
2-5、「春日局」の名を天皇から下賜
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春日局は、寛永6年(1629年)に、家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝。そして上洛し、御所へ昇殿して家光の妹である中宮和子と後水尾天皇への拝謁をしようとしたが、将軍の乳母の無位無官の身分の女性が天皇に拝謁はできないため、春日局は育ての親の三条西公国の養女になろうとしたが、既に他界。なのでその息子の三条西実条(さねえだ)の猶妹の縁組をしたということ。
春日局は公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得て、藤原福子として後水尾天皇と中宮和子に拝謁。従三位の位階と「春日局」の名号と天酌御盃を賜ったそう。その後、寛永9年(1632年)に再上洛して、従二位と緋袴着用の許しを得たため、平清盛の妻時子や源頼朝の妻北条政子と同じく二位局とも称されるように。
2-6、後水尾天皇、怒りで譲位

この一連の宮中行事は、春日局にとっては大変名誉なことだが、朝廷にとって幕府側のごり押しで、無位無官の将軍の乳母が参内という屈辱的な大問題。中宮和子の入内以来、幕府の朝廷への横暴なやり方に怒り心頭だった公卿たちも天皇も驚きと怒りをあらわにして、ついに後水尾天皇は女一之宮に譲位してしまったといわれるほど。
しかし後水尾天皇自身、もともと健康上の理由もあって退位を早くしたいという思いをもっていたという話もあるそう。
2-7、春日局の名の由来
春日局という名前は、室町幕府の3代将軍足利義満の乳母が天皇から拝領した名前が春日局だったので、同じく将軍の乳母として拝領という説と、春日局の出身地の但馬国春日郷にちなんだ命名という説があるということ。
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2-8、薬を飲まない誓いを守った
春日局は、家光が疱瘡にかかったとき、生涯薬を飲まない誓いを立てて、山王社と東照宮に参詣して、水の入った桶を頭に乗せて月が出るまで祈ったためか、家光は快癒。春日局が病になったときに薬を飲まない事を知った家光は、春日局に自分で薬を飲ませようとしたが、春日局は飲んだふりをして薬を後で吐き出して誓いを守ったということ。春日局は寛永20年(1644年)、64歳で死去。
3-1、春日局のコネで出世した人々
春日局は大奥での権力者として、親戚縁者や世話になった人たちを徳川将軍家に仕官させ、大名にまで出世した人もいるということで、主な人たちをご紹介しますね。
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3-2、元夫稲葉正成
元夫の稲葉正成は、家康に召し出されて、徳川家家臣となり、慶長12年(1607年)旧領の美濃国内に1万石を与えられ大名に、そして家康の孫松平忠昌の家老に就任。
その後の大坂夏の陣では、忠昌を補佐して戦功を挙げたことで、元和4年(1618年)、越後糸魚川2万石で忠昌の附家老になったが、寛永元年(1624年)、忠昌の越前国福井藩相続に従わず、勝手に出奔して浪人となり、幕府によって息子稲葉正勝の領内で蟄居に。ただし正成の4男正房とその子孫は越前家に仕えたそう。寛永4年(1627年)、正成は再び召し出されて下野真岡藩2万石の大名に。
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3-3、実子稲葉正勝
春日局の息子の正勝は家光の小姓となり、元和7年(1621年)、書院番頭に元和9年(1623年)に26歳で年寄衆(老中)に。寛永元年(1624年)には常陸真壁郡5000石加増されて、柿岡藩1万石の大名に。その後も父の遺領相続で下野真岡藩4万石にと加増、転封して相模小田原藩8万5千石に。
しかし寛永11年(1634年)に母春日局に先立って38歳で病死。幼い次男正則を春日局が育て、伯父の斎藤利宗、甥の堀田正盛が後見人となったということ。
3-4、義理の曽孫堀田正俊
父堀田正盛の母が稲葉正成の娘で春日局の義理の娘になる関係から、寛永12年(1635年)に義理の曾祖母の春日局の養子となり、寛永18年(1641年)、家光の嫡男竹千代(のちの4代将軍家綱)の小姓に。
寛永20年(1643年)、家光の上意で春日局の孫稲葉正則の娘と婚約、春日局の遺領3000石を継承。その後も順調に出世して、4代将軍家綱の死去時には、大老酒井忠清と対立して家綱の異母弟である綱吉を5代将軍に推したため、綱吉に信任されて大老となり、権勢をふるうことに。
しかし貞享元年(1684年)8月28日、従叔父で若年寄の美濃青野藩主稲葉正休に江戸城内で刺殺。原因は正休の発狂とされるが、その場で正休が成敗されたことで様々な憶測がささやかれ、大坂の淀川の治水事業に関する意見対立、または将軍綱吉の関与の噂も。
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3-5、斎藤利宗
春日局の実兄で、明智家滅亡後は加藤清正に仕えていたが、加藤家の改易後は将軍家光によって5千石の旗本に。
3-6、三条西実条
春日局が御所に参内できるように妹にした三条西実条は、後に朝廷の武家伝奏、最終的には右大臣にまで。そしてその子孫の玄長は幕府の高家肝煎となり、武家名字として「前田」を名乗ったそう。
3-7、祖心尼
春日局は祖心尼の父のいとこということで、祖心尼と夫町野幸和が蒲生氏改易のために浪人したときに、祖心尼を春日局の補佐とし、祖心尼の外孫お振を大奥に。お振は家光の側室として長女千代姫を出産し、夫幸和も幕府直参旗本に。
3-8、海北友雪(かいほう ゆうせつ)
元浅井家に仕えていた武士で画家の海北友松(ゆうしょう)は、春日局の父斎藤利三の友人で、山崎の戦い後に利三が刑死後、磔にされていた利三の遺体を、槍を振って侵入して奪い取り、手厚く葬り、春日局達一家を厚く庇護。
その恩に報いるために、その息子友雪が、春日局の推挙で家光に召し出され、江戸に屋敷をもらって、春日局開基で菩提寺の妙心寺塔頭麟祥院に、「雲竜図」「西湖図」などの襖絵などを描き、以後狩野探幽に従って、内裏障壁画制作に携わり、宮廷の御用も勤め、海北家は明治まで御所の御用を務める家として代々存続。
3代将軍家光に献身的に仕えて、大奥を作り上げたことで後世に名を残した女性
春日局は、父は明智光秀の武将として山崎合戦後に処刑されたとはいえ、なかなかの武家の名門の出身。そして子供時代に苦労をし、また親戚の公卿に育てられたことから教養も身に着けていたため、徳川家の将来を担う家康の孫の乳母としてふさわしい人物だったよう。
期待に応えて春日局は、才気煥発で両親に可愛がられる弟に比べ、おっとりし過ぎの家光につきっきりで、食事に気を付けたり病気の時は自分をなげうって看病と献身的に尽くしたため、家康に直訴して跡取りの座の承認を得るなどしたという伝説もうまれたほどで、乳母という役目を終えた成長後も、お役御免のはずが家光に頼りにされてずっと仕えることに。
そして女性に関心を持たない家光のためになりふり構わず好みの女性をかき集め、お世継ぎづくりのために大奥を作りあげ、陰の権力者として歴史に名を残したということは、やはり並大抵の女性ではなかったということでしょう。