今日は御成敗式目(ごせいばいしきもく)について勉強していきます。御成敗式目とは1232年に制定された武士に向けた法律で、これは執権・北条泰時を中心として作られたものです。

最も、その内容は源頼朝以来の先例と道理にならってもので、武家社会の習慣や実態が基準となっている。今回は、御成敗式目について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から御成敗式目をわかりやすくまとめた。

武家政権の始まり

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鎌倉幕府の誕生

平安時代の終わり頃、これまで政権を握っていた公家の立場が弱くなっていきます。保元の乱・平治の乱……当時起こったこれらの戦いで活躍したのはいずれも武士であり、そのため武士の力が全国的に認められるようになっていき、そこで頭角を現したのが平清盛でした。

平清盛は日本で初めての武家政権を築き、自身も武士の身でありながら太政大臣に任命されるほどの地位を手にします。しかし平氏の時代も決して長くは続かず、かわって力を高めてきたのが源氏であり、源平合戦に勝利した源氏は1185年に源頼朝が鎌倉幕府を開きました

源頼朝による再びの武家政権、将軍となった源頼朝に従う武士達はやがて御家人と呼ばれるようになります。源頼朝は将軍と御家人の主従関係を確立するため御恩と奉公を成立させ、将軍は仕える御家人に対して御恩で土地を与え、御家人もまた将軍に対して奉公で尽くしました。

幕府と朝廷の戦い

さて、鎌倉幕府が開かれたと言ってもそれは全国支配を意味するものではなく、幕府の支配力が及んでいたのは東日本のみになります。では西日本を支配していたのは誰なのか?……それは朝廷で、武家政権が築かれてもなお西日本は朝廷が支配していたのです。

しかし、そもそも征夷大将軍とは朝廷から任命されるものであり、その点で考えても本来の立場は「朝廷>幕府」となります。ただ幕府には武力という武器があるため支配力が強く、朝廷はそんな現状を良しとしませんでした。そこで、朝廷は将軍を巡る争いをして混乱する幕府を滅亡させる機会と捉えて戦いを挑みます。

それが1221年の承久の乱、朝廷の後鳥羽上皇を中心に鎌倉幕府を滅ぼすために挙兵したのです。上皇の挙兵にはさすがの幕府も怖れましたが、やはり武士は強くすぐさま反撃、後鳥羽上皇率いる軍を打ち破って勝利した幕府は後鳥羽上皇を京都から追放して、西日本の支配にも成功しました

\次のページで「御成敗式目を制定したいきさつ」を解説!/

御成敗式目を制定したいきさつ

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地頭の設置

承久の乱で勝利した幕府は、後鳥羽上皇に味方した公家や武士の土地を没収、その数は実に3000か所にも及びました。それはつまり幕府の支配する土地が広がったことを意味しますが、そうなると考えなければならないのがその3000か所もの土地を管理するための方法です。

それぞれの土地を管理するには、それぞれの土地を管理する者がいなければなりません。そこで幕府は各土地に地頭を設置、地頭に任命されたのは承久の乱で活躍をした御家人です。地頭は朝廷の支配地である公領、公家が所有する荘園にも設置され、年貢の徴収を役割としていました

最も、「年貢の徴収=土地を所有」ではないですから、地頭が行うのはあくまで年貢の徴収であって土地を支配しているわけではありません。しかし地頭も元は武士である御家人、さらに鎌倉幕府という巨大な力がついていたことから、土地の支配権も手に入れたいと考えるようになっていきます。

裁判の基準の明確化

土地の支配権を手に入れたい気持ちが強かったのが原因なのか、やがて地頭は元の土地の所有者である荘園領主らと衝突するようになりました。土地の支配権、年貢の税率、こうした部分で意見が食い違うようになっていき、各地で地頭がトラブルを起こすようになってしまったのです。

さらに武士も争うになります。御家人と御家人が争うケース、御家人と非御家人が争うケース、争いが起こるたびに訴訟が起こって裁判が必要となり、そのため執権・北条泰時は裁判の基準を明確にする必要があると考えました。そこで、北条泰時が制定したのが1232年の御成敗式目です。

つまり、御成敗式目とは御家人と御家人、もしくは御家人と荘園領主との間で起こった争いに対して正しい裁判を行えるよう、その基準を示す目的で作られました。その対象は主に御家人に対してとなっていて、つまり公家ではなく武家のための法律であることが御成敗式目の特徴です。

守護と地頭の違い

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守護の解説

地頭と共に設置されたのが守護、守護・地頭の設置は鎌倉幕府の政治政策の特徴でもあり、そこでこれらの違いについて解説しておきましょう。守護は各国に1人配置されていて、その国の中で御家人を取り締まっていました。要するに、軍事や警察に相当する役割と言えます。

主な職務は大犯三か条として示され、大番催促、謀叛人逮捕、殺害人逮捕の3つです。大番催促とは京都の大番役……すなわち朝廷の警備、謀叛人逮捕とは幕府や朝廷に反抗した者に対する逮捕、殺害人逮捕とは殺人を犯した者の逮捕、これらは文字からも連想できると思います。

ただ、諸国を治めるという同じような目的で朝廷が国司を設置していたため、守護と国司による二重支配が後に問題視されるようになりました。ちなみに、守護の中には力をつけて守護大名へと出世する者も現れるようになり、さらに力をつけた守護大名は戦国大名へとなったのです。

\次のページで「地頭の解説」を解説!/

地頭の解説

各国に1人設置された守護に対して、地頭は各荘園・公領に設置されました。これは役割の違いが理由となっていて、国を取り締まる守護に対して地頭はあくまでも年貢の徴収が主な役割でしたから、その対象となる各地の荘園や公領に設置されていたのです。

最も、時には軍事や警察に近い仕事を命令されることもあったようで、元々地頭は御家人出身だったことから、起こった紛争に対しても武力解決を図るケースが多々ありました。時には横暴だった地頭、「泣く子と地頭には勝てぬ」のことわざはこの時の地頭が由来になっています。

しかし、室町時代になった頃には守護との権限に差が出てしまい、経済力を手に入れた守護の家臣たる存在に成り下がってしまいました。そのため地頭の役職が輝くのは鎌倉時代のみであり、室町時代になると地頭は名ばかりの役職。さらに、室町時代の中期になった頃にはもはや地頭の名前すら聞かなくなりました。

御成敗式目の内容

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土地に関する条文

土地の争いを起点に制定された法律だけあって、御成敗式目には土地に関する決め事が記されています。中でも特に特徴的かつ重要なのは、将軍に与えられた土地の支配権が保証されたことで、そのため御成敗式目の制定によってむやみに土地の支配権を奪う行為は禁止されました。

ただしこれには時効も認められており、20年間その土地を支配し続けた場合においては支配権が認められています。また、親から子へと土地を譲るケースがありますが、子供が親不孝となる行為をおかした場合は土地を取り返すようになっていて、これを悔返や悔返し権と呼びました。

また、上記での「守護・地頭の違い」の解説の中でそれぞれの役割について触れていますが、それは御成敗式目の中で記されていることです。守護の役割である大犯三か条、地頭の役割である年貢の徴収などに関しては、いずれも御成敗式目の中で条文として定められたものでした。

公家法との区別

御成敗式目は土地のこと以外にも裁判に関すること、罪を犯した場合のこと、遺産相続のことなど様々な分野において記されています。武士のみが対象とは言えまさに法律に相応しい内容ですが、実は御成敗式目が制定される以前にも法律たるものは制定されていました。

それは701年の大宝律令を起源として作られた公家法で、ただ公家法はその内容の複雑さから武士には理解が難しかったようです。北条泰時によれば公家法の理解は源頼朝ですら難しかったようで、そこで武士のために分かりやすい法律を作ろうとした部分もありました。

ですから御成敗式目は既に存在していた公家法を否定するものではなく、またそれに修正を加えたものでもありません。あくまで武士のための法典というのが御成敗式目の位置付けです。こうした武士のための法律は、御成敗式目が起点となって鎌倉幕府滅亡後も作られていきました。

御成敗式目の影響を受けて作られた法律

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\次のページで「戦国大名による分国法」を解説!/

戦国大名による分国法

武士の法律の一つとして挙げられるのが分国法、これは戦国時代に戦国大名が制定したものです。戦国時代において権力など皆無、武力が全てを決める時代であり、下位の者が上位の者を打ち破る下剋上が起こっていました。そして、このような勢力は幕府や朝廷の権利にも従おうとしなかったのです。

その勢力とは戦国大名、ただ戦国大名もまた家臣の反乱に警戒する必要があり、そのためせっかく領土を手に入れてもその地位が安定することはありません。そこで戦国大名が定めたのが分国法で、武士に法律を定めることでスムーズな領土運営を図ろうと考えました。

最も、分国法は統一されたものではなく、大名によってその内容はバラバラになっています。とは言え、いずれの分国法も御成敗式目が元になっていたようで、特に武士の権威と生活の要となる土地において細かく制定された御成敗式目は、戦国大名にとって大いに参考になりました。

徳川家による武家諸法度

武士の法律をもう一つ挙げると、徳川将軍が制定した武家諸法度があります。武家諸法度が最初に制定されたのは1615年でしたが、将軍が代替わりするたびにその内容が改訂されており、徳川15代将軍の中で武家諸法度を制定しなかったのはわずか2人しかいませんでした。

天下統一を果たした徳川家、政権を掌握した次にすべきことはその政権の維持と安定です。特に力を持つ大名の反乱には警戒する必要があったため、それを防ぐために武士に決まり事を作ろうと武家諸法度を制定しました。ですから、その内容は必然的に徳川家にとって有利なものになっています。

武家諸法度の制定は「武士のため」ではなく「徳川家のため」、要するに大名の反乱をけん制しつつその勢力を弱めるのが目的でした。鎌倉時代に制定された御成敗式目は、このようにして鎌倉幕府滅亡後も分国法や武家諸法度に影響を与えていたのです。

御成敗式目は初めての武家法で鎌倉時代に制定された!

御成敗式目のポイントは、初めて定められた武家法という点です。御成敗式目を覚えた現時点では気にならないと思いますが、歴史を学ぶ中ではやがて今回も少し触れた分国法や武家諸法度が登場してきます。

これらはいずれも武士に対する法律のため区別しづらく、そのため間違えやすいのです。ですから「御成敗式目=初めての武家法で鎌倉時代に制定された」としっかり覚えておきましょう。

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日本史歴史鎌倉時代

初めての武家法となる「御成敗式目」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は御成敗式目(ごせいばいしきもく)について勉強していきます。御成敗式目とは1232年に制定された武士に向けた法律で、これは執権・北条泰時を中心として作られたものです。

最も、その内容は源頼朝以来の先例と道理にならってもので、武家社会の習慣や実態が基準となっている。今回は、御成敗式目について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から御成敗式目をわかりやすくまとめた。

武家政権の始まり

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鎌倉幕府の誕生

平安時代の終わり頃、これまで政権を握っていた公家の立場が弱くなっていきます。保元の乱・平治の乱……当時起こったこれらの戦いで活躍したのはいずれも武士であり、そのため武士の力が全国的に認められるようになっていき、そこで頭角を現したのが平清盛でした。

平清盛は日本で初めての武家政権を築き、自身も武士の身でありながら太政大臣に任命されるほどの地位を手にします。しかし平氏の時代も決して長くは続かず、かわって力を高めてきたのが源氏であり、源平合戦に勝利した源氏は1185年に源頼朝が鎌倉幕府を開きました

源頼朝による再びの武家政権、将軍となった源頼朝に従う武士達はやがて御家人と呼ばれるようになります。源頼朝は将軍と御家人の主従関係を確立するため御恩と奉公を成立させ、将軍は仕える御家人に対して御恩で土地を与え、御家人もまた将軍に対して奉公で尽くしました。

幕府と朝廷の戦い

さて、鎌倉幕府が開かれたと言ってもそれは全国支配を意味するものではなく、幕府の支配力が及んでいたのは東日本のみになります。では西日本を支配していたのは誰なのか?……それは朝廷で、武家政権が築かれてもなお西日本は朝廷が支配していたのです。

しかし、そもそも征夷大将軍とは朝廷から任命されるものであり、その点で考えても本来の立場は「朝廷>幕府」となります。ただ幕府には武力という武器があるため支配力が強く、朝廷はそんな現状を良しとしませんでした。そこで、朝廷は将軍を巡る争いをして混乱する幕府を滅亡させる機会と捉えて戦いを挑みます。

それが1221年の承久の乱、朝廷の後鳥羽上皇を中心に鎌倉幕府を滅ぼすために挙兵したのです。上皇の挙兵にはさすがの幕府も怖れましたが、やはり武士は強くすぐさま反撃、後鳥羽上皇率いる軍を打ち破って勝利した幕府は後鳥羽上皇を京都から追放して、西日本の支配にも成功しました

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