今回は春日局を取り上げるぞ。3代将軍の乳母だって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、春日局について5分でわかるようにまとめた。

1-1、春日局は丹波の生まれ

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春日局(かすがのつぼね)の本名はお福。春日局とは、後年、御所に参内したときに天皇から賜った名前。

天正7年(1579年)丹波国の黒井城下館(興禅寺)で誕生。出生地については光秀の居城のあった丹波亀山城(京都府亀岡市)や坂本城(滋賀県大津市)などの異説もあり。

父は美濃国の名族で守護代だった斎藤氏の出身で、明智光秀の重臣の斎藤利三(としみつ)、母は稲葉良通(一鉄)の娘安、または稲葉一鉄の姉の娘於阿牟といわれ、春日局の母は利三の後室。きょうだいは、兄が3人、姉が2人。

1-2、春日局は名門の出身

春日局の母の父は稲葉一鉄といい、頑固一徹の語源となった人で、妻は公家の三条西公条(きみえだ)の娘。また一徹の姉深芳野は、最初は頼芸の側室のちに斎藤道三の側室となり義龍を産んだ女性。稲葉一鉄は、斎藤道三に仕えた西美濃三人衆のひとり。

そして春日局の父斎藤利三(としみつ)は、美濃守護代を代々務めた武家の名門で、守護代斎藤氏の滅亡後斎藤家は明智光秀に仕官。春日局は、幼少時は城主の姫として育ったそう。

1-3、春日局の父、本能寺の変に加担して処刑

 春日局が4歳の時、本能寺の変が勃発、その後の山崎合戦で父斎藤利三は羽柴秀吉軍に敗れたのち、坂本城下の近江国堅田で捕らえられ京都の六条河原で処刑。

春日局は父の処刑される現場を目撃したということで、兄たちは落ち武者となって各地を流浪。春日局は母方の実家の稲葉家に引取られ、美濃の清水城で過ごしたとか、延暦寺に住んだとか、父の友人海北友松、東陽院長盛らの援助を受けたとか、父の妹が嫁いだ土佐の長宗我部元親を頼っていったとか諸説あり。

また母方の親戚の公卿の三条西公国に養育されて、後々役に立つ書道、歌道、香道等の教養を身につけたということ。

\次のページで「1-4、春日局、稲葉正成と結婚」を解説!/

1-4、春日局、稲葉正成と結婚

春日局は、年頃に成長すると伯父の稲葉重通の養女として、稲葉氏の縁者で小早川秀秋の家臣稲葉正成(まさなり)の後妻に。春日局には正勝、正定、正利という息子が誕生。

尚、正成は関ヶ原の戦いでは平岡頼勝と共に主君秀秋を説得し、東軍に寝返らせて徳川家康を勝利に導いた功労者だったが、その後、秀秋と対立し美濃に蟄居、慶長7年(1602年)、秀秋死去で小早川家が断絶したために浪人。

2-1、春日局、家康の嫡孫の乳母に採用

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狩野派の人物 - 徳川記念財団, パブリック・ドメイン, リンクによる

慶長9年(1604年)7月、京都所司代板倉勝重が、家康の嫡孫竹千代(後の徳川家光)の乳母を募集。25歳で前年出産した春日局が応募して採用となったが、正成は春日局と離縁。

乳母になるからと言って離縁しなくてはいけないことはなく、その経緯については、夫正成が愛人を作ったために春日局が激怒して去った説、正成が春日局が勝手に乳母に応募した事に激怒した説、正成が妻が乳母になった御蔭で出世したといわれたくないために離縁説、正成を家康に仕官させるため、正成と春日局が示し合わせた離縁説など諸説あり。

その後、稲葉家は本来の嫡男で正成の前妻の生んだ正次ではなく、春日局の産んだ正勝が継承したということで、春日局と稲葉家は縁者でもあり、正成と離縁したといっても完全に縁が切れてはいなかったよう。

また、春日局が乳母募集の立て札を見て応募したのではなく、春日局が名門の出身であることで乳母に推薦されたという説もあり。とにかく春日局は、慶長9年(1604年)に2代将軍秀忠の嫡子竹千代(後の家光)の乳母に正式に採用され、のちには息子の稲葉正勝も家光の小姓に。

2-2、春日局、七色飯を考案

春日局は、竹千代はあまり丈夫でなかったうえ、好き嫌いが激しい偏食家だったので心配し、何とかきちんと食事をさせようと、七種類の味のご飯を出してどれか一つを食べてもらうようにという、七色飯を考案。

白飯、赤飯、麦飯、粟飯、菜飯に始まり、干した飯をお湯で戻した干し飯、お米を砕いて炊いた引き割り飯、蒸らす前にご飯を釜から出して粘り気をとって蒸した湯取り飯を用意、家光はこれらの中から好きな飯を選んで食べるようになったそう。

2-3、春日局、家康に直訴

幼少時の家光は病弱で吃音があり、容姿も可愛い方ではなかったということで、慶長11年(1606年)に2歳下の同母弟国松(後の忠長)が誕生すると、父秀忠と母お江の方は国松を溺愛。

一説によると国松は大叔父にあたる信長に似て、容姿端麗で才気煥発だったということで、家臣たちも竹千代派と国松派に分かれるわ、竹千代は両親に愛されない悲しさから自害しようとするわで、竹千代廃嫡の危機を感じた春日局はひそかに江戸から駿府へ行って大御所の家康に訴え、それにこたえた家康が江戸城へ乗り込み、竹千代と国松の扱いに差をつけ、竹千代の世継ぎが確定という話は有名。

この話は、家光死後の貞享3年(1686年)に出来た「春日局略譜」に載っているということで、「徳川実紀」には春日局の人物評として「この局が忠節のことども。よに伝ふること多けれども。まことしからぬことのみ多く伝へて。益なきに似たり」とあり、家光の死後に出来た俗説と考えられるそう。

また元和4年(1618年)10月9日、12歳の国松は、自分が撃った鴨で作った汁物を父秀忠の膳に供したが、兄の竹千代の住む西の丸の堀で鉄砲を撃ったと知った秀忠は、「江戸城は竹千代に渡す城であるのに、弟の身で跡継ぎの兄の住む西の丸に鉄砲を撃ち込むとは何事か」と怒って箸を投げ捨てて出て行ったという話があり、家光の世継決定は元和年間と考えられるということ。

作り話かもしれないが、大奥で家光の信頼を得て権力をほしいままにした春日局が、なぜそこまで家光の信頼を得たのかということ、家光が終生父より祖父を敬慕した姿勢を考えると、こういう話で家光が世継ぎに決定したので、春日局は単なる乳母ではないと納得できるのかも。

2-4、春日局、将軍様御局に

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元和9年(1623年)に家光が3代将軍に就任すると、春日局は「将軍様御局」として、江戸城本丸の大奥の公務を取り仕切るように。

家光は元和9年(1623年)、鷹司家の娘孝子と結婚したが、最初から気に入らず中之丸に別居状態なので大奥を取り仕切る役目が果たせなかったためもあり、春日局が実権を握り、寛永3年(1626年)に家光の母お江の方が亡くなると、大手を振って家光の側室探しに尽力するように。

春日局は、男色の傾向があり女性に興味を持たない家光にお世継ぎが生まれないのを心配し、家光が好みそうな女性ならば誰でもいいとばかりに、出自なども頓着せず、浅草参りの帰りに店の手伝いをしていたお蘭(お楽の方)を見初めて連れ帰ったり、伊勢慶光院の院主で尼だったお万の方を還俗させたり、罪人の娘のお振、京都の庶民の娘のお夏、京都の八百屋の娘のお玉などを、次々と大奥で礼儀作法をしつけて家光の側室として送り込んだということ。

また、大奥の役職や法度などを整理、拡充して、構造的に整備したなど、将軍家光の権威をバックにして実質的な権力を握り、松平信綱、柳生宗矩と春日局は家光を支えた「鼎の脚」と称されるように。

\次のページで「2-5、「春日局」の名を天皇から下賜」を解説!/

2-5、「春日局」の名を天皇から下賜

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投稿者が作成 - 麟祥院所蔵の肖像画, パブリック・ドメイン, リンクによる

春日局は、寛永6年(1629年)に、家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝。そして上洛し、御所へ昇殿して家光の妹である中宮和子と後水尾天皇への拝謁をしようとしたが、将軍の乳母の無位無官の身分の女性が天皇に拝謁はできないため、春日局は育ての親の三条西公国の養女になろうとしたが、既に他界。なのでその息子の三条西実条(さねえだ)の猶妹の縁組をしたということ。

春日局は公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得て、藤原福子として後水尾天皇と中宮和子に拝謁。従三位の位階と「春日局」の名号と天酌御盃を賜ったそう。その後、寛永9年(1632年)に再上洛して、従二位と緋袴着用の許しを得たため、平清盛の妻時子や源頼朝の妻北条政子と同じく二位局とも称されるように。

2-6、後水尾天皇、怒りで譲位

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この一連の宮中行事は、春日局にとっては大変名誉なことだが、朝廷にとって幕府側のごり押しで、無位無官の将軍の乳母が参内という屈辱的な大問題。中宮和子の入内以来、幕府の朝廷への横暴なやり方に怒り心頭だった公卿たちも天皇も驚きと怒りをあらわにして、ついに後水尾天皇は女一之宮に譲位してしまったといわれるほど。
しかし後水尾天皇自身、もともと健康上の理由もあって退位を早くしたいという思いをもっていたという話もあるそう。

2-7、春日局の名の由来

春日局という名前は、室町幕府の3代将軍足利義満の乳母が天皇から拝領した名前が春日局だったので、同じく将軍の乳母として拝領という説と、春日局の出身地の但馬国春日郷にちなんだ命名という説があるということ。

2-8、薬を飲まない誓いを守った

春日局は、家光が疱瘡にかかったとき、生涯薬を飲まない誓いを立てて、山王社と東照宮に参詣して、水の入った桶を頭に乗せて月が出るまで祈ったためか、家光は快癒。春日局が病になったときに薬を飲まない事を知った家光は、春日局に自分で薬を飲ませようとしたが、春日局は飲んだふりをして薬を後で吐き出して誓いを守ったということ。春日局は寛永20年(1644年)、64歳で死去。

3-1、春日局のコネで出世した人々

春日局は大奥での権力者として、親戚縁者や世話になった人たちを徳川将軍家に仕官させ、大名にまで出世した人もいるということで、主な人たちをご紹介しますね。

3-2、元夫稲葉正成

元夫の稲葉正成は、家康に召し出されて、徳川家家臣となり、慶長12年(1607年)旧領の美濃国内に1万石を与えられ大名に、そして家康の孫松平忠昌の家老に就任。

その後の大坂夏の陣では、忠昌を補佐して戦功を挙げたことで、元和4年(1618年)、越後糸魚川2万石で忠昌の附家老になったが、寛永元年(1624年)、忠昌の越前国福井藩相続に従わず、勝手に出奔して浪人となり、幕府によって息子稲葉正勝の領内で蟄居に。ただし正成の4男正房とその子孫は越前家に仕えたそう。寛永4年(1627年)、正成は再び召し出されて下野真岡藩2万石の大名に。

3-3、実子稲葉正勝

春日局の息子の正勝は家光の小姓となり、元和7年(1621年)、書院番頭に元和9年(1623年)に26歳で年寄衆(老中)に。寛永元年(1624年)には常陸真壁郡5000石加増されて、柿岡藩1万石の大名に。その後も父の遺領相続で下野真岡藩4万石にと加増、転封して相模小田原藩8万5千石に。

しかし寛永11年(1634年)に母春日局に先立って38歳で病死。幼い次男正則を春日局が育て、伯父の斎藤利宗、甥の堀田正盛が後見人となったということ。

3-4、義理の曽孫堀田正俊

父堀田正盛の母が稲葉正成の娘で春日局の義理の娘になる関係から、寛永12年(1635年)に義理の曾祖母の春日局の養子となり、寛永18年(1641年)、家光の嫡男竹千代(のちの4代将軍家綱)の小姓に。

寛永20年(1643年)、家光の上意で春日局の孫稲葉正則の娘と婚約、春日局の遺領3000石を継承。その後も順調に出世して、4代将軍家綱の死去時には、大老酒井忠清と対立して家綱の異母弟である綱吉を5代将軍に推したため、綱吉に信任されて大老となり、権勢をふるうことに。

しかし貞享元年(1684年)8月28日、従叔父で若年寄の美濃青野藩主稲葉正休に江戸城内で刺殺。原因は正休の発狂とされるが、その場で正休が成敗されたことで様々な憶測がささやかれ、大坂の淀川の治水事業に関する意見対立、または将軍綱吉の関与の噂も。

3-5、斎藤利宗

春日局の実兄で、明智家滅亡後は加藤清正に仕えていたが、加藤家の改易後は将軍家光によって5千石の旗本に。

3-6、三条西実条

春日局が御所に参内できるように妹にした三条西実条は、後に朝廷の武家伝奏、最終的には右大臣にまで。そしてその子孫の玄長は幕府の高家肝煎となり、武家名字として「前田」を名乗ったそう。

3-7、祖心尼

春日局は祖心尼の父のいとこということで、祖心尼と夫町野幸和が蒲生氏改易のために浪人したときに、祖心尼を春日局の補佐とし、祖心尼の外孫お振を大奥に。お振は家光の側室として長女千代姫を出産し、夫幸和も幕府直参旗本に。

3-8、海北友雪(かいほう ゆうせつ)

元浅井家に仕えていた武士で画家の海北友松(ゆうしょう)は、春日局の父斎藤利三の友人で、山崎の戦い後に利三が刑死後、磔にされていた利三の遺体を、槍を振って侵入して奪い取り、手厚く葬り、春日局達一家を厚く庇護。

その恩に報いるために、その息子友雪が、春日局の推挙で家光に召し出され、江戸に屋敷をもらって、春日局開基で菩提寺の妙心寺塔頭麟祥院に、「雲竜図」「西湖図」などの襖絵などを描き、以後狩野探幽に従って、内裏障壁画制作に携わり、宮廷の御用も勤め、海北家は明治まで御所の御用を務める家として代々存続。

3代将軍家光に献身的に仕えて、大奥を作り上げたことで後世に名を残した女性

春日局は、父は明智光秀の武将として山崎合戦後に処刑されたとはいえ、なかなかの武家の名門の出身。そして子供時代に苦労をし、また親戚の公卿に育てられたことから教養も身に着けていたため、徳川家の将来を担う家康の孫の乳母としてふさわしい人物だったよう。

期待に応えて春日局は、才気煥発で両親に可愛がられる弟に比べ、おっとりし過ぎの家光につきっきりで、食事に気を付けたり病気の時は自分をなげうって看病と献身的に尽くしたため、家康に直訴して跡取りの座の承認を得るなどしたという伝説もうまれたほどで、乳母という役目を終えた成長後も、お役御免のはずが家光に頼りにされてずっと仕えることに。

そして女性に関心を持たない家光のためになりふり構わず好みの女性をかき集め、お世継ぎづくりのために大奥を作りあげ、陰の権力者として歴史に名を残したということは、やはり並大抵の女性ではなかったということでしょう。

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日本史歴史江戸時代

大奥を作りあげた3代将軍家光の乳母「春日局」を歴女がわかりやすく解説

今回は春日局を取り上げるぞ。3代将軍の乳母だって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、春日局について5分でわかるようにまとめた。

1-1、春日局は丹波の生まれ

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春日局(かすがのつぼね)の本名はお福。春日局とは、後年、御所に参内したときに天皇から賜った名前。

天正7年(1579年)丹波国の黒井城下館(興禅寺)で誕生。出生地については光秀の居城のあった丹波亀山城(京都府亀岡市)や坂本城(滋賀県大津市)などの異説もあり。

父は美濃国の名族で守護代だった斎藤氏の出身で、明智光秀の重臣の斎藤利三(としみつ)、母は稲葉良通(一鉄)の娘安、または稲葉一鉄の姉の娘於阿牟といわれ、春日局の母は利三の後室。きょうだいは、兄が3人、姉が2人。

1-2、春日局は名門の出身

春日局の母の父は稲葉一鉄といい、頑固一徹の語源となった人で、妻は公家の三条西公条(きみえだ)の娘。また一徹の姉深芳野は、最初は頼芸の側室のちに斎藤道三の側室となり義龍を産んだ女性。稲葉一鉄は、斎藤道三に仕えた西美濃三人衆のひとり。

そして春日局の父斎藤利三(としみつ)は、美濃守護代を代々務めた武家の名門で、守護代斎藤氏の滅亡後斎藤家は明智光秀に仕官。春日局は、幼少時は城主の姫として育ったそう。

1-3、春日局の父、本能寺の変に加担して処刑

 春日局が4歳の時、本能寺の変が勃発、その後の山崎合戦で父斎藤利三は羽柴秀吉軍に敗れたのち、坂本城下の近江国堅田で捕らえられ京都の六条河原で処刑。

春日局は父の処刑される現場を目撃したということで、兄たちは落ち武者となって各地を流浪。春日局は母方の実家の稲葉家に引取られ、美濃の清水城で過ごしたとか、延暦寺に住んだとか、父の友人海北友松、東陽院長盛らの援助を受けたとか、父の妹が嫁いだ土佐の長宗我部元親を頼っていったとか諸説あり。

また母方の親戚の公卿の三条西公国に養育されて、後々役に立つ書道、歌道、香道等の教養を身につけたということ。

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