今日は乙巳の変(いっしのへん)について勉強していきます。歴史を覚える基本は出来事・内容・年号を覚えることですが、時にはこの基本が通用しないケースがある。

それが645年の乙巳の変で、なぜなら同年には大化の改新が起こっていてその違いが分かりづらいのです。そこで、今回は乙巳の変について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から乙巳の変をわかりやすくまとめた。

乙巳の変が起こったいきさつ ~推古天皇の後継者問題~

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乙女の変と大化の改新の違い

乙巳の変と大化の改新の区別は、一見複雑なようで実は簡単。乙巳の変とは、645年に中大兄皇子や中臣鎌足が中心となり政権を掌握していた豪族である蘇我氏を滅ぼしたクーデターです。一方、大化の改新とは乙巳の変から始まり、新政権が作られるまでの一連の政治改革のことを示します。

つまり、乙巳の変は大化の改新の第一段階としての位置付けで、645年に起こった乙巳の変に対して大化の改新は645年~650年までの改革全てを含むのです。どちらも645年に起こっていますが、大化の改新の場合は「645年」ではなく「645年~」となっているのがポイントですね。

ただ、あくまで大化の改新の終わりは一般的に650年までとされているものの、これを大宝律令が制定される701年までと捉える意見もあるようで、広義……すなわち広い意味ではそのように解釈されています。では、ここから改めて乙巳の変について解説していきましょう。

推古天皇の後継者問題

聖徳太子が朝廷にて政治の中心に立っていた頃、政治は聖徳太子と蘇我氏によって推古天皇に協力する形で行われており、蘇我氏とは当時豪族の中で最も力を持つ人物です。しかし622年、聖徳太子が死去したことによって蘇我氏の力が高まっていき、権力が集中したことで天皇家以上の権限を持つようになりました。

ただ、聖徳太子と共に推古天皇を支えてきた蘇我馬子も626年に死去、かわって権力を手にしたのが蘇我馬子の子である蘇我蝦夷と孫である蘇我入鹿の二人です。628年には推古天皇が崩御、ただ推古天皇は後継者を指名しておらず、それが争いを起こす原因となるのでした。

推古天皇が崩御した後、当然後継者を誰にするのかが話し合われます。ここで候補として挙がったのが山背大兄王でしたが、山背大兄王は聖徳太子の子供だったため蘇我蝦夷と蘇我入鹿は大反対、なぜならそうなってしまえば蘇我氏の権力は確実に弱まってしまうからです

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乙巳の変が起こったいきさつ ~蘇我氏の独裁体制~

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独裁体制で政権を掌握する蘇我氏

推古天皇の後継者に挙がった山背大兄王、そしてもう一人名前が挙がったのが田村皇子です。これに対して蘇我蝦夷と蘇我入鹿は田村皇子を推し、なぜなら田村皇子は蘇我氏の息のかかった人物であり、田村皇子が天皇につけば蘇我氏の権力は依然として安泰だと考えたからでした。

そこで蘇我蝦夷は田村皇子を天皇に即位させ、田村皇子は舒明天皇(じょめいてんのう)となります。ここで疑問なのが蘇我蝦夷の強引な意見が認められた理由ですが、それは蘇我蝦夷が当時大臣の座についていたことが理由でしょう。ともあれ、舒明天皇を即位させたことで蘇我氏の権力は健在となります。

権力健在どころかさらに権力を高めた蘇我氏、その支配はまさに独裁体制に等しく、豪族達も朝廷の下ではなく蘇我氏の下へ働きに行くほどでした。しかし641年に舒明天皇が崩御、再び起こった後継者問題に対して名前が挙がったのがまたしても山背大兄王、蘇我氏の独裁体制ももはやこれまでと誰もが思ったことでしょう。

中大兄皇子と中臣鎌足の危機感

今度こそ山背大兄王に天皇の地位が継承されると思われた中、実際に即位したのは女性の皇極天皇(こうぎょくてんのう)で、皇極天皇は舒明天皇の妻にあたる人物です。舒明天皇には蘇我氏の息がかかっていましたから、その妻である皇極天皇も同様であり、そのため蘇我氏の権力は再び守られることになりました。

独裁体制の維持に成功した蘇我蝦夷と蘇我入鹿、現在の二人にとって最も邪魔な人物は山背大兄王です。山背大兄王は聖徳太子の子供ですから信頼が厚く、そのため皇位継承の話が持ち上がるたびに候補の筆頭に挙がっており、しかし山背大兄王が天皇に即位すればその時点で蘇我氏の権力低下は明らかでした

そこで、蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子は643年に山背大兄王を妻子ごと自殺へと追い込んでしまいます。こうして最大の不安要素を排除した蘇我蝦夷と蘇我入鹿、これで独裁体制を維持できると安心したさなか、この独裁体制に危機感を抱いたのが中大兄皇子と中臣鎌足でした。

乙巳の変の発生

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中大兄皇子と中臣鎌足が望む日本の形

中大兄皇子と中臣鎌足が理想としていたのは天皇を中心とした律令国家、それは中国の王朝・唐の脅威を見据えてのことでした。当時唐は日本が怖れる大国であり、しかも日本と唐との距離は近く、仮に唐が日本を攻めたとしたら蘇我氏の独裁体制が続く現状では太刀打ちできないと考えていたのです。

「唐と対等になるためには天皇に権力を中心させて日本が一つなり、天皇中心の律令国家を築かなければならない」……これが二人の考えであり、また理想でもありました。そして、そのためには蘇我氏を倒さなければならないとしてクーデターを計画したのです

このクーデターこそ乙巳の変、645年にそれは決行されました。中大兄皇子と中臣鎌足が利用したのは三国の調と呼ばれる儀式で、当時日本では朝鮮半島に存在した三国である新羅・百済・高句麗の使者がたびたび日本を訪問しており、その都度儀式が行われていたのです。

\次のページで「クーデターの成功と蘇我氏の滅亡」を解説!/

クーデターの成功と蘇我氏の滅亡

三国の調の儀式を利用して、中大兄皇子と中臣鎌足はそこに出席していた蘇我入鹿に斬りかかって暗殺します。これで残るは蘇我蝦夷ですが、追い詰められた蘇我蝦夷は自害、こうして中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデター……すなわち乙巳の変と呼ばれる政変は成功しました。

飛鳥時代の日本で三代に渡って権力者となっていた蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿、全員が死亡したことで蘇我氏は滅び、この時点で蘇我氏による独裁体制は幕を閉じたのです。おそらくですが、蘇我蝦夷も蘇我入鹿も中大兄皇子に襲われた時はさぞかし驚いたでしょう。

なぜなら、中大兄皇子は蘇我蝦夷と蘇我入鹿が次期天皇に推した舒明天皇と皇極天皇との間に生まれた子供だったからです。ただ、舒明天皇には母親が異なる古人大兄皇子という皇子がいました。しかも蘇我蝦夷と蘇我入鹿はその古人大兄皇子を次期天皇に推していたため、もしかすると中大兄皇子をいずれ暗殺するつもりだった可能性もありますね。

中大兄皇子と中臣鎌足の出会い

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蘇我氏打倒を目指す中臣鎌足

乙巳の変を行った中大兄皇子と中臣鎌足、二人の関係や出会いはどのようなものだったのでしょうか。上記で解説したとおり、中大兄皇子は舒明天皇と皇極天皇との間に生まれた子供で、つまり天皇家の人物です。最も、「皇子」と名がつくことからもその点は想像できると思います。

一方の中臣鎌足は推古天皇の時代、神祇官(朝廷の祭祀を司る官庁名)の長官だった中臣御食子の嫡男として生まれました。神祇官の役職に代々就いていた中臣氏、そのため中臣鎌足も神祇官への就任を打診されたものの、それを断って政治の世界から離れています。

中臣鎌足が神祇官の就任を拒んだ理由は不明な部分もありますが、一説では既にこの頃から蘇我氏打倒を考えていたようです。密かに蘇我氏打倒を目標としていた中臣鎌足、そこで中臣鎌足は皇位継承者の中でそれに見合う人物を探し、その結果注目したのが中大兄皇子でした。

蹴鞠の会での出会い

中臣鎌足が中大兄皇子と親しくなったきっかけは、飛鳥寺で行われていた蹴鞠(けまり)の会でした。蹴鞠とは球技の一種であり、革製の鞠を落とさずに蹴り上げ続け、その回数を競うものです。日本書紀によると中大兄皇子は飛鳥寺でこれを行っていたようですが、本格的に流行するのは12世紀に入ってからになります。

「12世紀=1101年~1200年」ですから、中大兄皇子はかなり早い段階で蹴鞠にハマっていたことが分かりますね。ある日、中大兄皇子が鞠を蹴ったはずみで靴が脱げてしまい、中臣鎌足がその靴を拾ってあげたのが二人の出会いでした。中大兄皇子は中臣鎌足の対応に感激し、中臣鎌足は中大兄皇子の丁寧な態度に関心したようです。

こうして知り合った二人は親しくなっていき、蘇我氏打倒の考えで意気投合します。蘇我氏打倒を考えていた中臣鎌足と蘇我氏の独裁体制に危機感を抱いていた中大兄皇子、同じ考えを持つ二人はクーデターを計画して天皇中心の律令国家を実現させようとしたのです。

\次のページで「大化の改新」を解説!/

大化の改新

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新政府の基盤作り

乙巳の変……すなわち大化の改新の第一幕を成功させた中大兄皇子と中臣鎌足、ただそれだけでは日本を変えることはできません。次に行うべきことは新たな政治体制作りであり、ここからが大化の改新の第二幕の始まりです。蘇我蝦夷が自害した事件のあと、皇極天皇は退位を表明しました。

皇極天皇は弟の軽皇子に譲位、こうして軽皇子は孝徳天皇になります。中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内臣へと就任して、ちなみに内臣とは天皇の補佐役にあたる役職でした。さらにこれまで最高官職だった大臣と大連を廃止、かわって左大臣と右大臣を新設します。

この時、左大臣に就任したのは阿倍内麻呂、右大臣に就任したのは蘇我倉山田石川麻呂で、新政府の最高顧問として国博士という役職も新設されました。国博士に就任したのは僧旻と高向玄理、天皇を中心とした律令国家を作るための基盤がこうして整えられます。

改新の詔に示された4か条

翌646年、新政府は4つの基本方針を示す改新の詔を発表しますが、それに記された4か条とは次のようなものでした。1つ目に公地公民制、これは土地を私有地にすることを禁止して、全ての土地と人民を天皇のものとする決まりです。ただ、公地公民制についてはその実施の有無が現代になって疑問視されています。

2つ目に国郡制度、これは首都を定めて全国を60以上の国に分けることで、さらにその国を郡に分けました。3つ目に班田収授法、これは戸籍を作った上でその戸籍に基づき、朝廷から人民に対して農業用の土地が貸し与えられるものです。ちなみに、班田収授法は中国が採用していた制度に似ているため、それにならったものではないかとされています。

4つ目に租庸調の税制、これは税金の決まりです。租・庸・調はいずれも税の種類を示しており、人民に対して納税と労働による負担を定めたものになります。今後日本はこの改心の詔に基づいた方針で政治が進められていき、やがて701年の大宝律令の制定によって律令国家が実現するのでした。

乙巳の変は大化の改新の第一段階!

乙巳の変のポイントは、やはり大化の改新との区別でしょう。改めて解説すると、乙巳の変とは645年に起こった中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を滅亡させたクーデターです。この時、実際に暗殺されたのは蘇我入鹿であり、蘇我蝦夷に至っては自害しています。

一方、大化の改新とは蘇我氏滅亡から新政権が作られた政治改革一連の流れを示すもので、乙巳の変は言わば大化の改新の第一段階や第一幕に相当する位置付けです。この区別をしっかり覚えれば、乙巳の変と大化の改新で混乱することはないでしょう。

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日本史歴史飛鳥時代

大化の改新との違いは?「乙巳の変」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は乙巳の変(いっしのへん)について勉強していきます。歴史を覚える基本は出来事・内容・年号を覚えることですが、時にはこの基本が通用しないケースがある。

それが645年の乙巳の変で、なぜなら同年には大化の改新が起こっていてその違いが分かりづらいのです。そこで、今回は乙巳の変について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から乙巳の変をわかりやすくまとめた。

乙巳の変が起こったいきさつ ~推古天皇の後継者問題~

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乙女の変と大化の改新の違い

乙巳の変と大化の改新の区別は、一見複雑なようで実は簡単。乙巳の変とは、645年に中大兄皇子や中臣鎌足が中心となり政権を掌握していた豪族である蘇我氏を滅ぼしたクーデターです。一方、大化の改新とは乙巳の変から始まり、新政権が作られるまでの一連の政治改革のことを示します。

つまり、乙巳の変は大化の改新の第一段階としての位置付けで、645年に起こった乙巳の変に対して大化の改新は645年~650年までの改革全てを含むのです。どちらも645年に起こっていますが、大化の改新の場合は「645年」ではなく「645年~」となっているのがポイントですね。

ただ、あくまで大化の改新の終わりは一般的に650年までとされているものの、これを大宝律令が制定される701年までと捉える意見もあるようで、広義……すなわち広い意味ではそのように解釈されています。では、ここから改めて乙巳の変について解説していきましょう。

推古天皇の後継者問題

聖徳太子が朝廷にて政治の中心に立っていた頃、政治は聖徳太子と蘇我氏によって推古天皇に協力する形で行われており、蘇我氏とは当時豪族の中で最も力を持つ人物です。しかし622年、聖徳太子が死去したことによって蘇我氏の力が高まっていき、権力が集中したことで天皇家以上の権限を持つようになりました。

ただ、聖徳太子と共に推古天皇を支えてきた蘇我馬子も626年に死去、かわって権力を手にしたのが蘇我馬子の子である蘇我蝦夷と孫である蘇我入鹿の二人です。628年には推古天皇が崩御、ただ推古天皇は後継者を指名しておらず、それが争いを起こす原因となるのでした。

推古天皇が崩御した後、当然後継者を誰にするのかが話し合われます。ここで候補として挙がったのが山背大兄王でしたが、山背大兄王は聖徳太子の子供だったため蘇我蝦夷と蘇我入鹿は大反対、なぜならそうなってしまえば蘇我氏の権力は確実に弱まってしまうからです

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