室町時代戦国時代日本史歴史

戦いのさなかに信長が死亡!「備中高松城の戦い」を元塾講師が分かりやすく5分で解説

備中高松城の戦い ~信長死去の知らせ~

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秀吉の援軍要請

リスクを伴う水攻めでしたが、秀吉は築城を得意にした建築者らを使って水攻めの作戦に成功、見事備中高松城を水没させました。ただ清水宗治も負けてはおらず、焦る兵士達を巧みに指揮して降伏には至りません。そこで、水攻めを続ける秀吉は信長に援軍要請の書状を送ることにしました。

秀吉の書状を受け取った信長はただちに中国地方に援軍を送ることを決断、そこで任命されたのが明智光秀です。さて、明智光秀は援軍として向かいつつも突如止まります。そこは分かれ道、一方は進めば秀吉の待つ中国地方へと辿り着く道、もう一方は進めば信長が滞在する本能寺へと辿り着く道でした。

この時、明智光秀はなぜか本能寺への進路を変えて信長打倒を決意、その理由は未だ明らかになっておらず、「信長に叱責されたことへの恨み」や「朝廷の命令」など様々な諸説が存在します。ともあれ、本能寺へと向かった明智光秀は本能寺の変にて信長を自害へと追い込みました。

信長の死

本能寺の変を成功させた明智光秀は、秀吉討伐も企んでいました。秀吉が戦う毛利軍へと書状を送った明智光秀、そこに書かれていたのは「自身と毛利軍によって秀吉を挟み撃ちしてしまおう」という提案、ただその書状を手にした伝令は毛利軍には届かず秀吉軍に捉えられてしまいます。

秀吉は伝令が持つ書状を見て明智光秀の謀反を知り、同時に信長の死を知りました。この時、秀吉は戦場の毛利軍よりも主君・信長の敵討ちしか頭になく、そのため方針転換を行って毛利軍との戦いをいち早く終わらせようと決意。秀吉にとって好都合だったのは、ちょうどその頃毛利軍が和陸を提案してきたことでした。

水攻めによって備中高松城の疲労は極限状態に達しており、また兵糧が尽きかけていたため、さすがの毛利軍も限界を感じたのでしょう。毛利軍が秀吉軍に提案した条件は、「備中、備後、美作、伯耆、出雲を割譲するかわりに、清水宗治以下すべての兵士の命を助けてほしい」というものでした。

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水攻めの効果はあれど毛利軍を降伏させるには至らず、そこで秀吉は信長に援軍を要請した。ここで援軍をして出兵を命じられたのが明智光秀、しかしなぜか明智光秀は進路を変えて本能寺の変を起こす。この謀反の理由は未だ謎となっている。

備中高松城の戦い ~決着~

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和陸の承諾

毛利軍の提案を秀吉は拒否、早く信長の敵討ちをしたい気持ちはあれど、そこはさすが戦国時代の武将です。「備中、備後、美作、伯耆、出雲の割譲」の条件は受け入れましたが、「清水宗治以下すべての兵士の命を助ける」は受け入れられず、秀吉は「清水宗治の切腹」を要求としました。

この秀吉の要求に毛利軍は困惑しますが、これを承諾したのは何より切腹を要求された清水宗治本人です。清水宗治は戦術に長けた非情な一面を持つ一方で、家臣に対して優しさを見せる人間でもあり、自らの切腹で兵士の命と降伏が認められるならばと覚悟を決めました。

水没した城から数人乗った小舟で城の外へと現れた清水宗治、そこで堂々と切腹して見せたのです。最終的に割譲されたのは備中・美作・伯耆の三国でしたが、秀吉は毛利軍の和陸提案を受け入れて備中高松城の戦いを終わらせました。なぜなら、今秀吉にとって倒すべき存在は京都で待つ明智光秀だったからです。

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shintomoyui0311