日本史歴史飛鳥時代

大化の改新との違いは?「乙巳の変」を元塾講師が分かりやすく5分で解説

乙巳の変が起こったいきさつ ~蘇我氏の独裁体制~

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独裁体制で政権を掌握する蘇我氏

推古天皇の後継者に挙がった山背大兄王、そしてもう一人名前が挙がったのが田村皇子です。これに対して蘇我蝦夷と蘇我入鹿は田村皇子を推し、なぜなら田村皇子は蘇我氏の息のかかった人物であり、田村皇子が天皇につけば蘇我氏の権力は依然として安泰だと考えたからでした。

そこで蘇我蝦夷は田村皇子を天皇に即位させ、田村皇子は舒明天皇(じょめいてんのう)となります。ここで疑問なのが蘇我蝦夷の強引な意見が認められた理由ですが、それは蘇我蝦夷が当時大臣の座についていたことが理由でしょう。ともあれ、舒明天皇を即位させたことで蘇我氏の権力は健在となります。

権力健在どころかさらに権力を高めた蘇我氏、その支配はまさに独裁体制に等しく、豪族達も朝廷の下ではなく蘇我氏の下へ働きに行くほどでした。しかし641年に舒明天皇が崩御、再び起こった後継者問題に対して名前が挙がったのがまたしても山背大兄王、蘇我氏の独裁体制ももはやこれまでと誰もが思ったことでしょう。

中大兄皇子と中臣鎌足の危機感

今度こそ山背大兄王に天皇の地位が継承されると思われた中、実際に即位したのは女性の皇極天皇(こうぎょくてんのう)で、皇極天皇は舒明天皇の妻にあたる人物です。舒明天皇には蘇我氏の息がかかっていましたから、その妻である皇極天皇も同様であり、そのため蘇我氏の権力は再び守られることになりました。

独裁体制の維持に成功した蘇我蝦夷と蘇我入鹿、現在の二人にとって最も邪魔な人物は山背大兄王です。山背大兄王は聖徳太子の子供ですから信頼が厚く、そのため皇位継承の話が持ち上がるたびに候補の筆頭に挙がっており、しかし山背大兄王が天皇に即位すればその時点で蘇我氏の権力低下は明らかでした

そこで、蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子は643年に山背大兄王を妻子ごと自殺へと追い込んでしまいます。こうして最大の不安要素を排除した蘇我蝦夷と蘇我入鹿、これで独裁体制を維持できると安心したさなか、この独裁体制に危機感を抱いたのが中大兄皇子と中臣鎌足でした。

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蘇我氏は自分達の息のかかった人物を天皇にすることで権力を高めていった。ついには権力低下の要因となる山背大兄王も自殺に追い込み、独裁体制の維持を確かなものとする。しかし、これに危機感を抱いたのが中大兄皇子と中臣鎌足だ。

乙巳の変の発生

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中大兄皇子と中臣鎌足が望む日本の形

中大兄皇子と中臣鎌足が理想としていたのは天皇を中心とした律令国家、それは中国の王朝・唐の脅威を見据えてのことでした。当時唐は日本が怖れる大国であり、しかも日本と唐との距離は近く、仮に唐が日本を攻めたとしたら蘇我氏の独裁体制が続く現状では太刀打ちできないと考えていたのです。

「唐と対等になるためには天皇に権力を中心させて日本が一つなり、天皇中心の律令国家を築かなければならない」……これが二人の考えであり、また理想でもありました。そして、そのためには蘇我氏を倒さなければならないとしてクーデターを計画したのです

このクーデターこそ乙巳の変、645年にそれは決行されました。中大兄皇子と中臣鎌足が利用したのは三国の調と呼ばれる儀式で、当時日本では朝鮮半島に存在した三国である新羅・百済・高句麗の使者がたびたび日本を訪問しており、その都度儀式が行われていたのです。

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shintomoyui0311