
和陸の決着
長久手の戦いで敗北した戦い、これまでの解説ではこの戦いの構図を「秀吉軍VS織田軍」とまとめてきました。しかし、秀吉が実質敗北したのは信雄の軍ではなく家康の軍に対してであり、つまり秀吉は家康の軍には勝てずとも信雄の軍には勝てると考え、その狙いを織田信雄一人に絞ります。
そこで信雄が領土とする伊勢を攻める秀吉、長久手の戦いの敗北で兵士を失ったものの、未だ50000人の兵士が健在でした。そのため信雄は秀吉軍の攻撃に耐え切れず、ついに秀吉と和陸してしまいます。おそらく、この和陸を最も無念に思ったのは信雄以上に家康でしょう。
家康は勢力を伸ばす秀吉に危機感を持っており、家康にとって小牧・長久手の戦いは秀吉と戦うための大義名分。しかし信雄が秀吉と和陸したことでその大義名分は失われてしまい、これ以上戦いを継続するのは不可能となりました。武力で秀吉を倒す力を持ちつつも、それができない状態になってしまったのです。
豊臣秀吉のその後
秀吉は戦後処理も見事な立ち振る舞いを見せました。小牧・長久手の戦いの後、朝廷の関白に就任して権力をさらに高めると、家康に対しても配慮を行います。秀吉は自身の妹を家康の正室に立てて親戚関係を確立、さらに母までも人質として家康に差し出しました。
母思いで知られる秀吉がここまで見せる誠意、そこまでされれば家康も秀吉に牙を剥くわけにはいかず、秀吉に従うことにしたのです。最も、秀吉が関白に就任した以上は家康もうかつに敵意を示すわけにはいかず、そうすれば朝敵になってしまう恐れもありました。
ともあれ、家康という最大の難敵を傘下とした秀吉は、九州征伐、小田原征伐を成功させてとうとう1590年に天下統一を果たします。織田信長でさえ成し遂げられなかった天下統一、戦国時代においてそれを最初に果たしたのは羽柴秀吉こと豊臣秀吉でした。
織田信雄のその後
さて、秀吉と和陸した信雄はどうなったのでしょうか。和陸の条件として秀吉に伊勢の北部と伊賀を差し出すことになった信雄、これで信雄の領土はこれまでの半分となってしまいます。その後、家康が小田原征伐を終えたため関東に領土を変えさせられることになりますが、ここで信雄に思わぬ展開が訪れました。
それは、家康の旧領となる三河・遠江・信濃を中心とした130万石が信雄に与えられたことです。しかし、信雄はそれを断って秀吉を怒らせてしまいます。それならばと秀吉は信雄の残る領土を全て奪って一文無しにさせてしまい、そのため信雄は浪人へと落ちてしまうのでした。
ただ、信雄はそれでも戦国時代を生き抜き、秀吉の時代が終わって江戸時代になると家康に2万石の領土を与えられます。さらに、幕末では信雄の子孫が山形地方の藩主となりました。つまり、一度は浪人となった信雄でしたが、最後には子孫が藩主となるほど持ち直して見せたのです。
戦後の秀吉の行動に注目しよう!
小牧・長久手の戦いは、他の戦い以上に戦後に注目しなければなりません。単純に戦いの勝敗だけで考えれば秀吉は家康に敗北しており、それならなぜ秀吉が天下統一を成し遂げられたのかが疑問になってしまいます。
しかし、戦後の秀吉の行動に注目するとそれが理解できるでしょう。要するに、小牧・長久手の戦いにおいて秀吉は勝敗では家康に敗れはしたものの、天下統一に向けた戦略という点では勝利したのです。