
羽柴秀吉と柴田勝家の対立
清須会議に出席した秀吉、そこで秀吉が後継者として推したのが信長の孫にあたるまだ3歳の三法師。信長の次男・三男を無視して3歳の孫を推した秀吉、その思惑はおそらく何もできない子供を後継者にすることで自身が後ろにつき、実質織田家の後継者としての権力を手にするつもりだったのでしょう。
そんな秀吉に腹を立てたのが柴田勝家、彼は織田家の家臣の中で筆頭と呼ばれるほどの人物で、柴田勝家が織田家の後継者として推したのが三男の織田信孝でした。そのため秀吉と柴田勝家は対立、三男・信孝は当然柴田勝家を味方することになり、争いの末に起こったのが賤ヶ岳の戦いです。
そして、この戦いで勝利した秀吉は実質織田家の後継者となっていきますが、これを良しとしなかったのが信長の次男・織田信雄でした。そもそも、長男が死亡している点を考えれば本来なら次男が後継者、それが叶わなかった原因である秀吉との関係は当然ですが悪化していきます。
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織田信雄と徳川家康の同盟成立
秀吉に不満を持つ信雄ですが、何しろ秀吉は明智光秀や柴田勝家に勝利した人物……容易に倒せる相手ではありません。そこで、信雄は秀吉と対抗できるだけの勢力を求めて徳川家康と同盟を結びます。家康は当時三河などの中部地方を治めており、信長とも同盟を結んでいたため、信雄からすれば家康は頼れる味方でした。
家康もまた信雄の意見に同意、なぜなら勢力を伸ばしつつある秀吉に対して警戒を示していたからです。秀吉を止めたい家康でしたが理由なき宣戦布告は自身を悪者にしてしまうため躊躇、その意味で信雄と同盟を結ぶことは秀吉と戦うための大義名分にもなったのでしょう。
このようにして家康を味方に取り込んだ信雄、さらに四国の長宗我部、関東の後北条家など秀吉に反発する勢力を次々と味方につけます。また、中央集権化を進めようとする秀吉の政策に反対していた雑賀衆(鉄砲傭兵・地侍集団)も味方につけ、信雄による秀吉の包囲は着々と進められていきました。
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羽黒の戦い
信雄が勢力を高めつつある中、秀吉も黙って手をこまねいていたわけではありません。秀吉は織田信雄の家臣である津川義冬・岡田重孝・浅井長時の3人を自身の勢力に取り込もうと画策、それを成功させるものの、信雄は裏切り者の3人の家臣を殺害しました。これに怒った秀吉は、信雄との戦いを決意したそうです。
1584年の小牧・長久手の戦い……その中では幾度となく戦いが起こりますが、始まりとなったのは羽黒の戦いでした。1584年3月のこと、これまで織田家に仕えてきた信頼ある家臣・池田恒興が意外にも突如織田家を裏切り、秀吉側について犬山城を占拠します。
この池田恒興の裏切り行為による犬山城の占拠こそ、小牧・長久手の戦いの始まりでした。池田恒興は織田家につくだろうと考えていた家康、この連絡を受けて翌々日には小牧山城に駆け付けて対抗、秀吉軍と織田軍は対立状態となり、その中でまず動きを見せたのは秀吉軍です。
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