえ、大抜擢というほどではないそう。

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