秀吉の中国大返し
信長の死が目立つ本能寺の変ですが、実際には息子・信忠も自害しており、それは織田家の後継者が未定であることを意味していました。そのため、信長の敵討ちを果たせば、その者は織田家において権力を手にすることになるでしょう。最も、秀吉がそこまで計算して行動したのかは定かではありません。
秀吉は一刻も早く京都に戻ろうとします。中国地方から京都までおよそ200キロ、そこで秀吉は備中の付近で足軽(最下級の兵士)に装備を捨てるよう指示しました。「身軽な状態なら京都への到着も早まるだろう、そして京都に近づいてから装備を整えれば良い」と考えたのです。
一旦装備を外して移動、移動を終えてから再び装備を整えようとするその考えはまさに奇策、しかしその奇策は見事成功して200キロの距離をわずか10日ほどで到着しました。当然当時はまだ車などないですから、徒歩によるこの時の秀吉の速さは異常とも言え、そのため秀吉によるこの脅威的な早さの大移動を中国大返しと呼んでいます。
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想定外だった秀吉の中国大返し
秀吉の中国大返しに焦ったのは明智光秀でしょう。明智光秀は、信長を倒した時点で家臣達が敵討ちを仕掛けてくることは想定していました。そのため味方を増やして戦いの準備を整えようとしていましたが、ただそれにはまだ時間に余裕があると思っていたのです。
と言うのも、信長の家臣は現在各地で大名との戦闘中であり、例え信長の死が発覚しても京都到着までには時間が掛かると読んでいました。そんな明智光秀の計算を狂わせたのが秀吉の中国大返し、味方が揃わず充分な兵が集められていない状態で、秀吉と対峙することになってしまったのです。
明智軍の兵力に比べて秀吉軍の兵力はその2倍や3倍、明智軍が圧倒的不利な中で戦いは始まります。その戦いとは1582年の山崎の戦い、これは信長を倒して天下を取った明智光秀と信長の敵討ちに燃える羽柴秀吉との戦いで、雨が降っている中で戦いは開始されました。
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三日天下
山崎の戦いはたった一日で終わりました。秀吉軍が天王山のふもとを横切った時に起こったこの戦いは、天王山にて戦いが繰り広げられ、そのため天王山の戦いとも呼ばれています。最も、この場所で本当に戦いが起こったのかは実際のところ定かではなく、天王山での戦いは起こっていないという見解もあるほどです。
山崎の戦いは当初こそ一進一退の交戦状態となるものの、秀吉軍の奇襲によってその戦局は一変してしまい、明智軍の武将達は次々と倒されていきました。絶体絶命となった明智光秀は勝竜寺城に逃げ込みますが、生憎と平地に築かれたこの城では籠城は不可能、敗北を悟った兵士達は次々と脱走します。
明智光秀は自らの城である坂本城を目指しますが、移動中に農民による落ち武者狩りに遭遇して殺害されました。明智光秀が天下を取ったのは本能寺の変から山崎の戦いまで……つまりたった10日間ほどの束の間の天下となってしまい、「三日天下」の言葉の由来となっています。
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