歴史の偉人と呼ばれている人達は、後世に残る言葉を数多く残されていて書物などでも利用されているようです。そういった言葉の中で賽は投げられたという言葉を残し激動の古代ローマを武力で制圧していた人物がいたようです。

名前をガイウス・ユリウス・カエサルといい古代ローマで絶大な権力保持者として君臨していた人物について歴史マニアで歴史ライターのwhat_0831と一緒に紹介していきます。

ライター/what

軍人として戦に参加していただけでなく、政治家としての手腕も発揮していたカエサルを紹介していく。

独裁官誕生

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カエサルの生まれた時期はいくつかの説があり学者同士で議論されているようです。

カエサルが生まれた年

カエサルの生まれた年については、二つの説があり一つはローマ伝記作者のスエトニウスが著作した皇帝伝の紀元前100年と古代ローマで法務官をしていた時から逆算して導かれた紀元前102年のどちらかとされています。父は同姓同名だったようでカエサルと区別するために、大カエサルとも呼ばれていました。

父も古代ローマの法務官をしていたようで、最後は行政官として古代ローマに貢献していて母のアウレリア・コリッタで代々執政官を任されていた名家出身の血筋との間に誕生します。カエサル家の家柄についてははっきりとは判明しておらずローマ皇帝群衆像に記載のある四説のどれかとされていました。

一番有力な説がありカエサルはラテン語で切るを意味していることから、アウレリアが亡くなった後に切開して誕生したことが由縁となり名付けられたとされています。

カエサルの語源

1 戦争で像を殺害したことによる由来(像をフェニキア語でカエサイ)

2 母の死後に切開して誕生

3 最初にカエサル家を名乗った人物が毛深かった

4 灰色の瞳をしていた

争いが絶えなかった幼少時代

カエサルが誕生したとする紀元前100年から80年頃は、各地で激しい争いが繰り広げられて敵国との戦いだけでなく市民達が反旗を翻した内戦も発生していました。カエサルがどの様な幼少期を送っていたかは、ローマ著作にも詳しく書かれていないため何に接して何を学んでいたかもはっきりと分かっておりません。

派閥争いにより叔父を亡くす

争いによって国内情勢が悪化していたローマには、民衆が基盤となっている民衆派とローマの統治機関だった元老院を中心とした閥族派の二つ政治派閥が対立していました。民衆派にはマリウスが閥族派にはルキウス・コルネリウス・スッラで、カエサルは民衆派に属していきます。

互いの関係が徐々に悪化していき戦いによって優劣を決めていくことになり、共和政ローマとポントス王国との行われたミトリダテス戦争で両派閥に討伐命令が下っていきました。この命令に納得していなかったスッラは勝手にローマへ帰還。

汚名を晴らすべく奮闘したマリウスがルキウス・コルネリウス・キンナと手を結びローマを制圧するためにスッラの支持者を国家の敵として粛清していきました。しかし粛清した際に閥族派にいたカエサルの叔父にあたるルキウスが犠牲となってしまいます。

\次のページで「カエサル家の長となり亡命」を解説!/

カエサル家の長となり亡命

マリウスの行動により叔父を亡くしてしまうカエサルでしたが、粛清直後の紀元前84年にマリウスが急死し紀元前86年には父大カエサルが亡くなってしまいます。これによりカエサルがカエサル家の長となり、紀元前83にローマの神官を束ねる長となっていくために貴族になる必要はあったため、婚約を予定していたエクティス階級の娘と別れ貴族だったコルネウス族の女性と婚約していきました。

民衆派を纏める者が居なくなり、閥族派のスッラがローマへ侵攻を決意し国家の敵として粛清されていきカエサルも処刑リストに名前が挙がっていきます。しかし十八歳という若さであったこととスッラの支持者やウェスタの巫女に助命嘆願をされたことでスッラも渋々、カエサルを助命していきました。

助命されたカエサルはいつスッラ達に殺害されるか分からないと思い、アカエアへ亡命していき追ってから逃れていきます。

亡命後の活動

小アジアと呼ばれたアカエアに亡命した後に、アシア属州で軍務をするため駐屯軍に籍をおいていきました。軍事的手腕が発揮されてきたのはこの頃のようで、戦功が認められて市民冠が授与されていきます。

その後も軍事活動を続けていきビテュニア遠征軍を指揮しビテュニア王と共に、長期滞在をしていきました。この時にあまりにも仲睦まじい様子から周りからはカエサルが男色だったと噂されていきビテュニア属州の政敵から攻撃されるようになり、生涯この噂されたままとなっていきます。

紀元前80年頃にはローマを支配していたスッラが独裁官を辞しており、これを知ったカエサルは政治のことを何も分かっていないスッラだったといったそうです。それから2年経ちスッラが亡くなり身の危険が無くなったと判断したカエサルはローマへ帰還していした。

自身の歩むべき道を決めていく

ローマに帰還しても当然ながら以前のような暮らしが出来る訳ではありませんでした。

巧みな弁舌

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スッラが擁していた閥族派が弱まっていき民衆派のマルクス・アエミリウス・レピドゥスが挙兵し、ローマに帰還していたカエサルにも声を掛けていきましたがカエサルは民衆派に加わらず政治的活動をしていきました。ローマ帰還後にカエサルが民衆の注目を集め出したのが弁舌でローマ民衆は、脅迫や金銭を搾取し賄賂を行っていた属州提督に不満を持っておりこれを見たカエサルがは属州提督たちを次々と告発していき悪事を民衆に暴露していきます。

感情のこもった弁舌活動によって民衆の支持を得ていきましたが、一部の属州提督には不調で終わることもあったようで一時期アナトリア沿岸部のロドス島に赴き同じ弁舌活動をしていたキケロの師だったアッポロニウス・モロンの下で弁論術や説得術などの修辞学を学んでいきました。

モロンから修辞学を身に着けていきロドス島からローマへ帰還する際に、エーゲ海へ渡っていたところ海賊に捕らわれてしまう事件などもありましたが何とかローマまで帰還していきます。

野望のために

弁舌をして民衆を味方につけていき、軍団司令官に選ばれていきます。このあたりからローマで最高官位だったクルスス・ホルム目指して行動を始めていきました。

セルトリウス戦争や第三次奴隷戦争が始まっていきましたが、軍団司令官に任命されていたカエサルの活躍が記録されていません。後に敵対することになるグナエウス・ポンペイウスやマルクス・リキニウス・クラッススの二名が想像以上の戦火を挙げたことでカエサルについて記録されなかったのかも知れません。

大きな戦争二つが終焉し紀元前69年には、クルスス・ホルムの第一歩となるクァエストルと呼ばれた財務官になっていきます。この頃に妻のコルネリアが亡くなりマリウスの像を築き民衆派であることを主張していきました。

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元老院の議席を獲得

財務官となってからヒスパニアへ遠征した時にアレクサンドロスを見て、彼と同じ年齢になったのに何も出来ていない自身を攻めていました。しかしこの自身の言葉で見つめ直し偉業を達成するために奮起していきます。

ところがカエサルは悪夢を見てしまい、精神状況が悪くなっていきましたが占い師からの助言で自信を取り戻していき財務官の任務を全うしていきました。そしてヒスパニアからローマへ戻ると財務官の任期を満了し、閥族派の元老院の議席を獲得していきます。

議席を得たことで民衆派でありながら、閥族派にも属していきスッラの孫娘にあたるポンペイアと婚約して裕福だったため自身の野望のために財産を使用していきました。

陰謀の対処に追われる

野心のために行動していた時期に、ローマに対して行っていた陰謀の疑いをかけられていきました。ローマ市民権を持たない人達を蜂起を示唆したこと、ローマ自体を自身の物にするための計画をしていきましたが二つとも未遂に終わっていきます。

上級按察官に赴任し元老院の議員を民衆派を殺害した容疑で、告発していきましたが護民官が戦時収集したことで判決がうやむやになってしまいますが最高紙祇官の席が空き立候補していきました。カエサル以外にも立候補者が二名いましたが、持ち前の弁舌によって市民から当選され見事、最高紙祇官になっていきます。

当選したのも束の間でルキウス・セルギウス・カティリナ一家がローマ転覆を計画していき元老院の中でも互いに転覆に加担した者がいるといい疑い掛け合い対処に追われていくカエサルでした。

ローマ内戦から目的だった官位に就く

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転覆計画の刑が下された後も、加担者の追求が始まりカエサルも疑われていきますが身の潔白を証明し次なる官位を授かるべく奮闘していきます。

元老院に対抗する力

属州提督に任命されてローマ軍を率いて部族を討伐していき服属していなかった部族は臣従させていきます。各地を平定させてローマへ戻ると元老院達はカエサルに対して不満を持ち始めていました。

この不満に賛同してくれたポンペイウスと手を結び執政官へとなっていき元老院と対立するためにポンペイウスとクラッススと協力していきます。これにより元老院に対抗出来る政治勢力となっていき禁止とされていた農地法を確立させて全元老院議員に誓約させていきました。

執政官の後に再び属州提督に任命されていくと部族がローマ属州を通過しようと願い出るも断ったことでガリア人との戦争へと発展していきます。

ガリア戦争

ガリア戦争へ突入していくとゲルマン人やベルガエ人と戦い制圧していき、ポンペイウスとクラッススと話し合い属州提督の任を五年延長すること決まりました。紀元前56年にはゲルマン人の反撃に合いましたが撃退していき紀元前55年からは、現在のケント州にあたるブリタンニア国へ二度侵攻していきましたが制圧することが出来ずに失敗に終わります。

ガリア戦争で最大の戦いとなるのがアルウェルニ族との戦いでアレシアで行われていきアルウェルニ族は守備を固めていきました。アレシアはライン川を二本挟んだ小高い丘にあり、要塞都市だったためカエサルは力技で攻めるのではなく総全長21kmに及ぶ包囲戦を敷き補給路断ち兵糧攻めをしつつ交戦出来る準備をしていきます。

\次のページで「アレシアを包囲」を解説!/

アレシアを包囲

食糧難となってしまったアルウェルニ族でしたが、カエサルの軍も同じく六万の大軍だったために食料が底をつきかけている状況でした。状況を打破するためにアルウェルニ族の族長ウェルキンゲトリクスらが攻撃を開始。カエサルも迎え撃つために応戦していくと、勢いのあるアルウェルニ族に追い込まれていくも一部隊を敵背後に周り込ませてアルウェルニ族を壊滅させていきました。

順調に歩みを進めていくカエサルでしたが、カルラエの戦いで三頭政治を担っていたクラッススが戦死したことで三頭政治が崩壊したことにくわえてポンペイウスに嫁いだ娘が亡くなりポンペイウスと距離を取り始めていきました。

ポンペイウスと対立

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ポンペイウスは政敵だった元老院に近づき、カエサルと対立していくことになります。紀元前49年に属州提督を解任されてしまい護民官もローマから追われる身になってしまい元老院と内戦へと発展。カエサルは一軍を率いてイタリア半島を制圧するために軍を動かしていくとイタリア半島での支配権を確立させローマを制圧。

一方のポンペイウスはローマにいましたが、軍の立て直しに時間を要してしまいギリシアへ軍備を整えるためにローマから離脱していきます。その後ローマを発ちギリシアへ兵を進めて元老院の駐屯地だったデュッラキウムの戦いで敗北してしまいましたが、ファルサルスの戦いで兵力に劣りながらも優れた戦術によって勝利を収めていきました。

敗北してしまったポンペイウスは何とか逃亡しエジプトへと逃げ込んでいきましたが、アレクサンドリアに上陸した際に殺害されてしまいます。

ローマ内戦終結

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アレクサンドリアでポンペイウスが亡くなっていたことを知らずに、アレクサンドリアに上陸したところでプトレマイオス十三世の側近によってポンペイウスが殺害されたことを知りました。そのままエジプトに滞在することになったカエサルは、クレオパトラ七世とプトレマイオス十三世が姉妹で争いあい中立として両者を説得していきましたが収集が付きません。

しかし仲介していたカエサルにプトレマイオス十三世は攻撃を仕掛けてきたことで、カエサルはクレオパトラ七世に味方しナイルの戦いでプトレマイオス十三世を打ち破りクレオパトラ七世はファラオの座に就いていきます。エジプトを平定していきましたが、ポントス王国に敗戦した知らせを受け取り急遽ローマへ帰還していきました。

ローマに帰還したカエサルはゼラの戦いでファルナケス二世を破っていき元老院派も追い込み、ローマで凱旋式を行っていきます。ヒスパニアに逃げ込んでいたポンペイウス派がカエサルに刃を向けてきましたが、撃退しローマ内戦を終結させていきました。

終身独裁官へ

この時には元老院は武力によって制圧されて、カエサルに反抗出来る力を持っておらずカエサルが共和政の改革を行っていき議席持つことが出来ていなかった属州民に議席を与え元老院の議席を三百減らし元老院の力を更に削いでいきました。これによって全く機能していなかった民会と護民官を追認機関として、政治的に機能させていきます。

そしてカエサルは紀元前44年に終身独裁官に就任し自身に権力を集中させ、統治能力の強化を図っていき後の帝政ローマの基礎としていきました。このカエサルの動きによってローマを支配する絶対君主となり、発言したことは法律にすべきであるといい共和主義者達は共和政の崩壊する危機感を覚えていきます。

この行動により不満を抱く者が多くなっていき、カエサルは占い師と出会い紀元前44年3月15日は用心すべきであるといいました。そしてポンペイウス劇場で元老院議会を開かれようとした際にマルクス・ユニウス・ブルトゥスらに刺され刺し傷は二十三か所に及び二か所目を刺されたのが致命傷となり暗殺されてしまいます。

地位を掴むために邁進

名家出身でしたが、生まれた時には既に没落した貴族となってしてしまったことで彼の野心を奮い立たせていったようにも思えました。不運な状況でこそ、人は力を発揮すること出来ると思いますのでカエサルは生まれや身分に関係なく己が力を自国や他国まで響かせていき頂点に君臨したいと思ったのでしょう。

そして自らが進むべきをただ信じてきた結果として、一番の権力者となっていきましたが事を急ぎ過ぎてしまい最終的には暗殺されてしまい唐突過ぎる最後を向かえていきました。人の命は唐突に訪れることが望ましいといっていることから先が短い命の中で、野望の限り行っていきたいと思ったのでしょう。

暗殺されることなくカエサル生きていたのであればローマ皇帝に君臨していた可能性も無きにしも非ずだと思いました。

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古代ローマ一野心を抱いていた独裁官「カエサル」を戦国通のサラリーマンが徹底わかりやすく解説

歴史の偉人と呼ばれている人達は、後世に残る言葉を数多く残されていて書物などでも利用されているようです。そういった言葉の中で賽は投げられたという言葉を残し激動の古代ローマを武力で制圧していた人物がいたようです。

名前をガイウス・ユリウス・カエサルといい古代ローマで絶大な権力保持者として君臨していた人物について歴史マニアで歴史ライターのwhat_0831と一緒に紹介していきます。

ライター/what

軍人として戦に参加していただけでなく、政治家としての手腕も発揮していたカエサルを紹介していく。

独裁官誕生

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カエサルの生まれた時期はいくつかの説があり学者同士で議論されているようです。

カエサルが生まれた年

カエサルの生まれた年については、二つの説があり一つはローマ伝記作者のスエトニウスが著作した皇帝伝の紀元前100年と古代ローマで法務官をしていた時から逆算して導かれた紀元前102年のどちらかとされています。父は同姓同名だったようでカエサルと区別するために、大カエサルとも呼ばれていました。

父も古代ローマの法務官をしていたようで、最後は行政官として古代ローマに貢献していて母のアウレリア・コリッタで代々執政官を任されていた名家出身の血筋との間に誕生します。カエサル家の家柄についてははっきりとは判明しておらずローマ皇帝群衆像に記載のある四説のどれかとされていました。

一番有力な説がありカエサルはラテン語で切るを意味していることから、アウレリアが亡くなった後に切開して誕生したことが由縁となり名付けられたとされています。

カエサルの語源

1 戦争で像を殺害したことによる由来(像をフェニキア語でカエサイ)

2 母の死後に切開して誕生

3 最初にカエサル家を名乗った人物が毛深かった

4 灰色の瞳をしていた

争いが絶えなかった幼少時代

カエサルが誕生したとする紀元前100年から80年頃は、各地で激しい争いが繰り広げられて敵国との戦いだけでなく市民達が反旗を翻した内戦も発生していました。カエサルがどの様な幼少期を送っていたかは、ローマ著作にも詳しく書かれていないため何に接して何を学んでいたかもはっきりと分かっておりません。

派閥争いにより叔父を亡くす

争いによって国内情勢が悪化していたローマには、民衆が基盤となっている民衆派とローマの統治機関だった元老院を中心とした閥族派の二つ政治派閥が対立していました。民衆派にはマリウスが閥族派にはルキウス・コルネリウス・スッラで、カエサルは民衆派に属していきます。

互いの関係が徐々に悪化していき戦いによって優劣を決めていくことになり、共和政ローマとポントス王国との行われたミトリダテス戦争で両派閥に討伐命令が下っていきました。この命令に納得していなかったスッラは勝手にローマへ帰還。

汚名を晴らすべく奮闘したマリウスがルキウス・コルネリウス・キンナと手を結びローマを制圧するためにスッラの支持者を国家の敵として粛清していきました。しかし粛清した際に閥族派にいたカエサルの叔父にあたるルキウスが犠牲となってしまいます。

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