
1-4、春日局、稲葉正成と結婚
春日局は、年頃に成長すると伯父の稲葉重通の養女として、稲葉氏の縁者で小早川秀秋の家臣稲葉正成(まさなり)の後妻に。春日局には正勝、正定、正利という息子が誕生。
尚、正成は関ヶ原の戦いでは平岡頼勝と共に主君秀秋を説得し、東軍に寝返らせて徳川家康を勝利に導いた功労者だったが、その後、秀秋と対立し美濃に蟄居、慶長7年(1602年)、秀秋死去で小早川家が断絶したために浪人。
2-1、春日局、家康の嫡孫の乳母に採用
慶長9年(1604年)7月、京都所司代板倉勝重が、家康の嫡孫竹千代(後の徳川家光)の乳母を募集。25歳で前年出産した春日局が応募して採用となったが、正成は春日局と離縁。
乳母になるからと言って離縁しなくてはいけないことはなく、その経緯については、夫正成が愛人を作ったために春日局が激怒して去った説、正成が春日局が勝手に乳母に応募した事に激怒した説、正成が妻が乳母になった御蔭で出世したといわれたくないために離縁説、正成を家康に仕官させるため、正成と春日局が示し合わせた離縁説など諸説あり。
その後、稲葉家は本来の嫡男で正成の前妻の生んだ正次ではなく、春日局の産んだ正勝が継承したということで、春日局と稲葉家は縁者でもあり、正成と離縁したといっても完全に縁が切れてはいなかったよう。
また、春日局が乳母募集の立て札を見て応募したのではなく、春日局が名門の出身であることで乳母に推薦されたという説もあり。とにかく春日局は、慶長9年(1604年)に2代将軍秀忠の嫡子竹千代(後の家光)の乳母に正式に採用され、のちには息子の稲葉正勝も家光の小姓に。
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2-2、春日局、七色飯を考案
春日局は、竹千代はあまり丈夫でなかったうえ、好き嫌いが激しい偏食家だったので心配し、何とかきちんと食事をさせようと、七種類の味のご飯を出してどれか一つを食べてもらうようにという、七色飯を考案。
白飯、赤飯、麦飯、粟飯、菜飯に始まり、干した飯をお湯で戻した干し飯、お米を砕いて炊いた引き割り飯、蒸らす前にご飯を釜から出して粘り気をとって蒸した湯取り飯を用意、家光はこれらの中から好きな飯を選んで食べるようになったそう。
2-3、春日局、家康に直訴
幼少時の家光は病弱で吃音があり、容姿も可愛い方ではなかったということで、慶長11年(1606年)に2歳下の同母弟国松(後の忠長)が誕生すると、父秀忠と母お江の方は国松を溺愛。
一説によると国松は大叔父にあたる信長に似て、容姿端麗で才気煥発だったということで、家臣たちも竹千代派と国松派に分かれるわ、竹千代は両親に愛されない悲しさから自害しようとするわで、竹千代廃嫡の危機を感じた春日局はひそかに江戸から駿府へ行って大御所の家康に訴え、それにこたえた家康が江戸城へ乗り込み、竹千代と国松の扱いに差をつけ、竹千代の世継ぎが確定という話は有名。
この話は、家光死後の貞享3年(1686年)に出来た「春日局略譜」に載っているということで、「徳川実紀」には春日局の人物評として「この局が忠節のことども。よに伝ふること多けれども。まことしからぬことのみ多く伝へて。益なきに似たり」とあり、家光の死後に出来た俗説と考えられるそう。
また元和4年(1618年)10月9日、12歳の国松は、自分が撃った鴨で作った汁物を父秀忠の膳に供したが、兄の竹千代の住む西の丸の堀で鉄砲を撃ったと知った秀忠は、「江戸城は竹千代に渡す城であるのに、弟の身で跡継ぎの兄の住む西の丸に鉄砲を撃ち込むとは何事か」と怒って箸を投げ捨てて出て行ったという話があり、家光の世継決定は元和年間と考えられるということ。
作り話かもしれないが、大奥で家光の信頼を得て権力をほしいままにした春日局が、なぜそこまで家光の信頼を得たのかということ、家光が終生父より祖父を敬慕した姿勢を考えると、こういう話で家光が世継ぎに決定したので、春日局は単なる乳母ではないと納得できるのかも。
2-4、春日局、将軍様御局に

元和9年(1623年)に家光が3代将軍に就任すると、春日局は「将軍様御局」として、江戸城本丸の大奥の公務を取り仕切るように。
家光は元和9年(1623年)、鷹司家の娘孝子と結婚したが、最初から気に入らず中之丸に別居状態なので大奥を取り仕切る役目が果たせなかったためもあり、春日局が実権を握り、寛永3年(1626年)に家光の母お江の方が亡くなると、大手を振って家光の側室探しに尽力するように。
春日局は、男色の傾向があり女性に興味を持たない家光にお世継ぎが生まれないのを心配し、家光が好みそうな女性ならば誰でもいいとばかりに、出自なども頓着せず、浅草参りの帰りに店の手伝いをしていたお蘭(お楽の方)を見初めて連れ帰ったり、伊勢慶光院の院主で尼だったお万の方を還俗させたり、罪人の娘のお振、京都の庶民の娘のお夏、京都の八百屋の娘のお玉などを、次々と大奥で礼儀作法をしつけて家光の側室として送り込んだということ。
また、大奥の役職や法度などを整理、拡充して、構造的に整備したなど、将軍家光の権威をバックにして実質的な権力を握り、松平信綱、柳生宗矩と春日局は家光を支えた「鼎の脚」と称されるように。
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