今日は小牧・長久手の戦いについて勉強していきます。戦国時代の主役である織田信長・豊臣秀吉・徳川家康、特に豊臣秀吉と徳川家康は共に全国統一を成し遂げた人物です。

では、秀吉と家康が戦えばどちらが勝利するのか?……実は一度だけこの二人は戦ったことがあるのです。そこで、今回は小牧・長久手の戦いについて日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から小牧・長久手の戦いをわかりやすくまとめた。

織田家の後継者問題

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清須会議の開催

1585年に起こった小牧・長久手の戦いでは、秀吉と家康が対決するだけでなく、家康側には信長の息子もついていました。つまり「秀吉VS家康&信長の息子」の対立図となっており、まるで戦国時代のオールスターような戦いに見えますね。さて、彼らはどのようないきさつで戦うことになったのでしょうか。

事の発端は織田家の後継者争いで、天下統一まであと一歩のところまできた信長は、明智光秀の突然の謀反によって1582年の本能寺の変にて命を落とします。最も、本来なら長男が信長の後を継ぐところですが、長男の織田信忠も本能寺の変で自害したため、織田家の後継者は未定の状態となっていました。

ここで権力を高めたのが羽柴秀吉……彼は後の豊臣秀吉です。秀吉が権力を高めた理由は1582年の山崎の戦いでの勝利が理由であり、明智光秀を倒して信長の敵討ちを果たしたため、織田家の家臣の中でも高い権力を手にしました。織田家の後継者は誰にすべきか?……山崎の戦いの後、それを決める清須会議が開かれます。

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羽柴秀吉と柴田勝家の対立

清須会議に出席した秀吉、そこで秀吉が後継者として推したのが信長の孫にあたるまだ3歳の三法師。信長の次男・三男を無視して3歳の孫を推した秀吉、その思惑はおそらく何もできない子供を後継者にすることで自身が後ろにつき、実質織田家の後継者としての権力を手にするつもりだったのでしょう。

そんな秀吉に腹を立てたのが柴田勝家、彼は織田家の家臣の中で筆頭と呼ばれるほどの人物で、柴田勝家が織田家の後継者として推したのが三男の織田信孝でした。そのため秀吉と柴田勝家は対立、三男・信孝は当然柴田勝家を味方することになり、争いの末に起こったのが賤ヶ岳の戦いです。

そして、この戦いで勝利した秀吉は実質織田家の後継者となっていきますが、これを良しとしなかったのが信長の次男・織田信雄でした。そもそも、長男が死亡している点を考えれば本来なら次男が後継者、それが叶わなかった原因である秀吉との関係は当然ですが悪化していきます。

小牧・長久手の戦いの始まり

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織田信雄と徳川家康の同盟成立

秀吉に不満を持つ信雄ですが、何しろ秀吉は明智光秀や柴田勝家に勝利した人物……容易に倒せる相手ではありません。そこで、信雄は秀吉と対抗できるだけの勢力を求めて徳川家康と同盟を結びます。家康は当時三河などの中部地方を治めており、信長とも同盟を結んでいたため、信雄からすれば家康は頼れる味方でした。

家康もまた信雄の意見に同意、なぜなら勢力を伸ばしつつある秀吉に対して警戒を示していたからです。秀吉を止めたい家康でしたが理由なき宣戦布告は自身を悪者にしてしまうため躊躇、その意味で信雄と同盟を結ぶことは秀吉と戦うための大義名分にもなったのでしょう。

このようにして家康を味方に取り込んだ信雄、さらに四国の長宗我部、関東の後北条家など秀吉に反発する勢力を次々と味方につけます。また、中央集権化を進めようとする秀吉の政策に反対していた雑賀衆(鉄砲傭兵・地侍集団)も味方につけ、信雄による秀吉の包囲は着々と進められていきました。

羽黒の戦い

信雄が勢力を高めつつある中、秀吉も黙って手をこまねいていたわけではありません。秀吉は織田信雄の家臣である津川義冬・岡田重孝・浅井長時の3人を自身の勢力に取り込もうと画策、それを成功させるものの、信雄は裏切り者の3人の家臣を殺害しました。これに怒った秀吉は、信雄との戦いを決意したそうです。

1584年の小牧・長久手の戦い……その中では幾度となく戦いが起こりますが、始まりとなったのは羽黒の戦いでした。1584年3月のこと、これまで織田家に仕えてきた信頼ある家臣・池田恒興が意外にも突如織田家を裏切り、秀吉側について犬山城を占拠します。

この池田恒興の裏切り行為による犬山城の占拠こそ、小牧・長久手の戦いの始まりでした。池田恒興は織田家につくだろうと考えていた家康、この連絡を受けて翌々日には小牧山城に駆け付けて対抗、秀吉軍と織田軍は対立状態となり、その中でまず動きを見せたのは秀吉軍です。

\次のページで「戦場へ向かう徳川家康」を解説!/

戦場へ向かう徳川家康

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岩崎城の戦い

秀吉軍は池田恒興と森長可による協同戦を決定、現在の犬山市である羽黒に布陣しますが、ただ家康はこの動きを全て察知していました。そこで家康は松平家忠・酒井忠次らを中心とした5000人の兵を羽黒へと進軍させ、早朝のタイミングで奇襲を仕掛けます。

この奇襲が成功して森長可の軍を崩し、攻撃された兵士達は敗走、羽黒の戦いでは織田軍が勝利しました。続いて起こったのが岩崎城の戦いで、秀吉軍の一部を倒して家康は小牧山城を占拠して秀吉軍に備えます。一方の秀吉軍、犬山に到着して布陣したものの待ち構えていた家康の攻撃が激しくて攻め切れません。

膠着状態が続く中、戦況を動かしたのは岩崎城を通過した池田恒興に対する攻撃です。池田恒興はこの時岡崎城へと急いでいましたが、攻撃を仕掛けてきた岩崎城を落とそうと戦闘を決意、想定外の戦いとなるものの兵力差で池田恒興が圧倒していたため、たった数時間で岩崎城を陥落させて勝利しました

白山林の戦い

岩崎城の戦いが繰り広げられていた頃、秀吉軍の一部は名古屋の守山区にあたる白山林で休息をとっていました。しかしそこへ織田軍が襲撃、そのため秀吉軍は壊滅状態となってしまい、これは白山林の戦いと呼ばれています。そして、この秀吉軍の壊滅の知らせを聞いたのが堀秀政でした。

堀秀政もまた秀吉側について軍を率いており、秀吉軍として戦いに参加していた人物です。白山林の戦いを聞いた堀秀政は軍に引き返すよう指示、やがて訪れるであろう織田軍を待ち構える作戦にしました。一方で白山林の戦いに勝利した織田軍、堀秀政の軍に遭遇して戦いを仕掛けますが、堀秀政の軍はこれを追い払って勝利します

このように、小牧・長久手の戦いでは愛知の至る場所で戦いが起こっており、織田軍と秀吉軍の勝敗は未だ分からない状態でした。そしてついに家康は自ら出陣することを決意、それが長久手の戦いで、秀吉軍も家康出陣の知らせを聞いて戦場である長久手へと向かったのです。

小牧・長久手の戦いの結末

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長久手の戦い

徳川家康自身が3300人の兵士を率いて戦場へ、そして井伊直政が3000人、さらに織田信雄の兵士が3000人、織田軍には計9000人の兵士が集まりました。一方の秀吉軍、池田恒興と森長可を中心とした兵士が6000人、こうして長久手の戦いは始まりました。

戦いはおよそ2時間で決着がつき、当初こそ戦況は五分五分で一進一退の攻防が続きます。しかし秀吉軍の森長可が狙撃によって死亡、さらに池田恒興も槍の攻撃を受けて死亡、これで家康らは一気に優勢となりました。この合戦は織田軍……と言うより徳川軍の勝利に終わったのです。

戦死者を比較してもそれは明らかで、秀吉軍の約2500人に対して徳川軍はわずか約600人。長久手の戦いの結果は織田信雄・徳川家康が勝利、しかしなぜ敗北した秀吉は後に天下統一を果たしたのか?……それは秀吉の巧みな戦後の方針にありました。

\次のページで「和陸の決着」を解説!/

和陸の決着

長久手の戦いで敗北した戦い、これまでの解説ではこの戦いの構図を「秀吉軍VS織田軍」とまとめてきました。しかし、秀吉が実質敗北したのは信雄の軍ではなく家康の軍に対してであり、つまり秀吉は家康の軍には勝てずとも信雄の軍には勝てると考え、その狙いを織田信雄一人に絞ります。

そこで信雄が領土とする伊勢を攻める秀吉、長久手の戦いの敗北で兵士を失ったものの、未だ50000人の兵士が健在でした。そのため信雄は秀吉軍の攻撃に耐え切れず、ついに秀吉と和陸してしまいます。おそらく、この和陸を最も無念に思ったのは信雄以上に家康でしょう。

家康は勢力を伸ばす秀吉に危機感を持っており、家康にとって小牧・長久手の戦いは秀吉と戦うための大義名分。しかし信雄が秀吉と和陸したことでその大義名分は失われてしまい、これ以上戦いを継続するのは不可能となりました。武力で秀吉を倒す力を持ちつつも、それができない状態になってしまったのです。

戦後の豊臣秀吉と織田信雄

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豊臣秀吉のその後

秀吉は戦後処理も見事な立ち振る舞いを見せました。小牧・長久手の戦いの後、朝廷の関白に就任して権力をさらに高めると、家康に対しても配慮を行います。秀吉は自身の妹を家康の正室に立てて親戚関係を確立、さらに母までも人質として家康に差し出しました

母思いで知られる秀吉がここまで見せる誠意、そこまでされれば家康も秀吉に牙を剥くわけにはいかず、秀吉に従うことにしたのです。最も、秀吉が関白に就任した以上は家康もうかつに敵意を示すわけにはいかず、そうすれば朝敵になってしまう恐れもありました。

ともあれ、家康という最大の難敵を傘下とした秀吉は、九州征伐、小田原征伐を成功させてとうとう1590年に天下統一を果たします。織田信長でさえ成し遂げられなかった天下統一、戦国時代においてそれを最初に果たしたのは羽柴秀吉こと豊臣秀吉でした。

織田信雄のその後

さて、秀吉と和陸した信雄はどうなったのでしょうか。和陸の条件として秀吉に伊勢の北部と伊賀を差し出すことになった信雄、これで信雄の領土はこれまでの半分となってしまいます。その後、家康が小田原征伐を終えたため関東に領土を変えさせられることになりますが、ここで信雄に思わぬ展開が訪れました。

それは、家康の旧領となる三河・遠江・信濃を中心とした130万石が信雄に与えられたことです。しかし、信雄はそれを断って秀吉を怒らせてしまいます。それならばと秀吉は信雄の残る領土を全て奪って一文無しにさせてしまい、そのため信雄は浪人へと落ちてしまうのでした。

ただ、信雄はそれでも戦国時代を生き抜き、秀吉の時代が終わって江戸時代になると家康に2万石の領土を与えられます。さらに、幕末では信雄の子孫が山形地方の藩主となりました。つまり、一度は浪人となった信雄でしたが、最後には子孫が藩主となるほど持ち直して見せたのです。

戦後の秀吉の行動に注目しよう!

小牧・長久手の戦いは、他の戦い以上に戦後に注目しなければなりません。単純に戦いの勝敗だけで考えれば秀吉は家康に敗北しており、それならなぜ秀吉が天下統一を成し遂げられたのかが疑問になってしまいます。

しかし、戦後の秀吉の行動に注目するとそれが理解できるでしょう。要するに、小牧・長久手の戦いにおいて秀吉は勝敗では家康に敗れはしたものの、天下統一に向けた戦略という点では勝利したのです。

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室町時代戦国時代日本史歴史

秀吉と家康が戦った唯一の戦い「小牧・長久手の戦い」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は小牧・長久手の戦いについて勉強していきます。戦国時代の主役である織田信長・豊臣秀吉・徳川家康、特に豊臣秀吉と徳川家康は共に全国統一を成し遂げた人物です。

では、秀吉と家康が戦えばどちらが勝利するのか?……実は一度だけこの二人は戦ったことがあるのです。そこで、今回は小牧・長久手の戦いについて日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から小牧・長久手の戦いをわかりやすくまとめた。

織田家の後継者問題

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清須会議の開催

1585年に起こった小牧・長久手の戦いでは、秀吉と家康が対決するだけでなく、家康側には信長の息子もついていました。つまり「秀吉VS家康&信長の息子」の対立図となっており、まるで戦国時代のオールスターような戦いに見えますね。さて、彼らはどのようないきさつで戦うことになったのでしょうか。

事の発端は織田家の後継者争いで、天下統一まであと一歩のところまできた信長は、明智光秀の突然の謀反によって1582年の本能寺の変にて命を落とします。最も、本来なら長男が信長の後を継ぐところですが、長男の織田信忠も本能寺の変で自害したため、織田家の後継者は未定の状態となっていました。

ここで権力を高めたのが羽柴秀吉……彼は後の豊臣秀吉です。秀吉が権力を高めた理由は1582年の山崎の戦いでの勝利が理由であり、明智光秀を倒して信長の敵討ちを果たしたため、織田家の家臣の中でも高い権力を手にしました。織田家の後継者は誰にすべきか?……山崎の戦いの後、それを決める清須会議が開かれます。

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