幕末日本史歴史江戸時代

閑院宮家出身で朝廷の存在感を高めた「光格天皇」江戸後期の天皇を歴女がわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ、今回は光格天皇を取り上げるぞ。閑院宮から天皇に即位したって、珍しいことみたいだが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代や幕末が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、光格天皇について5分でわかるようにまとめた。

1-1、光格天皇は閑院宮の生まれ

光格天皇(こうかくてんのう)は明和8年(1771年)8月15日に京都で誕生。父は閑院宮典仁(かんいんのみや すけひと)親王で、母は家女房の大江 磐代(おおえ いわしろ)、典仁親王の第6皇子。きょうだいは夭折を含めて男10人、女2人。

幼名は祐宮(さちのみや)。諱は初め師仁(もろひと)だったが、音読みで、しにんとなるのを嫌い、践祚と同時に兼仁(ともひと)に改名。尚、明治天皇の幼名は、光格天皇にあやかって同じ祐宮と名付けられたということ。

1-2、閑院宮家とは

閑院宮家は宝永7年(1710年)に創設された世襲親王家。当時存在した伏見宮、有栖川宮、桂宮家の3宮家はいずれも創設後に血縁関係が天皇家とは遠くなってしまい、また天皇家に跡継ぎ以外の皇子が生まれても、分家する費用がなくて宮門跡とならざるを得なくて一生独身。

このままでは皇統断絶のおそれがあり、天皇に近い宮家が必要との考えで、新井白石の建議で幕府が費用を出して創設。享保3年(1718年)、霊元上皇より東山天皇の第6皇子の直仁親王へ閑院宮の家号と所領1000石が下賜。伏見宮、有栖川宮、桂宮、閑院宮をあわせて4宮家(4親王家)。尚、典仁親王は閑院宮家2代目。

1-3、光格天皇の母は倉吉の出身

光格天皇の実母大江磐代(おおえの いわしろ)は、延享元年(1744年)に伯耆国倉吉(鳥取県倉吉市)で、鳥取藩の家老荒尾氏の家臣の父岩室宗賢と、大鉄屋堀尾與左衛門(よざえもん)の妹の母おりんとの間に誕生。幼名はおつる。

父は磐代の生まれる前に医者の修行のために浪人となって京都に出たが、磐代が9歳のときに父宗賢が迎えに来て上洛。「新・大江磐代君伝」中村見自著によれば知り合いに養女に出されたが、自分には過ぎた娘と3年ほどで返され、禁裏使い番生駒守意夫妻のもとで教養、礼儀作法を身に着けたのち、父が出入りしていた即心院に(引退した大典待長橋の局)奉公に上がり、のちに遺言で多額の遺産分けされるほど大変かわいがられたということ。

そして即心院のもとをよく訪問された閑院宮妃(中御門天皇第5皇女で籌宮成子 (かずのみや ふさこ) 内親王の目に留まり、明和2年(1765年)、即心院が亡くなった後、23歳の時に閑院宮家に仕えることに。その後、27歳で典仁親王の側室となり、光格天皇含めて3人の皇子を出産。しかし出自が低いため、光格天皇出生の3か月前に閑院宮妃が亡くなったのにもかかわらず、光格天皇は閑院宮妃の出生ということになったそう。

光格天皇は身長も高く屈強な体つきで、以後の天皇の寿命や体格が激変したといわれていて、孫の孝明天皇もかなり大柄だったということ。

磐代は、典仁親王没後は出家して蓮上院となり、次男で聖護院門跡宮家を継いでいた第7皇子盈仁入道親王のもとで暮らし、文化9年(1812年)に69歳で没。

2、光格天皇、天皇に即位

image by PIXTA / 50591760

光格天皇は、もともとは閑院宮家から聖護院に入寺し出家する予定であったが、安永8年(1779年)10月、後桃園天皇が22歳で急に崩御。

生まれたばかりの欣子 (よしこ) 内親王が残され、皇子がいなかったため、当時3歳の伏見宮貞敬親王、光格天皇の長兄の21歳の閑院宮美仁親王、そして美仁親王の弟で当時8歳の光格天皇の3人が後継候補者に。しかし先帝の遺児欣子内親王を新帝の妃にということで、すでに近衛内前(うちさき)の娘と結婚していた美仁親王が降り、摂政の近衛内前は貞敬親王を、関白九条尚実は光格天皇を推薦。

会議の結果、貞敬親王の方が年下で内親王とも年が近いが、世襲親王家の中で創設が最近なので天皇と血筋が近い光格天皇が選ばれて、急遽亡くなった天皇(まだ生きていることになっていた)の養子に。

安永8年(1780年)11月に践祚。直前に儲君となったが、立太子はなし。この時、先々先代の女帝、後桃園天皇の叔母の後桜町上皇は、皇嗣継承問題で伏見宮と接触、近衛内前と共に貞敬親王を推したということ。 安永9年(1780) 12月に、光格天皇は9歳で天皇即位の大礼が行われ、119代光格天皇に。

3-1、光格天皇の業績

Emperor Kōkaku.jpg
豊岡治資(原本) – The Japanese book “光格天皇と幻の将軍:京都・日光・例幣使栃木県立博物館第70回企画展特別企画展 (Kōkaku Tennō to Maboroshi no Shōgun : Kyōto Nikkō Reiheishi. Tochigi Kenritsu Hakubutsukan Daishichijikkai Kikakuten Tokubetsu Kikakuten)”, Kasumi Kaikan (霞会館), 2001, パブリック・ドメイン, リンクによる

徳川将軍をはじめ、大名家、旗本などでも、分家や他家から養子に入って本家を継いだ人は有能な人が多く、本人も自覚して勉学に励み、幕政改革、藩政改革を行うという傾向にありましたが、何かしたいとかしなくちゃいけないという気持ちになるのかも。

光格天皇も9歳で即位したが、傍系からの天皇と軽んじる雰囲気もあったということで、光格天皇は後桜町上皇のすすめもあって必死に勉学に励み、成長後には天皇に即位した幸運に感謝しつつ本来の天皇の在り方を模索したということ。

博学多才で学問に熱心、作詩や音楽も嗜んだという光格天皇の業績をご紹介しますね。

\次のページで「3-2、御所千度参りに応える」を解説!/

次のページを読む
1 2
Share: