今回はヘレン・ケラーを取り上げるぞ。映画や偉人伝でおなじみですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをアメリカの歴史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、アメリカの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ヘレン・ケラーについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ヘレン・ケラーはアラバマ州の生まれ

image by PIXTA / 31571310

ヘレン・アダムス・ケラーは、1880年6月、アメリカ合衆国南部のアラバマ州タスカンビアで誕生。

父のアーサー・ケラーはスイスのドイツ語圏から移住したドイツ系の地主の息子で、南北戦争では南軍大尉。アーサーの母(ヘレンの祖母)マリー・フェアファックス・ケラーはイングランド系アメリカ人で、南北戦争の南軍の総司令官だった、ロバート・E・リー将軍のはとこにあたるということ。ヘレンの母、ケイト・アダムス・ケラーもイングランド系アメリカ人で、その父(ヘレンの祖父)のチャールズ・アダムスは南軍の准将という、両親ともに南部の名家の出身。

兄弟は異母兄が2人と同母妹のミルドレッド。

1-2、ヘレン、猩紅熱にかかり障害が残る

ヘレンは順調に育って生後6カ月目に早くも片言ながらハローと言い、1歳の誕生日にはよちよち歩きができたということだが、1歳7ヵ月になったときに高熱(現在では猩紅熱らしいとのこと)が出て髄膜炎にかかり、医師と家族の懸命な看病で一命は取り留めたが、聴力と視力を失ってしまい、話すことも不可能に。

暗闇に閉じ込められたヘレンはしつけもできず、野生児のようになり、相手と意思疎通ができない、思うようにいかないと癇癪を起こし、相手をぶったり物を壊したり、母親を階段下の食糧庫に閉じ込めてしまい、母親がドアを叩き足を踏み鳴らして助けを呼んでも、ヘレンはその振動を面白がっていたという話も。

1-3、サリヴァン先生が家庭教師に

ヘレンの両親はお手上げ状態だったが、あきらめずに文献を調べ名医の診察を受けさせたところ、視力の回復は無理だが、視聴覚障害者の教育は可能と確信したため、父ケラー大尉は7歳のヘレンをつれて電話の発明者のアレクサンダー・グラハム・ベルを訪問。

ベルは母と妻が難聴者のため、1872年にシカゴに聾学校を設立するなど当時の聾教育の第一人者だったということ。ベルはヘレンの父に、全米初の盲学校パーキンス盲学校の初代校長のサミュエル・ハウが、盲聾のローラ・ブリッジマンを教育したことを話し、ハウの義理の息子で校長を引き継いだマイケル・アナグノスを紹介したそう。

そしてヘレンの父はマイケル・アナグノスに手紙で家庭教師の派遣を要請、1887年3月3日に派遣されてきたのが、同校を優秀な成績で卒業した20歳のアン・サリヴァン先生。ヘレンはこの日のことを後に、「私の魂が誕生した日」と回想

Helen Keller with Anne Sullivan in July 1888.jpg
Family member of Thaxter P. Spencer, now part of the R. Stanton Avery Special Collections, at the New England Historic Genealogical Society. See Press Release [1] for more information. - New England Historic Genealogical Society, パブリック・ドメイン, リンクによる

サリヴァン先生の生い立ち
アン・サリヴァンは、本名はジョアンナ・マンズフィールド・サリヴァン・メイシーで、愛称はアニー。1866年4月14日にマサチューセッツ州フィーディング・ヒルで誕生。アイルランド系移民の農民の父トマス・サリヴァンとアリス・クロージーの長女で、3歳の時、目の病気トラコーマに。

ま9歳のとき母親が亡くなり、結核で身体が不自由になった弟のジミーとチュークスバリー救貧院へ入所したが、弟はすぐに亡くなり、アン自身も病気が悪化して盲目に。そのときは鬱状態となったが、病院の看護婦に毎日キリスト教の教えを説かれて心を開いたということ。

そして14歳のときに、マサチューセッツ州ウォータータウンのパーキンス盲学校に入学、訓練と数度の手術である程度の視力を回復、卒業生総代としてスピーチを行うまでに。

この盲学校の在学中、視覚、聴覚障害を克服したローラ・ブリッジマンと出会って友人関係となったこと、自身の盲目体験が後にヘレンに対する教育に生かされたそう。サリヴァン先生は、その後50年間ヘレンを献身的に支え続け、後に作家マーク・トウエインが、ナポレオンとともに「19世紀の奇跡」、「偉大なる教師」聖女とまで讃えたということ。

2-1、サリヴァン先生、ヘレンを特訓

ということで、自身も目が悪いサリヴァン先生には荒れるヘレンの気持ちがよくわかったが、朝食をほかの人のお皿から手づかみでとるヘレンを見て、家族をダイニングから出して、暴れるヘレンに立ち向かい一対一で食事のマナーを教え、数時間後、ついにヘレンは自分のお皿からスプーンで食べることに成功。

こうやって最初からサリヴァン先生は厳しくヘレンをしつけるため、ヘレンの父は北部人のサリヴァン先生を気に入らなかったようですが、2週間もすると、ヘレンはすっかり落ち着きのある少女となったので、家族はサリヴァン先生に全幅の信頼を寄せたということ。

\次のページで「2-2、ヘレン、ウォーターの言葉を知る」を解説!/

2-2、ヘレン、ウォーターの言葉を知る

Anne Sullivan - Helen Keller memorial - Tewksbury, Massachusetts - DSC00072.JPG
Daderot - 自ら撮影, パブリック・ドメイン, リンクによる

サリヴァン先生は、パーキンス盲学校から贈られた人形をヘレンに抱かせて、指文字で「DOLL(人形)」という字をヘレンの掌に書くことを繰り返しているうちに、物には名前があることを理解するようになったそう。そしてもともと賢いヘレンの進歩は日に日に早くなり、3か月もたつと300もの言葉を覚えたということ。

ある日、ヘレンはコップと中に入っている水を同じものだと主張し、サリヴァン先生とけんかになったが、ヘレンに気分転換させたあと、サリヴァン先生は初めてヘレンを戸外に連れ出し、ポンプ小屋でヘレンが持っているコップに冷たい水を注ぎこんだそう。

そして「water水」と掌に指文字で書いたとたんにヘレンの顔色がさっと変って考え込み、ヘレンの顔にはいつもと違う輝きが現れたということで、以後、頑固だったヘレンが素直にサリヴァン先生の教えを受け入れて進歩も目立つようになったそう。

サリヴァン先生は、次にヘレンに読む力を与え、書くことも教えたということですが、生活の中での教育というか、ヘレンの知りたいことによく注意をし興味を引くものを教えるようにしたということ。

2-3、ヘレン、盲学校へ行く

1889年10月、ヘレンはボストンのパーキンス盲学校に連れて行ってもらい、生まれてはじめて自分と同年輩の多くの盲児と遊んだということ。そこで元気にはしゃぐ子供たちが自分と同じ盲人で、とても幸福そうなことをヘレンが知ったときは想像を絶するよう喜びだったということ。後に自叙伝に「私はどんなに生き甲斐を感じたことでしょう」と回想。

そしてヘレンは、ワシントンに行ってクリーヴランド大統領に会ったり、古戦場を訪れたり、汽船に乗ったりと、世界が広がったということ。 

2-4、ヘレン、言葉を発する

ヘレンとサリヴァン先生はボストンのホレースマン聾学校に行き、校長のサラー・フラー女史に読話と発音法を学ぶことに。

これはフラー女史が一言を発すると、ヘレンがフラー女史の顔に手をあてて、唇の動きや舌の位置を探って、その真似をするというもので、ヘレンは1時間後には6つの音の要素(M.P.A.S.T.I)を覚え、最初に「It is warm today.(今日は暖かです)」と自分には聞えないが、声を発したということ。

ヘレンは後に「このときの驚きと喜びは、終生忘れ得ないことで、聞き取りにくい言葉だが、人間の言葉だった。私は永い間の苦悩から救い出された」と回想。ヘレンは1894年から2年間、ニューヨークのライトヒューメーソン聾唖学校で発声法を研究したが、ドイツ人について勉強したので、わずか数ヵ月でドイツ語が理解できるようになったということ。

サリヴァン先生の献身のおかげもあり、ヘレンはラテン語、歴史文学、地理などに興味を持ち、同じ年ごろの優秀な生徒と変わらない成績だったそう。

2-5、ヘレン、大学入学準備のために女学校に入学

ヘレンは向学心や知識欲があふれんばかりとなって、大学教育を受けたいと熱心に希望。幸い物質的な援助があったために、アイアン博士について準備教育を始めたが、17歳のヘレンはハーバード大学入学を希望したので入学準備のためケンブリッジ市の女学校に入学。

女学校では、サリヴァン先生がヘレンと一緒に登校して同席し、教師の教えるところをサリヴァン先生が指文字でヘレンに伝えて、ヘレンが質問するときは指文字でサリヴァン先生に伝え、サリヴァン先生から教師に伝えたということ。ヘレンとサリヴァン先生はこのような授業を3年間受け、睡眠時間も削って予習復習も行い、何度も点字本を読むので指先から血がにじむほどの猛勉強ぶり。

そしてヘレンは21歳でしかも優秀な成績であこがれのハーバード大学附属のラッドクリフ女子大学に入学が決定。当時の新聞は世界の歴史始まって以来とほめたたえたそう。大学ではヘレンは古典文学と哲学に特に興味を持ったということ。

2-6、ヘレン、ラドクリフ女子大を卒業し学位を取得

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パブリック・ドメイン, リンク

ヘレンは大変優秀な成績でラッドクリフ女子大を卒業、視聴覚障害者としては前代未聞のバチェラー・オプ・アーツの学位を獲得。

ヘレンの卒業の年、1904年10月、当時開催中だったセントルイス博覧会では、ヘレンの卒業を祝して「ヘレン・ケラー・デー」を設けて、ヘレンを招いて大講演会を開催。ヘレンの演説を開こうと駆け付けた群衆で大盛況だったということ。

\次のページで「2-7、ヘレン、福祉活動家として講演、執筆活動に」を解説!/

2-7、ヘレン、福祉活動家として講演、執筆活動に

ヘレンは、1909年から3年間、ボストン音楽学校の声楽教授ホワイト氏について発声方法を勉強。そしてカリフォルニア州モントクレアでの第1回公開講演から、その後40数年の間、ヘレンは米国内はもとより世界各国に招かれて講演を行うようになり、その数数千回となったということで、ヘレンは視聴覚障害者の福祉のために活動するように。ヘレンが関係したアメリカ国内、そして海外の福祉事業は、現在大きく実っているということ。

また、ヘレンは1903年のラドクリフ女子大在学中に執筆した「楽天主義」、「私の生涯」を皮切りに、1905年にはエッセイの「暗黒より出でて」、1908年「私の住む世界」、「闇より」、1910年には自由詩「石壁の歌」、1927年「私の宗教」、1930年「中流」、「私の近頃の生活」、1933年「夕暮の平和」、1938年「日誌」、1940年「われら信仰を持たん」などなど、ヘレンの著作本は出版と同時に障害者だけでなく、多くの一般読者に受け入れられ好んで読まれるように。

そして1931年には、ヘレンの福祉活動家としての業績をたたえて、フィラデルフィアのテンプル大学から人文学博士号が贈られ、1932年、イギリスのグラスゴー大学から法学博士号が授与されることに。尚、テンプル大学では、一般世論も考慮して特にサリヴァン先生にも同じ学位を贈ったが、サリヴァン先生は自分には資格がないと辞退、再三すすめられて翌年になって授与されたということ。

ヘレンは、1968年6月1日、コネチカット州イーストンの自宅で87歳で死去。ワシントン大聖堂で葬儀が行われ、地下礼拝堂壁内の納骨堂にサリヴァン先生、後任のポリー・トンプソンと共に埋葬されたということ。

3-1、ヘレンの逸話

サリヴァン先生は1936年に亡くなり、ヘレンの嘆きは大きかったのですが、自分の死後もヘレンが困らないように後継者を育てておいたため、以後はポリー・トムソン女史が通訳となり、世界各地の遊説に同行するなど、ヘレンの晩年を支えたということ。

また、昭和12年(1937年)最初に来日したとき、到着してすぐ横浜港の客船待合室で財布を盗まれたが、それが新聞で報道されると日本全国の多くの人々からヘレン宛に続々と現金が寄せられ、3か月後にヘレンが帰国するまでに盗まれた額の10倍以上になったとか、ほかにもいろいろな逸話があります。

3-2、塙保己一をお手本にしていた

ヘレンは幼少時から母に「塙保己一をお手本に」と教えられたということで、昭和12年(1937年)4月に来日したとき、渋谷の温故学会を訪れて、人生の目標であった保己一の座像や保己一の机に触れたそう。

ヘレンは「先生(保己一)の像に触れることができたことは、日本訪問で最も有意義なこと」「先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう」と語ったということ。

塙保己一(はなわ ほきいち)
7歳で失明したが、15歳で江戸に出て賀茂真淵(かものまぶち)らに学び、抜群の記憶力で和漢の学に通じ、「群書類従」を編纂したことで知られる江戸後期の国学者。

3-3、奇跡の人はサリヴァン先生のこと

ヘレンとサリヴァン先生の半生は、「The Miracle Worker」という題名で舞台や映画などが制作されていて、日本では「奇跡の人」と訳されるために、ヘレンの代名詞として用いられがちだが、英語の題名は「奇跡を起こす人」という意味で、サリヴァン先生のことを指しているということ。

\次のページで「3-4、ハチ公のファンだった」を解説!/

3-4、ハチ公のファンだった

Helen Keller visit to Japan in 1948 02.jpg
不明 - 毎日新聞社「毎日グラフ(1948年10月1日号)」より。, パブリック・ドメイン, リンクによる

ヘレンは戦前と戦後に3度来日していずれも大歓迎を受けたということですが、1937年に最初に訪日したとき、ハチ公の話を知り(ハチ公の死はこの2年前の1935年)、わんこ好きのヘレンは秋田犬が欲しいと希望したため、秋田犬保存会副会長が「神風号」という秋田犬を贈り、ヘレンと一緒にアメリカへ帰国。

これがアメリカに初めて持ち込まれた秋田犬であり、この犬が2カ月で亡くなった後、「ケンザン号」という兄弟犬が贈られて家族同然に可愛がったということで、現在は世界中でブームとなっている日本犬の賢さや飼い主に対する従順さを広めたのはヘレンが最初かも。

3-5、秘書と婚約したが親の反対で破局に

ヘレンの生涯で唯一のコイバナは、秘書で元新聞記者のピーター・フェイガンと相思相愛となり婚約。しかし南部の名門で保守的なヘレンの家族は労働運動をしていたピーターを嫌い、大反対されたために破局。ヘレンは生涯独身に。

また、サリヴァン先生は39歳の時に結婚したが、ヘレンと3人での生活でヘレンを優先したためにこれも別居、破局となったそう。

3-6、ヘレンの生家は保存展示

アラバマ州タスカンビアのヘレンの生家は見学可能だということで、車でしかアクセスできないところにあるが、毎年多くの日本人が訪れるということで、また日本にまつわる展示も多く、世界中で出版されたヘレンの本のなかには日本語に翻訳された本が一番多いということ。

そしてヘレンが「Water」の意味を理解した井戸は、今も大切に保存

障害を克服して福祉活動に生涯をささげた、語り継がれるにふさわしい偉人

ヘレン・ケラーは、裕福で幸せな家に生まれ、思いがけなく猩紅熱で耳と目の機能を失い野生児のようになったが、両親は諦めずにヘレンのために家庭教師を雇ったおかげで、ヘレンはサリヴァン先生と出会って本来の賢さが覚醒。

サリヴァン先生の努力と生まれ持った賢さと努力で、障害を克服しただけでなく、当時の最高の教育を身に着けて、同じように障害のある人たちを励ますためにアメリカはおろか世界中を講演旅行してまわり、自叙伝などを出版して福祉活動家として大活躍、現在もその活動の成果は大きく実っているそう。

戦前、戦後の日本も訪問、講演でヘレンを実際に見た人に聞いたところ、素晴らしく純粋な感じで本当に美しい方で握手したのを自慢話にしていたほど。大人になって調べてみると改めてヘレンとサリヴァン先生のすごさがわかり、子供のころ偉人伝で読んだ以上に感動するのは私だけでしょうか。

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アメリカの歴史世界史歴史独立後

ヘレン ケラー、三重苦を克服し福祉活動に生涯をささげた奇跡の人について歴女がわかりやすく解説

今回はヘレン・ケラーを取り上げるぞ。映画や偉人伝でおなじみですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをアメリカの歴史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、アメリカの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ヘレン・ケラーについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ヘレン・ケラーはアラバマ州の生まれ

image by PIXTA / 31571310

ヘレン・アダムス・ケラーは、1880年6月、アメリカ合衆国南部のアラバマ州タスカンビアで誕生。

父のアーサー・ケラーはスイスのドイツ語圏から移住したドイツ系の地主の息子で、南北戦争では南軍大尉。アーサーの母(ヘレンの祖母)マリー・フェアファックス・ケラーはイングランド系アメリカ人で、南北戦争の南軍の総司令官だった、ロバート・E・リー将軍のはとこにあたるということ。ヘレンの母、ケイト・アダムス・ケラーもイングランド系アメリカ人で、その父(ヘレンの祖父)のチャールズ・アダムスは南軍の准将という、両親ともに南部の名家の出身。

兄弟は異母兄が2人と同母妹のミルドレッド。

1-2、ヘレン、猩紅熱にかかり障害が残る

ヘレンは順調に育って生後6カ月目に早くも片言ながらハローと言い、1歳の誕生日にはよちよち歩きができたということだが、1歳7ヵ月になったときに高熱(現在では猩紅熱らしいとのこと)が出て髄膜炎にかかり、医師と家族の懸命な看病で一命は取り留めたが、聴力と視力を失ってしまい、話すことも不可能に。

暗闇に閉じ込められたヘレンはしつけもできず、野生児のようになり、相手と意思疎通ができない、思うようにいかないと癇癪を起こし、相手をぶったり物を壊したり、母親を階段下の食糧庫に閉じ込めてしまい、母親がドアを叩き足を踏み鳴らして助けを呼んでも、ヘレンはその振動を面白がっていたという話も。

1-3、サリヴァン先生が家庭教師に

ヘレンの両親はお手上げ状態だったが、あきらめずに文献を調べ名医の診察を受けさせたところ、視力の回復は無理だが、視聴覚障害者の教育は可能と確信したため、父ケラー大尉は7歳のヘレンをつれて電話の発明者のアレクサンダー・グラハム・ベルを訪問。

ベルは母と妻が難聴者のため、1872年にシカゴに聾学校を設立するなど当時の聾教育の第一人者だったということ。ベルはヘレンの父に、全米初の盲学校パーキンス盲学校の初代校長のサミュエル・ハウが、盲聾のローラ・ブリッジマンを教育したことを話し、ハウの義理の息子で校長を引き継いだマイケル・アナグノスを紹介したそう。

そしてヘレンの父はマイケル・アナグノスに手紙で家庭教師の派遣を要請、1887年3月3日に派遣されてきたのが、同校を優秀な成績で卒業した20歳のアン・サリヴァン先生。ヘレンはこの日のことを後に、「私の魂が誕生した日」と回想

Helen Keller with Anne Sullivan in July 1888.jpg
Family member of Thaxter P. Spencer, now part of the R. Stanton Avery Special Collections, at the New England Historic Genealogical Society. See Press Release [1] for more information. – New England Historic Genealogical Society, パブリック・ドメイン, リンクによる

サリヴァン先生の生い立ち
アン・サリヴァンは、本名はジョアンナ・マンズフィールド・サリヴァン・メイシーで、愛称はアニー。1866年4月14日にマサチューセッツ州フィーディング・ヒルで誕生。アイルランド系移民の農民の父トマス・サリヴァンとアリス・クロージーの長女で、3歳の時、目の病気トラコーマに。

ま9歳のとき母親が亡くなり、結核で身体が不自由になった弟のジミーとチュークスバリー救貧院へ入所したが、弟はすぐに亡くなり、アン自身も病気が悪化して盲目に。そのときは鬱状態となったが、病院の看護婦に毎日キリスト教の教えを説かれて心を開いたということ。

そして14歳のときに、マサチューセッツ州ウォータータウンのパーキンス盲学校に入学、訓練と数度の手術である程度の視力を回復、卒業生総代としてスピーチを行うまでに。

この盲学校の在学中、視覚、聴覚障害を克服したローラ・ブリッジマンと出会って友人関係となったこと、自身の盲目体験が後にヘレンに対する教育に生かされたそう。サリヴァン先生は、その後50年間ヘレンを献身的に支え続け、後に作家マーク・トウエインが、ナポレオンとともに「19世紀の奇跡」、「偉大なる教師」聖女とまで讃えたということ。

2-1、サリヴァン先生、ヘレンを特訓

ということで、自身も目が悪いサリヴァン先生には荒れるヘレンの気持ちがよくわかったが、朝食をほかの人のお皿から手づかみでとるヘレンを見て、家族をダイニングから出して、暴れるヘレンに立ち向かい一対一で食事のマナーを教え、数時間後、ついにヘレンは自分のお皿からスプーンで食べることに成功。

こうやって最初からサリヴァン先生は厳しくヘレンをしつけるため、ヘレンの父は北部人のサリヴァン先生を気に入らなかったようですが、2週間もすると、ヘレンはすっかり落ち着きのある少女となったので、家族はサリヴァン先生に全幅の信頼を寄せたということ。

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